【シーズン6】人生が100倍楽しくなる、パスターまことの聖書通読一日一生(旧約聖書 新約聖書 聖書通読ブログ)

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申命記23章

2019年02月18日 06時50分47秒 | 申命記
申命記23章
申命記23章 祝福されるために
皆さんおはようございます。今日の箇所も新しい神の共同体をつくるにあたり、教えられるところの多いところです。主の集会にどのような者が加えられるべきなのか、また共同体の秩序はどうあるべきなのか、一つ一つ自分の価値観と照らし合わせて教えられるところではないでしょうか。そしてそこにやはり愛の原理、神にある秩序の原理があると言えるでしょう。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
15)主の集会に加わることの律法
(1)集会の会員(23:1-8)
 「主の集会」は、主の前に集められたイスラエルの民たちの集団を指している。少なくとも、全イスラエルの民は、年に三度、主の前に集まることになっていた(16:16)また、実際には、戦いや年毎の例祭など、様々な目的のために集められている(士師20:2)。それらの集会では、様々な神聖な儀式、特に礼拝をおこなった(4:10、9:10、10:4、18:16)。この集会に出席することが認められない者、つまり新しい神の民の国を作るにあたり、加えてはならない者が定められている。何か排他的なイメージもあるが、とりあえず、どのような人を想定しているのかを見てみよう。こうがんのつぶれた者、陰茎を切り取られた者、つまり、異教的な祭儀に関わり、自らの生殖器に何らかの傷をつけた者のことである。それは深く異教に傾倒した者を除外する、ということだ。また「不倫の子」は、関根訳では「雑種の子」とされており、ロトとその娘たちの間に生れた子孫アモン人とモアブ人を意味し、加わることが許されなかった。翻訳の印象からは何か倫理的な除外を語っているようであるが、そうではない。彼らが神の民に加わられない理由は、エジプトを脱出してきたイスラエル人を迎え入れようとしなかったためである。だから一方で、イスラエルを400年間奴隷として虐げたエジプト人を忌み嫌ってはならない、と、拒絶しなかった民については寛容である。神の民に加えてならない者の判断は、深い異教性と神の民に対する拒否性にある。
また、主の集会は、私たちの自由な集まりとも違う。神が、ご自分の集会に加わる者を決定する権利を持っている。
今日において、主の集会は神の教会というべきものであろうが、そこでは、エチオピアの宦官が主の集会に加えられたように(使徒8章)、去勢した者であれ、主の前に悔い改め主を求めるのであれば、拒まれることはない。イエス・キリストの時代にあっては、誰もが、この主の集会に加わることができる。イエスの十字架において、神殿の幕が避け、岩が避けたのは、神と人との隔ての壁、人(ユダヤ人)と人(異邦人)との隔ての壁が取り除かれたことを象徴している。主の集会に加わるに何の差別も条件もない。
(2)種々の社会規定
①陣営の清潔(23:9⁻14)
 陣営を張る時には、汚れから身を守るようにと命じられるが、それは、特に、精の漏出と排泄物についてである。主がその民とともに陣営の中におり、敵とその所有物とを征服するために、民とともに出陣するので、全ての汚れたものを取り去る必要があるというわけだ(14節)。そうでなければ主が去られてしまう、という。通常の生活ではなく、敵を前に、危機に直面している状況において、特別な節制、規制が求められている。
②逃亡奴隷の保護(15⁻16)
 「戦争の時」という文脈を受けて、異邦人の奴隷が逃げてきた場合には、優遇して丁重に取り扱うことを定めている。
③不正な利得の禁止(17⁻20)二つの場合が挙げられている。土着の宗教と結びついた宗教の名のもとに性を売り物にした利益を主にささげてはならないと戒められている。神殿男娼や娼婦のかせぎをささげてはいけない。強いては不正なお金を神にささげてはならない、というものである。確かに献金において神が見ておられるのは、お金ではなくその人のささげられたものの、動機であり、思いであり、そのために積まれた労苦であり、悩みである。献金は生活をささげることに等しい。どのような生活と働きによって稼がれたものをささげているのか、そこが大切なのである。
また同胞から利息を取り立ててはいけない。イスラエルの民にとって金を貸すのは、同胞を助けるためで、利益を得るためではないのだ。
⑤誓願の実行(21⁻23)
 神に誓う場合は、遅れずに果たす努力をし、できないことは誓わない、責任のある生き方を求めている。
⑥生活と収穫の保護(24-25)
 好意につけ込んで隣人のものを盗んではならなかった。貧しい者の生活の保護と持てる者の保護が求められている。社会は無秩序であってはいならない。持たない者を、愛をもってその生活を保護する責任があるとともに、持つ者の権利をも守り保護する社会が求められている。福祉とはこの姿勢の他のなにものでもない。社会には、規制、節制、自制があり倫理がある。欲望そのままの生活ではない。そのような感覚を持ち合わせた共同体であればこそ、そこに本当の祝福がある。

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