言葉って面白い!

この日本語、英語でなんていうの?その奥に深い文化の違いが見えてきませんか。

比喩もいろいろ

2021年05月26日 | 言語学

「コーヒーを飲みに行こう」と言って、喫茶店に行き、紅茶を飲んでいること、ありますよね。

「今年は花見できなかったな」と言って、バラの花を見に行けなかったことを指しているとは誰も思いません。

これらは、比喩表現の一つに分類されるものです。

比喩には大きく三つの種類があります。

一つはメタファー(隠喩)。類似性の連想に基づいて、あるカテゴリーに属する何かを、別のカテゴリーに属する他のもので示すことです。より具体的なものに例えて、抽象的で分かりにくいものを表すことが特徴です。

例えば「パソコンが凍る」の「凍る」は文字通り氷になるわけではなく、水が凍ったように固まって動かなくなる状態を表します。その他「気分が晴れる」「表情が曇る」など。

二つ目は、メトニミー(換喩)。あるものを隣接関係にあるほかのもので表すこと。

「今夜は鍋を食べよう」「ショパンが好きなんだよ」「洗濯機回ってる?」「ホワイトハウスが声明を出した」

鍋そのものを食べるわけでもなく、鍋の中にある具材を食べる。

ショパンその人が好きなわけではなく、ショパンの楽曲が好き。

こうした表現も一種の比喩なのです。

そして最後に、シネクドキー(提喩)。

これは包摂関係に基づいて意味のずれが起こるもの。言葉として上位にある概念で下位のものを示したり、下位で上位を表したりするものです。

冒頭の「コーヒーを飲みに行こう」「今年は花見ができなかったな」はいずれもこれに当たります。

「飲み物」という上位概念の言葉を使わずに、飲み物の下位にあたる「コーヒー」という言葉で飲み物全体を表しています。

逆に「花」という上位概念で、「桜」という下位概念を表しています。

ちょっとした言葉の謎も、言語学に照らし合わせると、よく理解できるものです。

他にも言語学の話・・・アスペクトとテンスについて

 

 

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アスペクトとテンス

2021年05月16日 | 言語学

動詞の活用についての分類法はいくつかあります。

話し手の主観を表す「モダリティ」。(彼は疲れているようだ。明日は雨がふるはずだ。の「ようだ」「はずだ」など)

文に現れる人の立場を表す「ヴォイス(態)」。(能動・・・彼女は彼を叩いた。受動・・・彼は彼女に叩かれた。など)

そうした中で、ちょっと混同しやすいのが「アスペクト」と「テンス」です。

アスペクトは、動詞の表す動作がどの段階にあるかを表す概念です。

例えば同じ「歩く」という動詞でも、その動作がこれから始まるのか、今最中なのか、終わったのか、によって色々な表現ができます。

歩くところだ(開始直前)

歩きだす、歩き始める(開始)

歩いている(進行)

歩き続ける(継続)

歩き終わる(終了)

歩き切る(完了)

歩いたことがある(経験)

といった具合です。

 

中でも「ている」「てある」の用法は複雑で、理解しやすいとは言えません。

「ている」は大きく5つの用法に分けられます。

➀動作の進行 「風が吹いている」「彼が走っている」

と②結果の状態(結果が継続している)「眼鏡をかけている」「服を着ている」

➂状態の継続(ある状態が長く続いている)「あの川は東に流れている」「山に塔が立っている」

④繰り返し  「毎週塾に行っている」「毎日どこかで交通事故が起きている」

➄経験(動作が繰り返し起きているが残存していない) 「彼は3回離婚している」「このパソコンは何度もフリーズしている」

これに対して「てある」は、誰かによって意図的に引き起こされた動作の結果が続いていることを表します。「ている」が意図的でないのと対照的です。具体的に比べてみましょう。

「窓が開いている」⇔「窓が開けてある」(誰かが窓を開けた)

「テレビがついている」⇔「テレビがつけてある」(誰かがテレビをつけた)

「コップに水が入っている」⇔「コップに水が入れてある」(誰かが水を入れた)

いずれも、「ている」は「開く」「つく」「入る」などの無意志の自動詞とつながっています。

これに対して、「てある」は、「開ける」「つける」「入れる」などの意志を表す他動詞とつながっています。

いずれにしても、アスペクトとは、動作が始まる前なのか、最中なのか、継続しているのか、完了したのか、などの局面を表す表現である、ということです。

 

さて一方のテンスですが、こちらは「時制」とも呼ばれ、過去、現在、未来に分かれます。

ざっくり言うと「タ形」が過去、「ル形」が未来、「テイル」が現在となることがほとんどです。

「窓を開けた」(過去)、「窓を開ける」(未来)、「窓を開けている」(現在)といったことです。

ただし「ある」や「異なる」などの状態動詞は、「ル形」で現在を表します。

「庭にバラの木がある」「彼とは意見が異なる」

 

テンスはさらに「絶対テンス」と「相対テンス」があります。絶対テンスは、文の主たる動詞につくテンスです。この絶対テンスの基準時間は、「発話している時」です。

これに対して、文の主たる動詞の動作の時点を基準として、そこから見て過去か未来かを判断するのが「相対テンス」です。

「東京に出てくる時に、友達が集まってくれた」

「東京に出てきた時に、友達が集まってくれた」

この「集まってくれた」は絶対テンスで、発話時点から見て「過去」です。

ただ「東京に出てくる時」の「出てくる」は発話時点から見るとすでに過去ですが、集まってくれた時から見ると未来です。

田舎から東京に出ていこうとしている時に、田舎の同級生たちが集まってくれた、というわけです。

英語でも時制の一致ってありますね。あれと似ています。

何となく時制という言葉を聞くと、英語学習を思い出してしまいますが、日本語にも立派にテンスや時制はあるのです。

 

 

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台湾の日本語教育の歴史

2021年05月12日 | 歴史の話し

台湾は日本への留学生の多い国の一つです。また高齢の方の中には日本語を話す人もいます。台湾における日本語の歴史は百年以上前に遡ります。

日清戦争で日本が勝利した1895年から第二次世界大戦後の1945年まで、日本は台湾を統治していました。

この間、日本政府は台湾での日本語教育に力を入れていました。

きっかけを作ったのは、文部官僚で音楽教育の専門家の伊澤修二(1851-1917)でした。彼は日本が台湾を領有すると、台湾に渡り、統治教育の先頭に立ちました。1895年6月に台湾の芝山巌(しざんがん)に小学校を設立し、7名の教師とともに台湾での教育をスタートします。

ところが翌年の正月、伊澤が一時帰国している最中に、台湾に残っていた6人の教師が抗日勢力に襲撃されて殺害されるという事件が起こります。芝山巌事件です。

しかしその後も日本による台湾における教育強化は続き、台湾人が日本語などを学ぶために「公学校」を作り、さらに1922年に新しい台湾教育令が公布されると、日本人と台湾人の共学となり、台湾人が通った公学校などもすべて「国民学校」に統合されました。

台湾人にも中等教育機関に進学するための日本語能力が要求され、有力新聞における漢文欄の廃止、会社などにおける日本語使用の徹底などが図られます。これらは当時の皇民化教育の一環ではありましたが、一方で台湾における初等教育の就学率は、日本統治時代が終了する頃には70%に達したと言います。

戦後しばらくは、台湾では中国語教育が進み、日本映画の上映や、放送など公式の場での日本語使用は禁止されます。

さらに日中国交正常化に伴う日台断交の時代(1972年~1986年)を迎えますが、そんな時代の中でも日台間の文化・経済交流は続き、日本語教育の需要は高かったと言います。

そして1987年に戒厳令が解除されると、外国語教育の推進とともに日本語教育は前に進みます。1996年には、高等学校で第二外国語教育が導入され、2000年代に入ると、小中学校でもカリキュラムや課外活動に日本語教育が取り入れられるようになりました。

今台湾では、日本語は英語に次いで学習者の多い言葉になっています。

背景には、台湾での良好な対日イメージがあります。

日本台湾交流協会が2019年に実施した世論調査では、「最も好きな国は日本」という答えが59%に達しました。

新型コロナ以前の、2018年の台湾からの訪日者数は476万人、過去最高を更新しています。

百年以上に及ぶ複雑な歴史の紆余曲折を経て、台湾での日本語学習者は着実に増えているようです。

参考サイトは

台湾の日本語教育の歴史→国際交流基金のページ

※こちらも

あぐらの歴史話

 

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俳句文化の背景には「拍」がある

2021年05月09日 | 日本語教育について

英語の文章をナレーターに読んでもらった時のことです。

少し文章が長すぎると思ったので、内容をカットしようかと思ったら、ナレーターの方が「大丈夫大丈夫」と言います。

読んでもらったら、あら不思議、ぴったりの時間に収まりました。

「日本語と違って、英語は早く読んでも意味は通じるから」とそのナレーターは言いました。

確かに、日本語の文章を朗読する場合、長すぎる文章を急いで読むと、聞き取りにくくなってしまいます。

日本語には、「等時性」という特徴があります。

仮名1音が、だいたい同じ時間を使って話される特性です。

だから、俳句や短歌もかな一文字ずつを単位にしてあるリズムを作っていきます。

歌の歌詞も、多くの場合音符一つに仮名1文字を当てます。英語だと、そうではないんですね。

この仮名一文字で示される発音上の単位を、言語学上は、拍またはモーラと言います。

一つの拍は、多くの場合子音(s,t,rなど)一つと母音(a,i,oなど)一つで作られます。

英語だとstreetは一つの音節とカウントされますが、日本語のカタカナに書き換えると「ストリート」と五つの拍に変化されます。英語と日本語は、拍の取り方、リズムの取り方が根本から違うのです。

ちなみに、日本語の拍は、大きく自立拍と特殊拍(モーラ拍)に分かれます。

自立拍は単独で発音可能なもので、仮名一文字で表す直音(ア、ケ、トなど)と小さな「ャ、ュ、ョ」を添えた拗音(キャ、ミュ、ジョ、など)があり、さらに濁音(ガ、ジ、ボなど)、半濁音(パ、プなど)、清音(サ、イ、カなど)といった分類もあります。

これに対して、語頭や単独では発音できない特殊拍(モーラ拍)には、拗音(ッ)、撥音(ン)、長音(-)があります。

確かに「タッチ」「サンダル」「コーヒー」という単語はあるし発音もできますが、「ッチ」「ンダル」「-ヒー」という単語があっても発音できませんよね。

この特殊拍は、単独で発音できなくても立派に一拍と数えられます。

俳句などでも「サンダルに」とあれば五音と数えますよね。

この拍(モーラ)から生まれる等時性が日本語の大きな特徴であり、和歌や俳句もこの特徴を生かした文化と言えるでしょう。

 

 

 

 

 

 

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イマ-ジョン教育について

2021年05月07日 | 語学学習

日本人の低い英語力を何とか向上させようと、幾つかの学校で「英語で教科を学習する」という「イマ‐ジョン教育」が試みられています。英語の科目の時間だけでなく、算数や理科、道徳なども英語を使って学び、実践的な英語力を身につけよう、というわけです。大学では、かなり一般的に見られるようになりましたが、小中学校、中には幼稚園から、このスタイルの教育を取り入れるところもあります。

イマージョン教育は、「浸す」ことを意味する immersion から来ています。文字通り英語に浸ることで、英語を身体に染み込ませよう、というわけです。日本では英語習得が目的になることがほとんどですが、この教育法自体は必ずしも英語に限ったものではありません。

この教育法は、1960年代にカナダで始まったものです。

カナダは英語話者のほかにケベック州などではフランス語話者も多くいます。当時の中流階級の親御さんたちから、「英語だけでなくフランス語の文化や伝統も理解できるような教育をしてほしい」という要請があり、取り入れられました。その後世界の多くの国々で取り入れられています。

イマージョン教育は、導入時期や手法によっていくつかに分類されています。

導入時期によって分けると、早期(幼稚園~小学校低学年ごろから開始)、中期(小学校中高学年から開始)、後期(中学から開始) に分類されます。

またFull Immersion(完全イマージョン=すべて外国語で教える)と、Partial Immersion(部分的イマージョン=母語と外国語を混ぜながら教える)という分類もあります。

また、母語話者を第二外国語に浸す=イマージョンする「イマージョン教育」に対して、少数の他言語話者を多数言語の授業に入れ込んで教育することを「サブマージョン教育」と言います。例えば、普通に日本語で行っている授業に、中国やブラジルの子弟(中国語・ポルトガル語の話者)が加わるようなケースです。

イマージョン教育は、一見実践的な英語力を身につけるには、最も早く効果的な教育法に見えます。確かに英語力そのものを鍛えるには効果的と言われます。また同時に英語の持つ文化・歴史的背景なども同時に学ぶことができるので、異文化理解の促進にはうってつけです。また言語能力のみでなく、二言語を学ぶことは「認知力」を高めるとも言われます。

ただデメリットもあります。一つは、母語の能力に支障が出る可能性があるということです。物事や言語をもっとも吸収する幼少期に、日本語を習得する時間の幾割かを割いて英語の習得の時間にかけるわけです。当然、日本語の習得が中途半端にならないよう、留意が必要です。

メリット・デメリットがあるにせよ、国際化が進む時代にイマージョン教育はこれからも必要とされるのだと思います。

異文化コミュニケーションについてはこちらの記事もどうぞ→

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