映画 ご(誤)鑑賞日記

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大人のためのグリム童話 手をなくした少女(2016年)

2018-09-16 | 【お】



 貧しさのあまり悪魔に魂を売った父親のせいで、両手を失うことになった少女。

 親の家を出て命の危険に遭いながら森を彷徨う内に、王子に出会い見初められて結婚する。王子は少女に黄金の義手を送り、2人は束の間幸せに暮らす。しかし、王子は国の境で起きた戦争に行ってしまい、「必ず戻る」と言っていたのに、なかなか戻ってこなかった。王子のいない間に、少女は男の子を授かる。

 父親を惑わした悪魔は執拗に少女を追ってきて、王子と少女の中を引き裂こうとし、少女は身の危険を感じ子どもを連れて城から逃げ出す。逃げ回る途中で使い勝手が悪く邪魔になった黄金の義手を捨てる少女。

 数年後に城に戻ってきた王子は、妻と我が子がいないため、探しに出かける。その途中、妻に送った黄金の義手が捨てられているのを見つけるのであった、、、。

 
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 チラシを見て、少女の声をアナイス・ドゥムースティエが演じているってのもあって、興味をそそられ見に行って参りました。なかなか斬新なアニメーションでござんした。


◆童話=ヒドい話

 グリム童話の初版本は結構、オチが残酷だ、ってんで、「本当は恐ろしいグリム童話」とか一時ベストセラーになっていましたねぇ。でも、それって割と昔から有名というか、よく知られていたことだったと認識していた私には、そんな本がベストセラーになっているのが不思議だった。その数年前に、グリム初版シリーズが白水社から上梓されて、それでそんなブームになったのかな、とか思ったけれども、あれは一体何だったのか。

 恐ろしいといえば、確かに恐ろしい。本作の元ネタ「手なし娘」も手を切り落としちゃうし、「シンデレラ」でも、ガラスの靴に脚が入らないシンデレラの姉たちは、つま先を靴に収まるように切っちゃうし、、、、とにかく身体を傷つける描写が異様に多い。悪いことをした報いとして身体を傷つけられる、っていうパターンなんだけど、悪行に比して、報いが残酷すぎるイメージは確かにある。

 しかし、グリム童話に限らず、世界各国に伝わる民話には、共通する話が多いらしく、この「手なし娘」も、ヨーロッパだけでなく、中国や、日本の岐阜県の民話にほぼ同じ内容の話があるんだとか(パンフに書いてある)。今回、私も久しぶりに初版シリーズの「手なし娘」を読んでみたけど、まあ、やっぱりヒドい話だ(もちろんヒドいのは父親)。この話の特徴は、娘が王子様と結婚してめでたしめでたし、で終わらないところだ。王子がその後戦争に行ってしまい、王子が不在の間に娘は試練に度々見舞われる。

 概ね本作は原作に沿ったストーリーだけれど、娘が王子に出会うまでのいきさつがちょっと違うし、王子が黄金の義手を与える場面もなければ、娘が両手を取り戻したいきさつもまるで違う。何よりラストが大きく違っている。どちらがどうというわけでもないが、娘が両手を取り戻した場面は本作の方がステキだし、ラストに関しては本作は現代的に一ひねりしている。

 原作では、娘は父親に切り落とされた両手を持って歩いているんだけど、ある爺さんに「その切られた自分の両腕を3回大木にからませなさい」と言われ、そのとおりにすると両腕が生えてくる。本作では、赤ん坊と密かに暮らしていた場所に自分たちを探しに来た王子を(悪魔の仕業によって、娘は王子が自分たちを城から追い出したと思い込んでいた)自分たちを殺しに来たのだと誤解し、咄嗟に斧を振り上げた瞬間、よく見たら両腕を取り戻していた、ということになっている。

 また、ラストは、原作では王子と妻子は再会し、城に戻ってめでたしめでたし、、、なんだが、本作では、妻は「私はあの城に戻りたくない」と言って、親子3人、どこかへ旅立つ、となっている。娘は王子が不在の間に、ある場所に安住の地を見つけ、そこで自給自足の生活をするようになった……つまり、夫の庇護を離れて“自立した”ということになり、自立を果たした女性が、再び夫の庇護を甘んじて受けるということは敢えて避けたのだろう、、、というジェンダー的な見方ができる。……と言う意味で、現代的に一ひねりしている、と感じた次第。


◆監督が一人で作り上げた!!

 ……とつらつら書いてきたけれど、そんなことは後付けの理屈である。とはいえ、本作は、そういう理屈だけでなく、いろんな意味で子どもが見ても今一つピンとこないアニメであろうと思うので、確かにタイトルどおり“大人のための”作品であると思う。

 まず、なんと言っても、その“絵”が、私がこれまで見たことのあるアニメーションの絵とまったく違う。どうやら、本作の監督セバスチャン・ローデンバック独自の技法らしいのだが、“クリプトキノグラフィー”という技法によって、このアニメーションはできている。クリプトキノグラフィーとは、「動画のそれぞれ1枚の絵では何が描かれているか分からないが、動きを伴うと何か描かれているか分かるという運動の暗号化」だそうである(詳しくはこちら)。

 まあ、どんな絵で、どんなアニメかは、公式HPの予告編を見ていただければ分かるので、そちらをご覧ください。

 ただ、この技法独特なんだろうが、よく見ていないと、人物にしろ物体にしろ、一瞬で消えてしまったり、突然現れたりするので、結構、脳ミソがついていくのに時間がかかる(と思った)。

 とにかく、常に絵が動いているのである。一瞬たりとも静止していない、、、というか。映画も中盤くらいになると、ようやく慣れてくるが、ちょっとサブリミナルっぽいというか、目がチカチカしてくる感じもした。実際、終わってから、異様に目が(脳ミソも)疲れていた。

 オドロキなのは、この作画から演出まで全部、監督が一人でやったということ!! ビックリ! そんなことって可能なのか? と思うが、資金集めにも苦労したようで、どうやら何年もかかっているらしい。アニメは諦めようかとも思ったと言っている。バンド・デシネにしようか、実写にしようかとも思ったらしい(それはそれで見てみたかった気もする)。

 ヒロインの少女は、原作ではひときわ美しいということになっているが、本作での娘の顔は、決していかにもな美少女ではない。少女の顔は、どうみても東洋的で、そういう意図はなかったのだろうが、西洋人ぽい顔には見えなかった。男性の顔は、西洋とも東洋とも、どちらとも言えない感じだったけど。水墨画みたいなタッチの絵が、さらに東洋的なイメージを受けたのかも知れない。色使い、音楽もセンスが良い。

 少女が、王子に出会うまでに彷徨う中で、水の精に出会って命を救われるのだけど、ファンタジーな部分はそこくらいで、あとは童話にしてはかなりリアリティを感じさせられる内容だった。少女が林檎の木の上からオシッコをしたり、唾を吐いたりとか、少女が赤ん坊と2人で自給自足の生活をするときに、土地を耕し種を植えるんだけど、その描写が、腕から血が流れたり、種を一つ一つ舌で舐めとって土に吐き出して植えたりとか、、、、絵自体は水墨画みたいな絵なのに、妙にリアルな描写で、非常に印象的だった。

 日本のアニメは素晴らしい、、、という話は聞くけれど、申し訳ないけど、私は、日本のほとんどのアニメはジブリの呪縛から抜け出られていないように思えて仕方がない。というか、ジブリに引きずられている、と言った方が良いのか。いずれにしても、いい加減ジブリから解放されてはどうか。世界中のアニメ作家がジブリ作品から何らか影響を受けてはいるだろうが、、、、。本作のような新たな技法による意欲作が日本からも出て来てほしいものである。

 
 

 





パンフの監督インタビューは、そのまま公式HPにも載っています。




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