1992年1月の第332回定期で久々に札響の指揮台に立った尾高。
私は初めて生で聴く「ドン・キホーテ」に期待したが、この日のR.シュトラウスも第319回の「英雄の生涯」と一緒でどこかおもしろみがない。清く正しく音楽は進行していくが、それ以上のものを与えてはくれなかった。
私の好みには尾高の演奏は合わないのか?
尾高という指揮者は決して嫌いではない。いい人っぽいし……
でも、いつも大なり小なり期待を裏切られてしまう。ってことは、やっぱり相性が悪いのだろうか?
マッシュルームちゃんの有望性
その翌月の第333回は札響専属指揮者の1人だった高関健(写真だけだとけっこう危ない人に見える)の登場。私にとって高関を聴くのはマーラーの8番に次いで2度目(定期では初タカセキ)。
まだ指揮者としての評価は定まっていなかった1992年当時の高関だったが、この日のバルトークのオケコンはまさに高関の得意料理って感じ。緻密なのに、無機質にならない。
3人の専属指揮者(ほかは小松と堤)のなかでは、いちばん将来有望だと思った(ウェーベルンも良かった!)。
さらに、もうけものだったのは2曲目。「スコットランド幻想曲」は初めて耳にする作品だったが、ベルリン・フィル第1コンサートマスターの安永徹もさすがなら、高関が札響から紡ぎだす詩情あふれる響きも見事だった。
熱狂できない予感と熱狂する確信
のちに札響が尾高・高関体制(2003年4月~)になってから感じたことだが、高関が指揮台に上るとなると、ワイルドにオケをドライヴしてくれそうで、たとえ演奏が粗削りになろうとも聴き手を感動の渦に巻き込んでくれるという期待があった。
このあたり、キャリアはもちろん違うが、キャラも尾高の対極にある(写真でもそれが伝わってくる?)。
そうなのだ。尾高が醸し出す育ちの良さや、(実際は違うのかもしれないが)ちょっとナルシストっぽいところが、彼が作り上げる演奏にも反映しているように私には思える。それが悪いとは言わないがスパイス不足だ。
一方、高関は(彼だって育ちは良いのだろうけど)、音楽に、指揮にのめりこむ。その現場主義的な一生懸命さが聴衆を興奮に導く。このあたりは岩城宏之に通じるところがある(尾高は秋山に通じるところがあるような気もするが、秋山のタクトから出てくる音楽はまったくつまらなくない)。
尾高がマーラーを振るとなったとき、私は楽しみではあるが熱狂するような演奏にはならないだろうという予言者的予感があった。しかし、高関がマーラーを取り上げるとなると、私はきっと何かやってくれる、私の心臓は高鳴るに違いない、という予言者的確信を抱いていた。そして実際、氏の演奏に裏切られたことはなかった。
ブルッフ(Max Bruch 1838-1920 ドイツ)の「スコットランド幻想曲(Schottische Fantasie)」Op.46(1880)。
正式な曲名は「スコットランド民謡の旋律を自由に用いた,管弦楽とハープを伴ったヴァイオリンのための幻想曲(Fantasie fur Violine mit Orchester und Harfe,unter freier Benutzung Schottisher Volksmelodien)」だが長ったらしいので、「いろいろな食材を見栄え良く自由に配した,つゆとねぎを伴ったそばのための一品」を「五目そば」と言うように、通常は「スコットランド幻想曲」と呼んでいる。
正式名からわかるように、ハープが活躍する曲でもある。序章と4つの楽章からなる。
チョン・キョンファのヴァイオリン、ケンペ/ロイヤル・フィルの演奏を。
1972年録音。デッカ。
第334回は、これまた大曲1本勝負というプログラムだが、残念ながら私は聴きに行けなかった。