常磐高速バス盛衰記(5)~平成元年 新宿-常陸太田「常陸太田」号が開いた新境地~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
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昭和から平成へと年号が変わり、最初に登場した「常磐高速バス」である「常陸太田」号は、定刻16時ちょうどに、常陸太田駅前を発車した。

 

 

昭和2年の建築という古さを感じさせない小綺麗な瓦屋根の駅舎の背後に、こんもりと木々を繁らせた小高い丘陵が顔を覗かせ、駅の脇の車庫で待機していた新宿行きのバスは、ゆっくりとその巨体を駅前通りに進めていく。

通りの向かいには、平成18年に廃止された日立電鉄の常北太田駅があったはずだが、こちらの方はよく覚えていない。

常陸太田とは案外起伏がある土地なのだな、と感じた記憶だけが残っている。

 

この便はJRバス関東の担当で、「東名ハイウェイバス」や東京と名古屋・関西を結ぶ夜行高速バス「ドリーム」号にも使われていた馴染みのハイデッカー車両P-MS735SA型だったから、懐かしさが込み上げてくる。

多少古びてはいるものの、さすがは夜行便にも用いられた車両だけあって、座席の座り心地は申し分ない。

今にしてみれば、この車両が夜行バスに用いられていたのか、と信じていただけないかもしれないけれど、昭和の終わり頃の「ドリーム」号は、タイヤハウスがでん、と客室に盛り上がっているような低床式のバスが大半であったから、P-MS735SA型に当たった時はツイている、と嬉しかったのである。

 

 

この高速バス路線が平成元年10月に開業して間もなくの日曜日、常陸太田から南下する国道349号線の沿道は鮮やかな紅葉に彩られていた。

常陸太田と言えば、水戸光圀が隠居した西山荘が有名であることを思い出す。

紅葉の名所とも聞いているから、今日あたりは観光客でいっぱいなのだろうな、と思う。

 

常陸太田を訪れるのは初めてのことで、無論のこと西山荘も未見であるから、足を伸ばしてみたい気もする。

けれども、僕は、東京駅と水戸駅を結ぶ高速バス「みと」号の昼前の便に乗り、水戸駅から水郡線の常陸太田駅まで、赤いディーゼルカーに揺られて着いたばかりで、駅から路線バスで15分の西山荘どころか、何処を観光する時間も残されていなかった。

早起きして1~2本前の「みと」号に乗れば、少しは時間を作れたのかもしれないけれど、僕だって休日くらいは朝寝坊がしたい。

 

 

『水郡線の名は水戸と郡山を結ぶところからきているが、郡山の1つ手前の安積永盛で東北本線に合流するので、公式の営業区間は水戸-安積永盛間137.5キロとなっている。

距離が長く、沿線の眺めも概して平板だが、時間のことなど忘れてのんびり揺られるにはよい線である。

郡山行きのディーゼルカーは、忙しく発車していく常磐線の交直両用電車に尻を向けるかのような恰好で停車していた。

水戸駅の東のはずれに切込まれた短いホームが水郡線の発着所になっている。

水戸から15分、ゴボウ畑などのなかを走って上菅谷に着くと、女子高生が乗り始める。

ここから常陸太田まで9.5キロの支線が分岐している(「最長片道切符の旅」)』

 

紀行作家宮脇俊三氏が描く水郡線である。

 

僕が乗車したのは水戸駅を14時19分に発車する郡山行き337Dで、14時46分に上菅谷駅に着き、14時49分発の支線の535Dに乗り換えて、常陸太田には15時06分に到着した。

水郡線そのものの運転本数は決して多くはなく、上菅谷と常陸太田を結ぶ支線の運転本数は更に少なくて1~2時間に1本程度、535Dの前には上菅谷13時50分発の533D、その前は11時40分発の531Dである。

 

西山荘を散策するためには、531Dあたりに乗れば程良い頃合いなのであろうが、そのためには水戸11時09分発の郡山行き331Dに乗る必要があり、それに間に合う「みと」号も、現在のような頻回の運行本数ではなかったので、東京7時50分発の下り始発便しかなく、自宅を7時前に出なければならない。

実際に僕が乗車したのは東京駅12時10分発の便であり、旅の主目的が「常陸太田」号に乗ることであるから、西山荘は僕にとって付録のようなものである。

4時間も余計に布団に潜り込んでいられるのだから、この誘惑に打ち勝てる人間はそれほど多くないのではないか。

 

水戸駅からの短いディーゼルカーの旅は、脇目も振らず高速道路を疾走してきた「みと」号とは対照的に、時が静止しているかのような穏やかな雰囲気が漂っていた。

高速バス好きの僕であるけれど、時には鉄道の旅もいいものだな、と思う。

このようなローカル線にぼんやりと揺られていることが、何やら現実離れして、不思議なことのように感じられる。

高速バスは一生懸命走り過ぎだぞ、とまで思えてくる。

それでも、「常陸太田」号に乗ろうとしなければ、水郡線に乗ることもなく、常陸太田を訪れる機会もなかったであろうから、付録などと失礼な言葉が念頭に浮かんでも、勘弁して貰わなければならない。

 

 

「常陸太田」号は、久慈川を渡って那珂町域に入り、額田十文字とひばりヶ丘、那珂町役場前に停車するけれども、乗ってくる客はいなかった。

宮脇俊三氏は水郡線の車窓で目にしたゴボウ畑について記しているが、国道を走っていると、並行している鉄道よりも遥かに沿道の建物が多く、ゴボウ畑は見当たらなかった。

ゴボウの旬は、新ゴボウが初春、その他は11月から1月と言われているから、そろそろ収穫時期を迎えるはずである。

 

那珂町は、昭和30年に菅谷町、五台村、額田村、神崎村、戸多村、芳野村、木崎村が合併して発足し、平成17年に瓜連町と合併して市制が敷かれることになるが、町内を貫く水郡線に那珂の名を冠した駅はなく、役場がある中心部は、支線が分岐する上菅谷駅のあたりである。

十文字とは街道が交差する場所を意味しているものと思われ、東京駅と日立駅・高萩駅を結ぶ高速バス「ひたち」号にも川尻十文字というバス停があり、北関東に目立つ地名である。

「常陸太田」号の額田十文字は、国道349号線と県道62号常陸那珂港山方線との交差点に設けられ、水郡線支線の額田駅に近い。

 

ひばりヶ丘とは、地方には珍しく月並みな地名であるが、この地域はひたちなか市や水戸市のベッドタウンと聞いているので、新興住宅地でもあるのだろうか。

不意に、いしいひさいちの4コマ漫画集「鏡の国の戦争」に載っていた司令官の前線視察の1篇を連想した。

 

司令官「(双眼鏡を覗きながら)あの高地はなんというのかね」

参謀「(地図を見ながら)ハイ、201高地です。となりが182高地です」

司令官「味気ないな。201とか182とかいうのはなんとかならないのかね」

参謀「ハア、その点については改善されつつありますが」

司令官「あそこの高地はなんというのかね?」

参謀「あそこは希望ヶ丘、となりが新若葉台です」

司令官「分譲団地か、バカもの!」

 

日常における人間の怠惰さや間抜けさを浮き彫りにしたナンセンスなギャグを描かせれば並ぶ者のないいしいひさいちが、戦争という極限的な非日常を舞台にしながら日常と変わらぬ笑いを当てはめた「鏡の国の戦争」は、僕が大好きな漫画の1つで、初めて読破した時には笑い転げたものだった。

 

 

僕が乗っている便の客は極めつきに少なく、数人が始発の常陸太田駅前から乗り込んで来ただけで、誰もが後方の座席でひっそりと籠もっているから、最前列の席に座っていると気配が感じられない。

唯一、若い運転手さんの運転動作だけがきびきびとしていて好ましく、ハンドルさばきは滑らかで、左右や後方の安全確認も怠りなく、安心して見ていられる。

 

地方と大都市を結ぶ昼行高速バスの利用客は、午前中の上り便と午後の下り便に集中するのが通例のようで、開業当初の「常陸太田」号も、下り便の新宿発が9時30分、15時30分、18時00分、19時30分、上り便の常陸太田発が7時00分、8時00分、9時30分、16時00分と、地方側に住む人々が東京を行き来するのに便利なダイヤとなっている。

僕のような東京在住の人間にとっては、午前の下り便と午後の上り便に1往復が割り当てられていることに感謝すべきであろう。

 

 

1日4往復で運行を開始した「常陸太田」号であったが、4年後の平成5年に午前の下り便を夕方に振り替え、また4往復中2往復を土日祝日及び多客期の季節運行に変更している。

同時に常陸太田市内に河合十文字、那珂市内に額田南郷、竹の内、かしまだ台団地、湊街道口、上菅谷駅口の停留所が新設され、額田十文字とひばりヶ丘が廃止される。

平成11年には、せっかく設けた竹の内、かしま台団地、湊街道口、上菅谷駅口を廃止したものの、平成12年に毎日4往復の運行に戻され、那珂ICに停留所が新設された。

平成13年に、常陸太田の西にある水郡線沿線の主要都市、常陸大宮と東京を結ぶ高速バス路線が開業し、「常陸太田」号と同じく那珂市内を経由するため、「常陸太田」号が1日3往復に減便されるものの、翌平成14年には毎日4往復のダイヤに戻され、平成12年に開業した那珂・勝田と東京を結ぶ高速バスが平成19年に廃止されたことで「常陸太田」号が1日6往復に増便と、なかなか波瀾万丈の歩みである。

 

 

「常陸太田」号の所要時間は上り便・下り便とも3時間30分であり、往路で利用した「みと」号の1時間50分の2倍近くである。

 

常陸太田は、阿武隈山地の南端に抱かれ、東の多賀山地、西の八溝山地へ連なる久慈山地の麓であるから、いわば関東平野の北の縁に当たる。

だいぶ北まで来ているような印象があったのだが、那珂ICから常磐自動車道に入ると、次が水戸北IC、その次が水戸ICであるから、そんなものか、と拍子抜けする。

常陸太田駅から那珂ICまでは14km程度、30分も掛からなかったし、那珂ICと水戸ICの間の常磐道も14km程度で、10分あまりの距離である。

「みと」号より1時間半も長い所要時間は、何処で費やされるのだろうか。

 

「お客さんは、東京ですか」

 

高速道路に入って運転操作に少し余裕が出て来たのか、運転手さんが話し掛けて来た。

 

「はい、そうです」

「常陸太田は観光でしたか」

 

このバスに乗りに来たとは、なかなか言いにくいことである。

「常陸太田」号に乗るのは、西山荘の見学に比しても、旅の目的として決して劣っているとは思わないけれど、他人には理解しがたいかもしれない。

 

「まあ、そんなとこです」

「自分も東京の人間ですけど、常陸太田にバスを走らせるって聞いて、最初、ピンと来なかったんですよ」

「JRさんは昼も夜もたくさんの高速バスを走らせてますし、勢いがあって凄いじゃないですか」

「でも、この便はこんなですから」

「まあ、知名度が上がるまではこんなもんじゃないですか」

「私ら、新宿発着にしたからじゃないかと心配しているんですがね。どうして常陸太田だけ新宿にしたのかな。私らも東京駅に乗り入れたいですよ」

 

その点は、僕も、不思議に感じていた。

「常磐高速バス」と言えば東京駅を起終点にすることが定番であったが、「常陸太田」号は新宿発着で、上り便だけ上野駅を経由していたのである。

 

常磐道に繋がっている首都高速6号向島線の慢性的な渋滞による遅延を避けるべく、昭和63年に開業した東京と平を結ぶ「いわき」号は、上り便に限って首都高速を加平ランプで下り、綾瀬駅に停車する措置を取った。

平成3年より、東京駅を発着する「常磐高速バス」全路線が、上り便は向島ランプで降りて上野駅を経由するようになったが、「常陸太田」号はその先鞭となったのである。

起終点が東京駅ではなく新宿駅を選択した理由も、首都高速の渋滞を避けるためと、多数の路線が乗り入れるようになった東京駅八重洲南口バスターミナルの容量が不足し始めていたのかもしれない。

 

 

「常陸太田」号はJRバス関東が東京駅に次ぐ拠点として設けた、新宿駅南口バスターミナルを発着する最初の路線であった。

新宿駅南口を発着する高速バスは、その後の四半世紀に、猛烈な勢いで増えていくことになる。

 

平成元年10月開業の「常陸太田」号に続いて、

 

平成2年3月:新宿-京都「ニュードリーム京都」号

同年8月:新宿-仙台「正宗」号開業

同年10月:東京・新宿-堺「ドリーム堺」号

同年12月:新宿-大阪「ニュードリーム大阪」号

平成4年4月:東京・新宿-長野・湯田中「ドリーム志賀」号

平成10年3月:新宿-名古屋「ニュードリーム名古屋」号

同年7月:新宿-郡山・福島「あぶくま」号

同年10月:東京・新宿-和歌山「ドリーム和歌山」号

平成11年9月:新宿-神戸「ニュードリーム神戸」号

同年10月:新宿-草津温泉「上州ゆめぐり」号

同年12月:新宿-会津若松「夢街道会津」号

平成12年3月:新宿-那珂・東海(後に勝田へ延伸)「勝田・東海」号

同年4月:新宿-東京ディズニーランド

同年12月:新宿-水戸「みと」号

平成13年1月:新宿-那須温泉・塩原温泉・西那須野「那須塩原」号

同年3月:新宿-名古屋「中央ライナー」号

同年3月:新宿-津和野「いわみエクスプレス」号

同年4月:新宿-高遠・伊那里「南アルプス」号

同年7月:新宿-佐野・宇都宮「マロニエ新宿」号

同年8月:新宿-金沢「金沢エクスプレス」号

同年10月:東京-福井「ドリーム福井」号乗り入れ

平成14年2月:新宿-中津川(後に多治見・瀬戸へ延伸)「中央ライナー」号

同年3月:新宿-大阪「青春ニュードリーム大阪」号

同年3月:新宿-京都「中央道昼特急京都」号

同年7月:新宿-常陸大宮(後に烏山まで延伸)

同年12月:新宿-京都・奈良「青春ニュードリーム京都・奈良」号

平成15年7月:新宿-大阪「中央道昼特急大阪」号

同年7月:新宿-伊香保温泉「伊香保温泉」号

同年12月:新宿-山形「さくらんぼ」号

平成16年3月:新宿-大清水「尾瀬」号

同年12月:新宿-徳島・高松「ニュードリーム徳島・高松」号

平成17年10月:新宿-足利「足利わたらせ」号

平成18年8月:新宿-可児「中央ライナー」号

平成19年6月:新宿-静岡「駿府ライナー」号

同年10月:東京-岡山「京浜吉備ドリーム」号乗り入れ

平成20年1月:東京-大阪「プレミアムドリーム」号と東京-大阪「東海道昼特急大阪」号乗り入れ

同年7月:新宿-大阪「青春中央エコドリーム」号

同年7月:東京-京都「東海道昼特急京都」号乗り入れ

平成21年10月:新宿-小諸「佐久・小諸」号

同年12月:新宿-名古屋「新宿ライナー三河・名古屋」号

平成23年4月:新宿-伊勢崎「伊勢崎ライナー」号

同年10月:東京-高知「ドリーム高知」号乗り入れ

平成25年3月:東京-松山「ドリーム松山」号

同年3月:東京・新宿-大阪「プレミアムエコドリーム大阪」号

同年11月:東京・新宿-大阪「プレミアムエコレディースドリーム」号

同年12月:新宿-水上温泉「上州湯けむりライナー水上温泉」号

平成26年10月:東京・新宿-大阪「グランドリーム」号

同年10月:新宿-館山「新宿なのはな」号

平成27年3月:新宿-名古屋「新東名スーパーライナー新宿」号

 

 

これらの路線には、廃止されてしまったり、運行形態が変わってしまったものも少なくない。

それでも、関越道、中央道、東北道方面路線を新たに展開する拠点としてばかりではなく、東京駅から東名高速経由で名古屋・京阪神方面を結ぶ老舗の夜行高速バス「ドリーム」号に追いつき追い越せと言わんばかりに、新宿発着中央自動車道経由の「ニュードリーム」号が次々と拡充されていく様は、新たな時代の到来を思わせて、バスファンとしては大いに心を躍らせたものだった。

 

新宿には、昭和44年6月に開業した小田急「箱根高速バス」の新宿駅西口35番乗り場や、昭和46年7月に開業した京王バスの「中央高速バス」を主体に発展した新宿西口高速バスターミナルがある。

国鉄の分割民営化から2年を経て、経営を軌道に乗せようと懸命だったJRバスが、なりふり構わず、営業エリアではなかった新宿に進出したのか、と目を見開いたことが昨日のようである。

 

 

東京駅に乗り入れたい、という運転手さんの言葉は、当時の現場の人々の新宿駅南口バスターミナルに対する懸念を反映しているのであろうが、東京の中心は西へ、西へと広がり、東京都庁も平成3年に有楽町から新宿副都心へ移転している。

「常陸太田」号も、平成19年に一部の便が東京駅発着に変更されたものの、新宿駅南口を発着する高速バス路線の猛烈な増加は、運転手さんの予想が良い方向で外れたことを端的に表している。

「みと」号も、平成12年に新宿系統を設けているし、東京駅を起終点にした高速バスで新宿に寄ったり、新たに新宿系統を設けた路線は多い。

 

僕にとって、平成に開設された新宿駅新南口バスターミナルの拡充は、新宿という街の発展と併せて、より身近に感じられる。

 

 

ただし、そのような未来のことなど、開業直後の「常陸太田」号の運転手さんも僕も、知るはずもない。

バスを軽快にスピードに乗せながら、後席の客にうるさくないかな、とちょっぴり気兼ねするほど、運転手さんは陽気に話し続ける。

 

「うちの会社は、高速で儲けなければ立ち行きませんから、力を入れるしかないんですよ。私ら運転手も、採用されると直ぐに高速の教習を受けるんです。こうした追い越しの時などは」

 

と、運転手さんはウィンカーを出して車線を変更し、前を走る大型トラックを抜きに掛かる。

 

「教官から、もっとアクセルを踏み込め、もっと踏め、と言われましたねえ。ほら、追い越して元の車線に戻ると、アクセルを戻しちゃう車がいるでしょう」

「なるほど」

「このバスは、古く見えますけど、馬力があって加速がいいんです。それに、運転席の前に鉄板を入れて補強してありましてね。鉄板ですよ、鉄板。乗っている人間をそこまで守ってくれるバスなんて、他にないですよ」

 

運転手さんは、どうやら「国鉄専用形式」と呼ばれる車両について語っているようである。

昭和44年の東名高速の全通に向けて、東名高速線の運行を計画していた国鉄バスは、名神高速線に使用された車両の実績を踏まえた特別設計の車両を導入することを決定し、そこで生まれたのが「国鉄専用形式」である。

 

その頃のバスやトラック用のエンジンは230~280馬力、1.5Lクラスの乗用車でさえ最高速度が時速120km程度であった時代に、「国鉄専用形式」の開発で要求された諸元は、まさに常識破りであった。

 

 ・エンジン出力は、ターボチャージャーなどの過給器を使わず320馬力以上

・最高速度時速が140km、巡航速度は時速100km

・バスストップにおける短距離での加速のため、3速で時速80kmまで加速可能な変速機

・停車状態から発進して400m先に達するまでのゼロヨンタイムが29秒以内、4速の時速80kmから時速100kmまでの追い越しが15秒以内という加速性能

・高性能ブレーキの採用と、4速で時速100kmの状態から時速60kmまでの減速時間を22秒以内とする排気ブレーキ

・従来の主エンジン直結式の冷房では渋滞時にバッテリーの消耗や登坂時などに出力が低下して発電力が低下したため、サブエンジン式の冷房装置の採用

・急激なエア漏れを防ぐチューブレスタイヤ

・トイレの設置

・高速走行での浮き上がりが防止されたワイパー

・30万kmをノンオーバーホールで運用が可能な耐久性

 

といった、当時のバスとは懸け離れた高性能がメーカーに求められ、耐久性が基準に到達していることを確認するために、時速100kmで20万kmにも及ぶ走行試験が課されたという。

それをクリアしない限り、国鉄東名高速線には採用されなかったのである。

 

各メーカーは国鉄の要求によく応え、日野自動車は320馬力の水平対向エンジンのRA900Pを49台製造し、三菱自動車は350馬力自然吸気V型12気筒OHVエンジンのB906Rを62台、MS504Qを38台、K-MS504Rを42台、日産ディーゼルは出力340馬力V8RA12027台とK-RA60S29台、いすゞ自動車は2台の納入にとどまったものの、330馬力自然吸気V型8気筒OHV32バルブのエンジンを搭載したBH50Pといったバスを世に送り出した。

車種によってはゼロヨンタイムが26秒に達する車両もあり、当時の開発担当者が、

 

「乗用車を追い越しても平気で走れる車両でした」

 

と回想する程の性能を秘め、東名・名神高速線のみならず、大阪と津山を結ぶ国鉄中国高速線や、国鉄とともに東名高速線に参入した東名急行バス、名神高速線を運行する日本急行バスにも用いられたのである。

 

 

昭和50年代になると、一般の観光バスや高速バスはハイデッカー車両が主流になる時代を迎え、国鉄も昭和59年にハイデッカーの導入を決定し、完成したのが、この日に僕が「常陸太田」号で乗っている三菱ふそうP-MS735SA型であった。

要求された仕様は昭和40年代とほぼ同様であるが、信頼性が低いと国鉄が敬遠していたターボチャージャー付きエンジンが導入され、V型8気筒350馬力、1速発進の5速MTトランスミッションという仕様の16台が世に送り出されて、「ドリーム」号を中心に運用された。

僕が初めて経験する夜行高速バスとして、昭和59年に「ドリーム」号京都系統に乗車したのも、この車両である。

 

「国鉄専用型式」は、当時にしてみれば無茶とも思える高性能を要求されたことで製造コストがかさみ、汎用性を持つには至らなかったが、高速道路網の整備が進むにつれてバスの高速利用が日常的になり、過剰と考えられた性能も、今日では標準的になっている。

 

P-MS735SA型は、最後の「国鉄専用形式」となった。

この車両が開発された3年後に国鉄が分割民営化され、また我が国の国産バスの性能が格段に向上したことから、JRバス各社は、特別な性能を求めてバスの開発を行う必要性がなくなり、市販車を購入するようになったのである。

 

「国鉄専用型式」は、我が国のバス技術を飛躍的に引き揚げる役目を果たすとともに、「常陸太田」号の運転手さんの話を聞けば、現場の人々からも厚く信頼を得ていた車両であったことが窺える。

 

 

常磐道三郷本線料金所をくぐり、首都高速三郷線に入ると、車の流れが徐々に滞り始める。

 

首都高速中央環状線に合流する江北JCTで、それまで防音壁に遮られていた視界が一気に開けた。

首都高速6号向島線に分岐する急な右カーブで、広大な河川敷を持つ荒川を渡りながら、左手前方に無数のビルがそそり立つ都心の夕景が一望の下となる。

続く左への曲線の途中にある向島ランプで、「常陸太田」号は高速を降りた。

墨堤通りを川沿いに南下して、言問橋で隅田川を渡り、言問通り、日光街道と浅草から上野界隈の密集する街並みを縫うように歩を進めて、上野駅入谷口に停車する。

 

上野駅入谷口の停留所は、後に「ドリーム」号なども乗り入れるようになったが、最初に僕が利用したのはTDLと上野駅を結ぶバスに乗車した時だった。

狭隘な路地に乗り入れて駅舎の脇に横づけされた記憶があるだけで、「常陸太田」号が同じ場所に停車したのかどうかは定かではない。

見覚えがある場所だな、と思った覚えがかすかに残っている。

 

上野で僕を除く乗客全員が降りてしまい、愛想良く声を掛けながら降車扱いをしていた運転手さんが、ほらね、と言わんばかりに、ただ1人だけ取り残された僕を振り向いて、苦笑いしたように見えた。

 

 

「常陸太田」号は、気を取り直したように昭和通りを南下し、電気店が軒を連ねる秋葉原の先で靖国通りに右折、皇居の北側を回り込んで外堀通り、甲州街道へと歩を進めていく。

 

周囲をぎっしりと車に取り囲まれて、さすがの「国鉄専用形式」も、その高性能を持て余してしまうような、のろのろとした進み具合となる。

信号では自慢の馬力にモノを言わせて猛然とダッシュするのだが、次の信号で引っ掛かってしまえば、追い抜いたばかりの軽トラックがせせら笑うように横に並んで来たりする。

 

それでも、バスでこのような経路を通ったことがなかった僕は、車窓を過ぎていく街並みが珍しくて、目を釘付けにしていた。

他の「常磐高速バス」が上野駅から東京駅まで要する時間は20分、「常陸太田」号は上野駅から新宿駅まで1時間10分を要する。

「常陸太田」号の所要時間の異様な長さは、上野から新宿までの都心横断が原因であった訳で、運転手さんが東京駅に乗り入れたい、と言ったのも無理はない。

 

 

「常陸太田」号の最後の見所は、終点の新宿駅南口バスターミナルであった。

 

後に、新宿駅構内の線路と高島屋に挟まれた流入路になったが、当時はタカシマヤタイムズスクエアもなかった時代で、何処からどのようにターミナルの中へ進入したのか、はっきりと覚えている訳ではない。

新宿駅への到着は定刻で19時30分、とっぷりと日が暮れて、バスの窓からはぎらぎらしたネオンが容赦なく差し込んで来ている頃合いだったから、ごみごみした場所に入っていくものだな、という印象しかない。

 

 

新宿駅南口は、甲州街道が新宿駅を跨ぐために大正14年に建設された新宿跨線橋の北側に設けられ、京王電鉄の駅が昭和20年まで南口の東側に置かれていた。

戦時中に電力不足で電車が跨線橋を登れなくなり、西口に駅が移転されたのは、有名な話である。

東口から西口へと順次発展を遂げた新宿駅周辺の街並みが、平成に入って南口へも裾野を広げ、平成3年に跨線橋の南側に新南口が開設、平成8年に、新宿貨物駅の跡地を利用したタカシマヤタイムズスクエアが新南口に隣接して完成し、平成10年には、小田急線の線路上空を利用して新宿サザンテラスができ、タカシマヤタイムズスクエアと線路上の歩道橋であるイーストデッキで繋がった。

 

老朽化していた跨線橋の改築とともに、その南側に人工地盤を設けてバスタ新宿とJR新宿ミライナタワーが完成するのは、今回の旅から四半世紀以上を経た平成28年のことである。

 

何時からどのような工事が行われていたのか定かではないけれど、僕の記憶の中にある新宿駅南口は、常に、工事の仕切りにあちこちが囲まれ、通行規制をする警備員が立ち、作業車の出入りが絶えることがなかった。

いつ、この街は完成するのだろう、と思ったものである。

 

だから、新宿駅南口に進入する「常陸太田」号がどのような場所に立ち入ろうとも、驚きはしないつもりだった。

 

 

ところが、そろそろと狭い流入路を進む「常陸太田」号の行く手に、いきなりVの字に深く窪んだ急坂が現れた時には、さすがに度肝を抜かれた。

床を擦らないのか、と心配している僕に構わず、バスは、コースの頂点に登り詰めたジェットコースターのように速度を落としてから、つんのめるように坂を下り、底でゆっくりと上向きに姿勢を変えると、今度はのけぞるような姿勢で登っていく。

乗っている分には面白いとも言えるが、運転手さんは大変だろうな、と思う。

未だに、この坂の上り下りの意味が分からない。

何かの構造物をくぐるためだったのか、それとも、建設中だった高島屋への搬入口が地下にあって、その通路だったのだろうか。

 

「お疲れ様でした。新宿です」

 

と運転手さんが扉を開けたのは、コンクリートの柱や梁が剥き出しの屋内乗降場だった。

頭上に被さっているのは、後に高島屋となる建物なのか、駅の構造物なのか、まるで穴蔵のような場所で、バスが中央の太い柱をぐるりと時計回りに回る位置で乗り降りさせるという、まさに急ごしらえとも言うべき構造だった。

 

 

新宿駅南口バスターミナルは、この後にも幾度か利用したけれど、待合室も乗降場と同じ空間の一角に設けられ、夏は暑く冬寒く、しかも排気ガス臭くて、決して居心地の良い場所ではなかった。

 

新宿駅の埼京線ホームに立つと柵越しにバスターミナルの全貌が丸見えで、電車を待つ時間に様々な行き先の高速バスが出入りするのを楽しく眺めた記憶は、今でも鮮烈である。

平成3年の新南口の開設に伴い、2代目のターミナルが改札口の真下に移転すると、外見は立派になったけれど、中に足を踏み入れれば、乗車券売場や通路は相も変わらず狭いままであった。

 

 

平成23年5月に「バスタ新宿」の建設工事が始まり、3代目のバスターミナルは更に南に押しやられて代々木駅に近い位置に移転した。

待合室は綺麗になったものの、乗降場が更に手狭になってしまったために、到着便は新宿駅東口ロータリーで客を降ろしていた。

 

今でも、「バスタ新宿」の賑わいを目にすると、30年前の「常陸太田」号に乗車した午後のひとときと、初めて乗り入れた初代の新宿駅南口バスターミナルの、如何にも仮普請といった佇まいが、懐かしく思い出される。

 

 

 

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