明日の風に吹かれて

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1001体 勢揃いした三十三間堂

2019年02月05日 11時07分50秒 | つれづれ
京都 三十三間堂

中央の観音菩薩坐像と左右の千体の立像含めて千一体の観音菩薩。

普段は5体ほどが東京国立博物館他に貸し出されていたが、昨秋(2018年10月)に全て戻り、今の期間は26年振りに千一体揃ったということなので。

しかし、本当に凄いもんだ。
平安、鎌倉時代の仏師達の底力を感じる。

それにしても、誰が10や100の観音像ではなく、1000体にも及ぶ規模の観音菩薩像を指示したんだろう?
後白河上皇? 平清盛?

当時指示された人々も
「ええっ! 1000ですか?」
「いつまでかかることやら?」
「納めるお堂はどうするんですか?」
と、うろたえ驚いたことだろう。

それを「いや、1000だ!」と指示した人がいるわけだ。
凄いスケール感だ。

落慶した当時は人々も圧倒されたと思う。

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建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)で、その本堂が通称「三十三間堂」と言われる。

この地には元々、後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があったが、上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。

ただ、80年後の建長元年(1249年)には市内の火災で類焼で焼失し、文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称される堂がそれ。

「三十三間堂」とは、南北にの延びるお堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴によるとのこと。

また「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しているともされる。

俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」とも言われるが、それは本尊と脇の観音立像千体、合わせて千1体がそれぞれ33に化身するからである。

しかし、本当に千体あるのか?と思うが実際にあるらしく、向かって右隅下の観音立像の足元には「1000」との札が置いてあった。

なお、千体のうち124体は創建された平安期のものであるが、残りは火災延焼後の鎌倉時代に16年をかけて再興されたもの。

約500体には作者名も残され、運慶、快慶などの名前も残るとのこと。

しかも驚くのはその耐震設計。
お堂の裏廊下に詳しく解説されていた。

当時も京都で地震は経験していたため、耐震設計には気を配っていたらしい。

基礎地盤には、砂と粘土を層状に堆積して地震時の地下震動を吸収する地盤とし、

堂内の屋台骨は、柱間を2本の梁でつなぐ構造とし、外屋の上部も内・外柱に二重の梁をかけて堅固さを増加したとのこと。

加えて、構架材の柱や長押、梁は“揺れ”を予測した組み方とし、一部敢えて隙間をもたせ、土壁面積を極力小さくした上で、溝を切った柱に板壁として横板を落し込む(羽目板)とするなどし、

お堂は波に揺れて浮ぶ筏のように“揺れ動く”建築としての免震工法が施こされたとのこと。

その結果、約800年間に亘り無事保存されてきている。


それと対比されるのが、この三十三間堂から北へ約800mに位置する「方広寺」

豊臣秀吉により奈良大仏に倣った大仏の建立が計画され、文禄4年(1595年)に方広寺大仏殿が完成し、高さ約19mの木製金漆塗大仏が安置された。

しかし、その翌年慶長元年(1596年)の慶長伏見地震により、開眼前の大仏は倒壊した。
哀れ秀吉。


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