現代貨幣論を根源的観点から解説してみる-文明・道具・使い方という政治【ヤンの字雷】 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

本日は、ヤン様の寄稿コラムです!

 

難解な現代貨幣論(MMT)について、ヤン様が、その概念の根本から解説してくださっている永久保存のエントリーです。

 

私は頭を使いながら、何度も何度も読み返すことになるでしょう。

 

そして、今回の「P.S」にて、ヤン様の物事の理解に努める真摯な姿勢が伝わり、私はヤン様の爪の垢を煎じて飲まなくては、と身が引き締まる思いでした。

 

皆様も今回のヤン様コラムをじっくりとご覧くださいませ。


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現代貨幣論を根源的観点から解説してみる-文明・道具・使い方という政治【ヤンの字雷】

現代貨幣論解説プロローグ-文明と文化と政経構造論

 本日は誤解や誤認も多い現代貨幣論を、いくつかの段階に分けて解説してみたいと思います。詳細な技術論は得意ではないので、現代貨幣論という概念の奥底部分に焦点を絞りたいと思います。

 なお詳細に書きすぎると、かなりの長文というか卒論くらいの長さになってしまいそうですので、要点のみを絞って解説していきます。

 

 貨幣とはなにか?現代貨幣論(以下MMTと表記)では貨幣を「債務と債権の記録」として捉えます(※1)が、この解釈にたどり着くまでの前段がいくつか存在します。つまり文明と文化の差異、歴史、人間観、政治と経済の構造論の4つが重要かと思います。

文明と文化と歴史

 文化とは習慣や習俗が伝統化したもの、ないし精神的活動と捉えられます。料理、演劇、音楽、アニメや漫画等々。茶道や武道、歌舞伎などもその範疇でありましょう。

 ちなみに日本の縄文文化は「縄文文明」とは一般的に呼ばれません。これは集落内での貨幣取引が存在していなかった、ないし集落の規模が文明と呼べるほどに大きくなかった、ということかと思います。ふと文字部分はじつは相互に関連しあっておりまして、※1の貨幣を「債務と債権の記録」は換言すれば「贈与と返礼」「(信用の意味での)貸し借り」でもあります。

 つまり縄文文化の集落規模では、貨幣という道具に頼らずとも頭で覚えておける「貸し借り」であった、と解釈可能です。

 

 文明とはなにか?合理的かつ拡大を伴う運動と定義できます。縄文文化の集落に比して、メソポタミア文明、インダス文明、エジプト文明等々。文明と呼ばれるものは規模が一つ違ってまいります。

 拡大する過程において数万人規模となりますと、一体誰が「貸し借り」を覚えていられるでしょう?記録する手段として最古と言われるメソポタミア文明でも「債務と債権の記録」が見つかっているのだそうです。

 上述した通り文明とは「合理的かつ拡大を伴う運動」と定義しました。しかし合理的であることは、必ずしも繁栄をもたらすというわけではないと歴史が証明しております。なぜなら・・・現実はときとして「正解のない選択肢しかない」という状況もあり得るからです。

 合理的に振る舞えれば、繁栄が約束されるはずだというのは理性の傲慢さに過ぎないのでしょう。

 

 貨幣は文明から生まれたものである以上、貨幣もまた文明的なものに過ぎないのです。

人間観、人間という生物の特色と現代文明

 人間とは社会的生物であるとよくいわれますし、私もそうであると思います。原子論的個人などという主流派経済学の人間観は、歴史学、哲学等々から、そして現実から否定されるべき、永遠にたどり着けない人間観であると断じることが可能です。

 

 さて、ここで思い出してほしいのですけれども文明と貨幣の出現は同時期でした。経済の定義とは「人の生活に必要な生産、分配、消費に対する一切の社会的関係性」と言えます。つまり縄文文化でも経済は確かに存在をしました。

 しかし現代文明を生きる我々にとっての経済の定義とは「貨幣経済」に他なりません。貨幣は文明の産物とも解釈できますから、つまり我々現代文明に生きるものにとって貨幣経済とはすなわち、文明なのです。

 

 文明とは合理的な振る舞いを求めるものですから、すなわち文明にとっての人間への要望は合理的経済人、原子論的個人ということになりますが、先程申し上げたとおりに合理性だけで繁栄が約束されるわけではないどころか、むしろ合理性ゆえに凋落をしていくことすらあるのです。失われた20年、アメリカの凋落などはその証左です。

 つまり現在の日本やアメリカの凋落、もしくは世界経済の長期停滞は本来の「人間が主、貨幣が従」という関係性が逆転し「貨幣が主、人間が従」という文明の行き過ぎ、文化の過小というアンバランスが起こっている結果と言えます。

政治と経済の構造論

 政治と経済のどちらが下部構造(土台)であると考えるのでしょう?政治は代替可能であるが、経済は代替不可能だから経済が土台なのでしょうか?それとも逆でしょうか?

 ときとして政治の間違いで経済や国内が混乱し、弾圧や虐殺が起これば当事者にとっては経済自体が営めなくなります。

 また責任論的に言えば、失業者が溢れたときに一体何に責任を求めるでしょうか?当然ながら政治です。

 経済の定義とは「人の生活に必要な生産、分配、消費に対する一切の社会的関係性」なのですから、そこに「主権」という文字は存在しなくても成り立ちます。社会的関係性が「従属、隷従」であれ、経済は成り立ちます。合理的に生かさず殺さず、という話の上で。

 

 とすれば現在の日本だけを見て「政治は代替可能」というのは恐ろしく平和ボケでありましょう。政治という権力はときに戦争や弾圧で人を殺すことすらできますし、また政治権力とは経済にも多大な影響を及ぼすものなのです。

 軍隊や警察、司法権、通貨発行権など様々な権能と暴力という機能を持つのが国家という共同体であり、国家という共同体こそが下部構造、すなわち土台なのです。ならば国家の行う「政治」は国家の判断と言えて、これも経済の下部構造と解釈できます。

 なぜなら政治とは権力であり、そして強制力なのですから。

現代貨幣論1章-文明の利器(道具)としての貨幣

 貨幣とは最初に生まれた文明の利器かもしれません。そして文明は必ず、共同体を成しておりました。そして共同体や社会という信用関係が主、貨幣が従という関係性でした。

 現在においてはその逆、つまり貨幣が主であり、共同体が従という逆転現象が起こっております。すなわちグローバリズム・新自由主義です。しかるに我が国はプライマリーバランスだとか財政健全化に躍起になっているわけです。貨幣に対する従属でありましょう。

 

 この貨幣に対する従属をやめるためには、貨幣という道具がどのようなものであったかを思い出し、理解し、そしてそれを使いこなす主とならねばなりません。たんに「あれは道具です」と切り捨てるのみでは、貨幣の”機能”を説明したとも、理解したとも言えないのです。

 貨幣とはパソコンやスマホに似ております。いつも使っている割に、その中身や構造、そして何ができるのか?を本当に知っている人はいますか?そのスマホや今この記事を見ている画面が、所詮は最終的に0と1の世界だとご存知でしょうか?

 お金も普段使っていてなんとなく知っている気でいますけれども、じつはその構造を知る人は意外なほどに少ないのです。主流派経済学すら根本的に間違えておりますから、恥じることではありません。

 

 「そんなことを知っても、やれることは変わらないじゃないか!なんの解決にもならないよ!」と仰るかもしれませんけれども、道具を知らずに使いこなせるわけがありませんし、政経論を発する人間であれば多少の興味は持つべきであろうと私は思います。

 料理の話で恐縮ですが、出刃、柳刃、牛刀、ペティなどの機能を知らずに、包丁がうまくなることはありえません。道具は使いこなせる主がいてこそ、道具なのです。

 つまり貨幣、そして通貨(流通貨幣)について知っていなければ、それは出刃で野菜を切り、柳刃で鯛の頭を割ろうとし、ペティでマグロをさばくが如しです。道具は「使いこなせる知識と知見」が必要なのです。

現代貨幣論2章-租税貨幣論概要

 政治とは権力であり、それはすなわち強制力であると述べました。国家はその機能を内包している共同体なのである、とも述べました。強権政治的悪政と善政の違いについては脇に置きます。

 しかし例えばジンバブエなどの自国政府が弱い国家は、容易に他国通貨(米ドルが主)になります。すなわちこれは統治能力が低いので、徴税もまともに行えず、他国通貨が国内に出回るという話になります。

 

 つまり国定貨幣で徴税をできる国家というのは、ある程度の統治能力を有していると言えます。ちなみにオサマ・ビンラディンはアメリカが嫌いだったようですが、米ドルは大好きであったようです。

 国定貨幣で徴税を行うとどのようなことが起きるのか?国民は徴税の義務を解消するために、国定貨幣で支払いますので、わざわざ他国の貨幣を使用するメリットがなくなり、国内は国定貨幣が通貨となります。

 

 我々日本国民は当たり前に日本円を使用しておりますけれども、明治維新を思い出していただければ理解可能な通り、明治政府は国定貨幣を定めたわけです。そしてそれによって徴税を行い、日本円が日本の”通貨”となりました。これも関連し、明治政府は富国強兵を円滑に進められたわけであります。

 徴税、そして通貨は富国強兵という政策をも可能にするのです。江戸幕府の”貨幣体制”で可能であったか?幕府の貨幣、藩札、私札の出回る体制で、両替商という”金融屋”が台頭した状況で富国と強兵が可能だったのかどうか?ぜひ考えてみてくださいませ。

 私から申し上げるとすれば、これは地方分権から明治政府の中央集権への切り替えと言えます。徴税によって通貨を流通させるというのもその一環でありましょう。

 

 租税貨幣論の概要とは述べてきた通り、徴税によって徴税の義務を解消するために通貨を使用し、通貨(流通国定貨幣)を国内で一般的にできるという論理です。徴税貨幣の種類が通貨を決定する、とも換言できます。

 まさに「道具は使いよう」です

現代貨幣論第3章-グローバリズムの定義と道具に使われる人々

 ここまで「政治は経済の下部構造である」「貨幣は道具である」「だからうまく使いこなさなければならない」等々を述べてまいりました。ではグローバリズム・新自由主義とはどのような現象なのか?一言で申し上げれば「道具に使われる人間を良しとする」という現象です。

 文明とは人間の精神活動(文化)において使いこなすべき「道具」ですが、文明は行き過ぎ、文化は劣化しているのが現代と言えます。つまり端的にいえば「道具に振り回されている」のです。

 

 料理人であれば「技量がない!!!」と罵声が飛んできそうな話です。

 

 道具に振り回されないためには、道具に振り回されない技量と、道具を知ることが大切です。グローバリズムとはまさに、貨幣という道具に振り回されている現象だからです。

 道具に振り回されるからと言って、道具のグレードを下げるのはバカのすることです。また「しょせん道具じゃないか!」と道具を侮るのもまた、愚か者のすることでしょう。敵を知り己を知れば百戦殆うからずといいますが、道具にもこれは当てはまります。

 現代貨幣論とは、主流派経済学が200年近く封印した「貨幣という道具」について議論を再燃させ、議論する一歩なのだと私は感じております。なにせ、グローバリズム・新自由主義が現代においてはびこり、それを良しと政治がするのは「貨幣という道具をよく知らないから」と感じるからです。

 猿に核兵器のボタンを与えたら、世界は破滅するでしょう?人類は未だに「貨幣」を本質的には理解していないのかもしれません。

 

 グローバリズム・新自由主義の定義とはまさに「貨幣に使われる人々」であり、ユヴァル・ノア・ハラリのサピエンス全史によるとグローバリズムは「貨幣という王様」とまで表現されておられます。王様を打ち破るには、そして道具を私達に使われる道具に戻すためには「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」でありましょう。

 私の理解するところによると、現代貨幣論とはまさにそのために論じられているのです。

エピローグ

 ユヴァル・ノア・ハラリのサピエンス全史はご紹介いただいて非常に面白そうで、上巻を斜め読みしました。今度購入予定です。購入して読了しましたらレビューなど書きたいと思います。

 

 私は大嫌いだから主流派経済学の理論は勉強しました。反論するために。ヘクシャー=オリーン・モデル、リカード、ワルラスの一般均衡等々。私は原発再稼働しょーがないから容認派(結論として)ですが、原発と自然エネルギーについてもとことんソースを見続けました。多分100以上は見たと思います。もちろん、反原発派の上げるソースも見ました。

 

 私の価値観の柱は「主権」であり、それには当然ながら「貨幣から主権を奪い返す(=反グローバリズム)」も入っております。だからこそMMTを支持しているのです。原発も貨幣も道具でありましょう。どのように使用し、どのように使用しないか。それが全てでしょう。道具の「主」たらんとするのなら。

 

 現代の通貨や貨幣の「国家としての使い方」を知らないからこそ、プライマリーバランスや財政健全化といった「戯言」が蔓延し、平成の御代はデフレになり、日本国民の所得は下がり続け、挙句の果てにさらなる「消費抑制政策」「国民から通貨を巻き上げる政策」である消費税増税や、「日本国民に金を使いたくない」「所得低下圧力で国民を安く労働させたい」という移民拡大政策が進められるわけです。

 包丁も使い方を間違えれば凶器になるように、道具とは「それがどのような機能を持つのか?」を知らなければならないのです。

P.S

 章をつけたりプロローグ、エピローグなどとつけてますが・・・気分的にそんな書き方をしてみたかったので、という気まぐれです(笑)

 軍事でも例えば左派は「戦争反対!」といいますし、それは私も大変同意するところですが、戦争に反対するためには戦争や軍事が「どのようなもので、どのように適切に軍事という”道具”は使用するべきなのか?されるべきものなのか?」を知らないといけないと思うのですね。

 ところが左派で軍事に詳しい人というのは、私はあまり存じ上げません。

 彼らは軍事そのものを拒否すること、否認することで、自分のイデオロギーの正当性を担保しようとするのです。それは理性的な態度とは到底いえません。目をつぶって自身の目に映らなくても、”それ”は”そこ”に厳然として存在するのです。

 

 日本の凋落が今のままでは決定的に明らかなように、いくら否認しても現実は動くわけです。

 サバイバルの動画が最近は好きですが、現在の状況を認識し、使える道具を確認し、最善と判断される行動を取ることが必要なのです。余談ですが筋トレも同様です。自身の体、筋肉という”道具”をいかに発達させるか?には、それに対する理解が必要なのです。

 

 私がこの記事で主張したかったのは、「文明」「貨幣」「政治」等々の「道具」を知り、いかに使いこなすか?には「文化(=精神や知性や”常識”)」が必要である、というこの一点です。「道具に振り回される」ことのないよう、習熟しなければなりません。

(了)


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