相撲と刀 | 中杉 弘の徒然日記

中杉 弘の徒然日記

毎日・毎日起きている事件について
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※流鏑馬は元々は狩り装束です。狩りの姿なのですから、必ず太刀を持ち、小刀を持ちなさい。それで弓を持って馬に乗るのです。装束の形を崩してはいけないのです。そこに日本精神が出てくるのです。

 

 「相撲と刀? 妙な組み合わせだな」と思う人もいるかもしれません。最近、大事なことに気が付いたのです。横綱が相撲をするときには、今までは行司は短刀を差していました。大関が土俵に上がると、行司は木刀を差したのです。これは、相撲界の常識でした。木刀は刀に似ていますが、刀ではありません。行司は木刀をもっていたのです。横綱の相撲では敬意を表して必ず短刀を差して「はっけよい、のこった!」とやっていたのです。

 ところが最近の相撲を見ていると、大関の相撲の時に行司の腰に木刀はなくなって、横綱相撲でも行司は短刀を差していません。これは物凄い劣化です。横綱の土俵入りでは、太刀持ちという弟子が刀をもっていますが、あれも最近では鞘の中身は木が入っているのです。本身は抜いてしまい、木を入れてやっているのです。

 このようなことを誰が決めたか知りませんが、相撲協会はあまり勝手なことをなさらないほうがよいでしょう。これは伝統の破壊です。ということは「相撲業界にも朝鮮人が入り込んでいるのかな?」と思ってしまいます。朝鮮人は日本的なものをぶち壊しているのです。

 刀というのは、日本的なものです。日本を象徴するものです。それを行司が差しているからこそ横綱です。行事が横綱の時に短刀を差すのは、伝統と権威です。このような伝統をなくしてもらっては困るのです。

 それが太刀持ちの刀まで、「何も本身の刀を入れることはないじゃないか。中に木を入れておいて歩けばいい」と考えたのでしょう。それでは横綱の権威がありません。

 それならば、丁髷も切り落としなさい。丁髷も意味がありません。そうなると、ふんどしも意味がなくなってしまいます。「トレパンでいいじゃないか」と言われてしまいます。そうなると、「横綱トレパン試合」です。(笑い)行司もジーパンをはいて「はっけよい、のこった!」ということになってしまいます。

 相撲というものは、最古の記録は『日本書紀』にある、野見宿禰(のみのすくね)から始まる伝統行事です。様式を変えてはいけません。そのようなことを誰も言いません。気が付かないでやっているのです。そんなことはいちいち発表しません。「今回から行司は横綱の相撲の時に刀を差しません」そんなことを言わないから、見ているほうはわからないのです。僕は気が付いたのです。これはおかしいのではないでしょうか。

 それからまだいろいろな神事があります。神官はもっと刀を使いなさい。どんどん行事が減っているでしょう。流鏑馬も刀を持たない連中が出てきて、「女性流鏑馬の名手」と言っているのです。

 流鏑馬装束(やぶさめしょうぞく)というのは、平安時代末期におこった『流鏑馬』[=馬を走らせながら、かぶら矢で的を射ること]のときに、武士が用いた装束のことです。頭に「萎烏帽子(なええぼし)」の上から「綾藺笠(あやいがさ)」をかぶり、「水干(すいかん)」か「直垂(ひたたれ)」を着用しました

流鏑馬は元々は狩り装束です。狩りの姿なのですから、必ず太刀を持ち、小刀を持ちなさい。それで弓を持って馬に乗るのです。装束の形を崩してはいけないのです。そこに日本精神が出てくるのです。

最近の流鏑馬に参加している女子は刀をもっていません。どんどん簡便化されていますが、違います。流鏑馬から日本刀を取り上げてはいけません。

 まだ色んな行事があります。相馬の馬追があります。流鏑馬の行事だけでも、明治神宮、鎌倉八幡宮、立川立飛流鏑馬があります。刀剣を神事にもっとつかいなさい。刀剣は日本精神です。それをないがしろにしてはいけません。

 祭りで使う刀剣は本身を使いなさい。警察もお祭りで刀剣を使うのは大目にみなさい。刀剣は武器で使うのではありません。伝統行事で使うのです。天皇の即位式でも太刀を持ちます。天皇も太刀を帯びるのです。今回の新天皇の即位式で帯びるかどうかはわかりません。

 太刀を帯びた天皇と、太刀を帯びない天皇は全然考え方が違います。天皇は場合によっては、武力もふるいます。剣は儀式で使うのです。天皇と草薙剣の剣は切っても、切り離せない関係にあります。天皇には代々三種の神器が伝わっているのです。

 それを簡略化して「刀はいらない。勾玉もいらない。鏡もいらない」となったら、どうするのでしょうか? 三種の神器は日本の天皇が永遠に守っていかなければいけないものです。勾玉は命の大事さを現しているのです。勾玉は胎児の姿です。お母さんのお腹の中の胎児の姿が勾玉です。勾玉は「生命の大事さ」を現しているのです。

 生命は大事ですが、それを守るためには、幾多の敵と戦わなければいけません。戦いを象徴しているのが、草薙剣です。武器がなければ身を守ることはできません。

 そしていつも鏡を見て、「自分がどのような顔をしているのか?」ということを見なさい。天地に恥じない顔をしているのでしょうか? 欲望と邪悪に満ちた顔になっていないでしょうか? 反省するために八咫鏡があるのです。

 そのようなものを抜きにしたら、どんどん日本の伝統がなくなってしまいます。「そんな物はいらないのだよ」となってはいけないのです。古代のものは、現代も持っていなければ意味がないのです。古代のものを持っているから、みんなが尊敬するのです。

日本民族は3千年の歴史を持っています。三種の神器はどれ一つ欠けてもダメなのです。「剣を省いてしまおう」などと、馬鹿な奴らです。宮内庁のヘッポコ役人が考えそうなことです。前回の今上天皇の即位式では、宮内庁の役員も着剣していました。それでよいのです。着剣した姿を見て日本人は奮い立つのです。

 それから自衛隊についてです。あの青銅の玩具の剣を何とかしなさい。自衛隊でもだんだん剣を着剣する人が増えてきました。最初は着剣する人は、一人か二人だったのです。海外に赴任した時に海外の武官が剣をもっていたのです。

 すると自衛隊も剣を持たないと恥ずかしいと思って急きょつくったのです。着剣は海上自衛隊から始まったのです。それから各司令官が持つようになってきて、防衛大学の学生がもって、どんどん増えてきているのです。

 しかし、自衛隊が青銅にメッキをした玩具の剣を持ったら漫画です。青銅の剣をつくって銀メッキをしてクロムメッキをした剣は玩具の剣です。自衛隊は本当の軍隊なのに、おもちゃの剣を持ったら玩具の軍隊になってしまいます。「なんだ、自衛隊の剣はクロムメッキした玩具らしいぜ」、そんなことを言われてはなりません。

 刃をつけるかどうかは別にして、ともかく鉄の刀を使いなさい。それが軍隊の常識です。自衛官が持つものは武器であるから、刃をつけるかどうかは別問題で、とにかく鉄の刀を使いなさい。青銅にクロムメッキをした玩具を使うのではありません。そんな剣を自衛隊が使っていること自体、恥ずかしく思います。僕も最初の頃は「おっ、自衛隊が剣を吊りだしたな」と喜んでいましたが、考えてみると違います。1本や2本の刀ならばよいのです。何百人という人間が青銅で出来た玩具をぶら下げていたら漫画でしょう。

 自衛官は一人前の武官です。武官が持つ刀が玩具の刀などあり得ません。刀身は鉄にして、鉄にクロムメッキをして、刃はつける・つけないは別問題です。そのようにしないと漫画です。これは是非お願いしたいことです。

 日本の伝統を復活するためには、自衛隊は本身をもったらよいと思います。刃のついた本身を持たないと指揮官が閲兵式をやってもカッコ悪いのです。青銅のメッキした玩具の剣をもって「敬礼!」とやってもさまになりません。

 やはり緊張感を持つために日本刀を仕込んだ軍刀を持たないといけません。自衛隊は軍人です。そのようなことを感じます。

 陸上自衛隊も戦闘服を着て隊列した時も軍刀を持ちなさい。迷彩服を着て指揮官に軍刀を持たせればよいのです。儀仗隊の格好の時だけではなく、戦闘服の時に軍刀を持たせてあげなさい。他所の国が持たないから我が国は持つのです。今の政府の考え方は「他所の国の軍隊が刀を持たないから日本も持たない」と言うのです。外国は関係ありません。我が国の伝統は剣と共にあるのです。これは当然のこととして自衛官に軍刀をもってもらいたいと思います。

 すると自衛隊の精神からビシッと変わってくるのです。相撲取りの行司よ、刀を差しなさい! 大関は木刀です。これはよい考えです。横綱は本身、大関は木刀です。横綱の土俵入りで太刀持ちが持つ刀は、本身を持ちなさい。これは常識です。

 それから宮内庁の儀式にもっと刀を着剣しなさい。有名神社の行列、流鏑馬、お祭りなどで着剣して、日本人の精神を揺るがせて、燃えていくようにしなければいけません。

 

 

 

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