【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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出エジプト記11章

2018年10月23日 07時15分17秒 | 出エジプト記
<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。いよいよ、モーセの最後の交渉であり、最後の災いが起こります。これによって、神が義なる方であることをエジプト人もイスラエル人も知らされていきます。大切なのは、悩み深き時には、私たちに心を注いでおられる神を認め、神に訴えることなのでしょう。神が正しいことをなさるからです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

 「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く」(4節)と主は仰せられた。今までは、モーセとアロンの杖によって不思議がなされていたが、ここでは主ご自身がさばきのために出ていく。天地創造の神がこの人間の世界に介入される。そこに何が起こったか。エジプトの国の初子が、パロの初子から、女奴隷の初子、さらに家畜の初子に至るまで皆死ぬことが起こった。初子は、父親の遺産を受け継ぎ、父親のいのちと力を代表するものである。更に、後継者として、また神々の子として生まれてきたはずのパロの初子の死は、パロがより頼むあらゆる神々の決定的な敗北を認めさせるものであった。
ハニイカットという聖書学者は、これが何かの疫病の流行であり、エジプト人の子どもや家畜が多く死んだのであるが、後に、それが「初子の死」として記憶の整理がなされたのであろうと考えている。しかし、やはりここは、神の裁きとして神が超自然的な力をもって初子を打たれたと素直に考えた方がよい。エジプト全土にわたって大きな叫びが起こる。これまでエジプトになかった大きな悲しみの時となる、という。イスラエルも労役によって搾取され、苦しみうめき、叫んだのであるが、こうして神は帳尻を合わせられる、ということであろうか。神は決して人の苦しみを見過ごす方ではない。むしろ神は聖書に償う方として描かれる。「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。」(ヨエル2:25)
しかしながら、一体私たちの人生の損失を誰が埋めてくれるというのか。そう思わされる時があるものだ。自分の愚かさ、馬鹿さ加減を笑うほかないことがある。自分の力では何ともし難い、時代の流れの中で、ただ朽ち果てていくのみである、と思わされることもあろう。しかし、神は、義の審判者であり、裁き主である。主に訴えることだ。
聖書には、神が再び地上に介入された物語がある。イエスの物語であるが、イエスははっきりと語っている。人がご自分のことばを聴いて守らなくても裁かない、と(ヨハネ12:47)。イエスの関心は、守らない人ではなくて、守る人に向けられている。守る人を救おうとしている。これは、旧約と新約の違いなのか。そうではないだろう。旧約においても、この出エジプトにおいても、神はご自身を恐れ、ご自身の言葉を守る者へと関心を向けられている。神はご自身の言葉を守り、従ったノアとノアの家族を守られたように。また、このエジプトの物語でも、後で見るように、神を恐れ、かもいと二本の門柱に羊の血を塗った者だけが、災いから守られることが起こっている。エジプトとイスラエルを区別したのは、神を恐れ、神のことばを守る者とそうでない者であり、神は恐れる者を見過ごされなかった、ということだ。
世が終末とその滅びに向かっていることは、誰の目にも明らかなことだろう。しかしそういう中で、神は恐れる者、神を呼び求める者、力なく神に希望を向ける者を決して見過ごされることはない。たとえ見かけは同じであっても、神は心を見られるお方である。クリスチャンとしてやることなすことは同じであっても、その中身は違うことがある。共に礼拝において賛美をしながら、賛美の歌声は同じであっても、その心が違う、御霊から歌うものであるか、肉から歌うものであるか、違いがある。神は心を見られるお方なのだから、神の前にどうであるかは、心のレベルで正しい生き方をすることに他ならない。神は心を区別されるお方なのだ。
そして正しい裁きをなされるお方である。かつてイスラエルはエジプトからの解放を求めて神に叫んだ(2:23)。それは、空しい叫びのように思われた。しかし、今は確かに神はイスラエルの叫びに応えて、エジプトからイスラエルを区別し正しい裁きをなされたのである。今や、神のさばきによる苦悩の中で、叫ぶのは、エジプト人たちであった(6節)。すべて正しいことをなされる神を恐れる者でありたい。

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