時じくの香の木の実 | ひだまり 日常生活

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私が初めて「時じく」という言葉に出会ったのは萬葉集で、山部赤人が不盡山(ふじのやま)を詠んだ歌です。

天地(あめつち)の、分れし時ゆ、神寂(かむさ)びて、高く貴き、駿河なる、富士の高嶺を。天の原、振りさけ見れば、渡る日の、陰も隠ろひ、照る月の、光も見えず、白雲も、い行きはばかり、時じくぞ、雪は降りける。語りつぎ、言ひつぎゆかむ。不盡の高嶺は。

巻三の三一七


「時じく」とは、時を定めず、常に、何時でもという意味だそうです。

この歌は絶え間なく雪が降っていて、まるで時という概念のない世界を感じさせられます。

「天地の分かれし時」は『古事記』の冒頭にも表現されている世界です。それは、浮脂のごと、大そらに、くらげなすたゞよへる時に、其中より、あしかび(葦牙)の如、萌え騰(あ)がりしは、天(あめ)となり、のこりとどまれるは地(つち)となれるのです。(『神代正語』参照)





その『古事記』の中で私の好きな話のひとつに「時じくの香(かく)の木の実(このみ)」というものがあります。


-また天皇(すめらみこと)三宅連等(みやけのむらじら)の祖(おや)、名は多遅摩毛理(たぢまのもり)を以ちて常世國(とこよのくに)に遣はして、ときじくのかくの木の実を求めしめたまひき。かれ、多遅摩毛理、遂にその國に到りて、その木の実を採り、縵八縵(かげやかげ)・矛八矛(ほこやほこ)を以ちて将(も)ち来たりし間に、天皇すでに崩(かむあが)りましき。
ここに多遅摩毛理、縵四縵(かげよかげ)・矛四矛(ほこよほこ)を分けて大后に献(たてまつ)り、縵四縵・矛四矛を天皇の御陵(みはか)の戸に献り置きて、その実をささげて叫び哭(おら)びて白さく、「常世國のときじくのかくの木の実を持ちて参上(まゐのぼ)りて侍(さもら)ふ」とまをして、遂に叫び哭びて死にき。そのときじくのかくの木の実は、これ今の橘なり。-

※常世國(とこよのくに)は『古事記』の上つ巻に少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)が海のかなたにある常世國からやってきて常世國へと去ってゆく場面にも記されています。とても美しい光景を思わせるくだりです。


『日本書紀』でも「時じくの香の木の実」と同じ話が書かれていますが、所々異なります。書紀では持ち帰った橘は縵八縵のまま天皇に献られていて、大后には献られていません。また、常世國から帰ってくるまで十年の月日を費やしたと具体的に書かれています。さらに『古事記』では叫び哭びて死にきとの表現ですが『日本書紀』では、あからさまな言葉で自殺となっています。

ところで、三宅連(みやけのむらじ)は新羅系の帰化氏族だそうです。たとえこの話が帰化氏族でさえ忠心を持っていたことを意図して書かれていたとしても、素直に大切な人のために十年もの年月をかけて時じくの香の木の実を求め歩いて帰ってくる姿、その心。それを見る視点を失ってはならない、私はそんなことを感じました。