ぼくは行かない どこへも
ボヘミアンのようには…
気仙沼在住の千田基嗣の詩とエッセイ、読書の記録を随時掲載します。

マーサ・ナカムラ 雨をよぶ灯台 思潮社

2020-03-14 11:29:14 | エッセイ
 帯に、詩人の荒川洋治が紹介文を書いている。

「影も形もないものが、光をひろげ、流れをつくる。そんな夢のような作品を、マーサ・ナカムラだけが書いていく。」

 まさに、そんな詩集だ。
 以上、おしまい。
 ということにできたら、こんなに楽なことはない。
 でもね。
 そういうわけにもいかない。
 さて、どこからどんなふうに、この詩集の紹介を書きだそうか、というか、書きだせるのか、悩んでいた。書きあぐねていた。困った困った困った困った。
 本当の事を云おうか。
 私は、何も書くことがない、のだ。こういう詩を目の前にすると、何を書いていいのかわからない。途方に暮れる、のだ。
 私は、現代詩人会の会員の端くれではあるが、現代詩人ではない。
 とは言いながら、とにもかくにも冒頭から、読み解くことを始めよう、と、この本を手に取った。さて、と、表紙を見ると、帯の、この一文である。

「影も形もないものが、光をひろげ、流れをつくる。」

 なるほど、これだ。さすが、荒川洋治。
 無である。何もない。何も存在しないのである。「影も形もない」というのはそういうことだ。無いものは無いのだから、それが広がったり、何かを作ったりするなどということはあり得ない。無いものは無いのである。論理的にそうならざるを得ない。
何もないのだから、何も言えなくて当然である。
 ああ、良かった。
 ところがしかし、そんな、なんでもないものが「光をひろげ、流れをつくる」のだという。矛盾である。撞着である。
 やっぱり困る。困ってしまう。
 何ごとかは言えてしまうということだ。
 私も、何か言わなくてはならない、と強迫される。
 そうだ、言葉では、確かに、矛盾が言えてしまう。ないものをあるものと言ってしてしまうことができる。存在しないものを、あたかも存在するかのように書き連ねていくこともできる。
 一般的に言って、無という存在があたかも実際に存在するかのように、無が広がる、という言語表現はありうる。それは、まずは、存在したものが存在しなくなることである。青々と生えていた草が焼き払われるなり、刈り払われたりすれば、草地は失われ、土がむき出しの空き地になる。そういう場合、無が広がるという言語表現は可能である。
 〈存在した草地が誰かに刈り払われ、草の生えていない空き地となってしまう〉という表現がプラスの表現だとすれば、〈草一本ない空き地が、鬱蒼とした草地を侵食し拡がっていく〉という、事態を逆から描写したマイナスの表現も可能である。
 空き地が自ら能動的に広がっていくわけではない。誰かが草を刈るからこそ、増えていくのである。
 言葉では、夜見る夢のように、つじつまが合わないことが言えてしまう。
 そう、夜見る夢のように。
 夢も、とりとめなく展開し、つじつまが合わず、前後の脈絡が合わなくなる。
 言語表現と夢とは、似たような働きがあるのかもしれない。夢とは、言葉で見るものなのかもしれない。
 比喩。
 言葉の技法のひとつに比喩がある。
 〈無が広がる〉という表現は、実は、比喩である。
 〈誰かが草を刈ることで草地が失われ、あたかも無が広がっていくかのように、空き地となってゆく。〉
 で、実は、比喩が技法のひとつであるという言い方は正確でない。言葉とはすべからく、比喩そのものである、とすら言うべきである。
 というようなことは、世の哲学者とか、文学者とか、言語学者とかが、どこかで書いている。ここで、その詳細を語ることはしない。今の私の手には余る困難な仕事である。
 そういう考え方もあるのだ、ということだけは、記憶にとどめておいてもらえればありがたい。
 詩とは、言語がすべからく比喩であるということを弁えたうえでなければ書けないものではある。いや、近代までの詩は、必ずしも、そうではない。現代詩に限っては、そうである。
 だから、実は、現代に書かれている詩のほとんどは、現代詩ではない、ということになる。
 マーサ・ナカムラは、現代に生きている、数少ない現代詩人のひとりである。それは、間違いがない。
 荒川洋治もこう書いている。

「そんな夢のような作品を、マーサ・ナカムラだけが書いていく。」

 マーサ・ナカムラは、実在しないものを、あたかも実在するかのように書き進めていく。途方もない力業である。
 ここには、個人的な感傷はない。実体験などというものはない。感情もない。万人が分かりやすく共感できるものは存在しない。ある選ばれた者だけが、その詩を享受できる。
 と、ここまでで、ようやく現代詩一般を読めるところまで辿り着いた、ということになる。荒川洋治の言葉に誘われて、ようやく表紙をめくるところまで辿り着いた、と。
 で、マーサ・ナカムラの今回の詩集はどう堪能すべきなのか、というのは、その先の話である。
 詩集冒頭の詩を引用する。

   「鯉は船に乗って進む」

雨が降っている
水しぶきが空気を裂く音と、
車のタイヤに巻かれる音を聞いているうちに、
私は船に乗って進んでいるような気もちになった。

仏が茶を点てるというので、浅草寺まで見に行った。
雷門の外まで人が溢れている。賽銭箱の前まで回ってみると、
金槌ほどの大きさの仏が、怖い顔の僧侶に守られながら
両肩いっぱいに力をいれて茶を点てている。
寒い日で、仏は映像を映し出す綿入れを着込んでいた。

 以上、第2連まで。
 第1連は、雨の中、自動車に乗っていると船に乗っているような気持になったということで、わかりやすい比喩である。読者は、まずはさらりと導入される。しかし、第2連は金槌ほどの大きさの仏が茶を点てるという現実にはあり得ない光景が描かれる。仏像ではない、仏そのものである。だが、しかし、この仏は、衆生を救済することができる仏ではないようだ。後ろに控えた僧侶の渡世の道具である仏像が擬人化された仏、というか。見世物小屋のろくろっ首とか、小人とかの類のフリークス。浅草のもっと東の葛飾柴又あたりのテキヤの商売用の小物。
 幾重にも意味の層が積み重ねられて、もはや、何を言いたいのか訳が分からなくなる地点まで辿り着いてしまっている。
 作者は、こういうあり得ない情景を描いて、何を書きたいのだろうか?何を描きたいのだろうか?
 それは恐らく「言葉そのもの」である。
 裏側に秘められた精神分析的な無意識の欲望を描こうとした、というわけではないはずである。
 一方、表面的な字面を描こうとしたわけでもないだろう。具象画を書くように字の形を描こうとしたわけではない。
 言葉には意味が伴う、意味なしには言葉ではありえないわけで、歴史的に形成されてきた意味を伴う言葉が連ねられている。無意識の欲望も込みでの意味である。
 そういう意味を伴う言葉を連ねながら、総体としては、明確な意味をなさないように注意深く言葉を扱っていく。同時に、明確な無意味と悟られてもならない。
 なんという力業だろうか?超絶技巧というほかない。
 言葉を素材に、彫琢を尽くした抽象彫刻。現代詩とはそういうものに違ない。
 あとは、それぞれの彫刻家の、素材の選択眼と、それを彫り出す刀の技量を味わう、批評家たちや選ばれた玄人筋の隠微な喜びの世界が拡がっている、ということになるのだろうと思う。
 マーサ・ナカムラは、確実に、その境地に住まっている。
 たっぷりと時間をかけて、そこまでのイメージの重層を見通せる、そういう読者に対して、マーサ・ナカムラの世界は開かれている。そのうえで、そこで見通した世界を喜びをもって堪能できる読者が愛読者になる、という道筋である。

 下に、第3連以下、最後まで引いておく。

眺めていると、綿入れは白黒の古い映像を映し出した。
曇天の下、真白な豪華客船が陸を離れていく。
客船が沖へ進むにつれて、空からは初雪が落ちてきた。
吐息も凍る甲板の上で、寝袋を着たまま立って歩く人もいる。
彼らは「万歳」という言葉の代わりに、祖国に向かって「反逆」と声をあげている……若い男たちの声が、まるで合唱隊のように響く。
船内のダンスホールでは、選りすぐりの美女たちが脚をあげて踊っている。
(今見ると、皆寸胴でとても美女には見えない)
映像は。船が海上で爆破されたところで途切れていた。
この映像を見ているうちに、私は船の売店で食い物をみていた少女に成り代わって、涙が止まらなくなってしまった。

観音通りの出店では、真白な鯉を木陰染めにして売っていた。

「水が濡れてる」、隣の女が言った。
確かにひどい雨だ。世の端から融け出しているかのようだ。あっという間に身体が水に浸かった。
仏が頭まで水に浸かり、映像が雨水に融け出してゆく。
母の布団に針を撒いた
新しい男の顔が描かれた敷物の上で生活をした
病院の窓硝子に心臓が映った
僧侶がタモで映像をすくい上げている。わたしの足元まで仏も拡がってしまって、はたしてすくえるのだろうか。

通りには人が溢れていたので、吉原の方まで泳ぐように帰った。
鯉を買った人たちには舟が出て、水面に浮かんだ映像の染料が、
洋服の染みにならないかしきりに気をしていた。

 以上、最後まで引いた。
 荒川洋治の惹句に誘なわれて、あることないこと、書き連ねてしまった。これもひとつの仮説ではある。
 ただ、ここまで書いて、ようやく、どこか、マーサ・ナカムラの詩を堪能できる入り口まで辿り着いたようにも思える。


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