原敬は陸奥宗光に見出されて総理大臣に上り詰めた人物です。

平民宰相として人気を集めますが、その支持率は次第に降下。

 

最期は東京駅で暗殺されてしまいます。

では、原敬とはどんな人物だったのでしょうか?

 

今回は原敬について分かりやすく解説します。

 

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原敬の生涯を分かりやすく簡単に解説

原敬は明治時代から大正時代にかけて活躍した政治家です。

最初は外交の仕事を中心に活躍し、外務省のナンバー2である外務次官まで勤めました。

 

 

この時、原に目をかけて出世させたのが陸奥宗光でした。

陸奥の引き立てもあり、外務省で活躍する原敬。

 

しかし、陸奥が外相を辞任して松方内閣になると、外務省に入る前にやっていた新聞記者の仕事につきます。

そして、大阪毎日新聞の社長となっています。

 

1900年に政党政治を考え始めていた伊藤博文が立憲政友会という政党を結成すると社長をやめてこれに参加。

1902年に出身地である岩手県盛岡市から立候補して当選し、衆議院議員となりました。

 

伊藤が内閣を作ると大臣になり、西園寺公望が内閣を作るとその中でも大臣になっています。

そして、原は米騒動の混乱で総辞職した寺内内閣のあとを受けて総理大臣の職に就きます。

 

薩摩や長州の出身ではなく、貴族の位ももたなかった原は平民宰相として国民の期待と人気を集めました。

原の内閣は憲法の規定で正党員が就任できなかった陸軍・海軍・外務以外のすべての大臣を立憲政友会の中から選ぶ本格的な政党内閣でした。

 

しかし、国民が期待した普通選挙については消極的で徐々に支持率が低下します。

そして1921年、原は東京駅で鉄道員に暗殺されてこの世を去りました。

 

苦労の人・原敬のマイナスからのスタート

原が生まれた岩手県は江戸時代には南部藩の領地でした。

南部藩は旧幕府を支持する奥羽越列藩同盟の一員として参加して戊辰戦争を戦い敗北しています。

そのため、新たにできた明治新政府から「賊軍」とされ様々な差別や不利な扱いを受けました。

 

「白川以北は一山百文」といわれ、白河の関(福島県)より北の土地は山一つでも100文(今でいう100円から1000円)の価値しかないと勝った薩摩や長州の人々からバカにされました。

 

そのことを悔しいと思ったのか、俳句などを読むときにつける名前である俳号には「一山」を使っています。

絶対見返してやろうという意気込みが伝わってきますよね?

 

その後、法律の勉強をする学校で薩摩藩出身の校長を追い出す運動をして自分が学校を追い出されるなど、なかなかな反抗ぶりを示しますが、最終的には政府に就職します。

 

鉄オタの恩人?日本全国に鉄道を広げる!

原は鉄道に縁のある人物でした。

原が何度かつとめた大臣に内務大臣があります。

 

これは、戦前の大臣としては軍を除けば最も力がある役所だといわれます。

おもに地方の政治や経済・警察を担当していました。

 

その大臣となった原は日本全国に鉄道を熱心に広げます。

鉄道が敷かれるとその土地の人々は原や立憲政友会を支持します。

 

このことから腹が行ったやり方は「我田引鉄」などと呼ばれ利益誘導型の政治だと批判されることもありました。

 

膨大な量を残した「原敬日記」

『原敬日記』は明治から大正にかけての政治の動きを知ることができる大変貴重な資料です。

1875年(明治8年)から暗殺直前の1921年(大正10年)までに書かれた日記です。

 

原はこの日記について書かれている内容が当時の政治におおきな影響を与えかねないことから、「当分世間には出すべからず」と遺言を残しています。

ちなみに、この遺言は自分が暗殺されかねないことを予想した原が暗殺の少し前に書き残していたものでした。

 

平民宰相と呼ばれた原敬

原は南部藩の家老の家に生まれました。

そのため、士族の戸籍に入っていましたが20歳の時に分家して平民となりました。

 

当時の政治家は内閣を組織するほどになると在任中、あるいは辞めてから貴族の位である爵位をもらうことがよくありました。

しかし、原は爵位の受け取りを辞退し続けました。

 

正確な理由はわかりませんが、このことから世間では原のことを平民の総理大臣という意味で「平民宰相」とよびました

 

原敬の最期

1921年11月4日、総理大臣の原敬は立憲政友会京都支部の大会に出るために東京駅に向かっていました。

そして午後7時25分ころ、東京駅の改札口付近で鉄道員だった中岡艮一によって刺されます。

 

短刀を突き立てられた原は駅長室に運ばれて手当てを受けましたが、すでに死亡していたといいます。

 

東京駅で首相が暗殺される事件があったなんて、ほとんどの人が知らないですよね?

 

しかしこれは紛れもない事実。

現在も丸の内南口の切符売り場の壁に事件のことを書いたプレートが埋め込まれています。

 

そして、すぐ近くの床面には事件の場所を示すマークがあります。

 

↑原敬が暗殺された当時の東京駅

 

原の突然の死は当時の政治に大きな衝撃を与えました。

西園寺は「自分の利益を考えるような人ではなかった」といい、軍の実力者だった山県有朋は「原という男は実にえらい男であった。ああいう人間をむざむざ殺されては日本はたまったものではない」と嘆いたといいます。

時に対立しつつ、時に話し合って日本の政治を進めてきた有力政治家たちからも一目置かれる偉大な政治家だったといえますね。

 



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