Daily Bread 日々の御言葉

聖書の御言葉をあなたに

「聖書各駅停車」
創世記からはじめて黙示録までをゆっくり走ります。

ブログ終了のお知らせ

2020-03-30 | Weblog
「Daily Bread 日々の御言葉」をお読みくださった皆様へ

この度、一身上の都合により、当サイトを4/5付けをもって終了することにいたしました。
更新は一昨日(3/28)までとなります。

長い間、当サイトを訪れ、御言葉に触れていただきありがとうございました。
少しだけでもお役に立てたのであれば、幸いです。

今後も、主イエス・キリストをまことの神と信じる仲間として、御言葉に親しみ、成長し、主の御心を満たしていくことができますようにと、お祈りいたします。

感謝を込めて。

篠田

今日の御言葉 20200328 ルカ20:1~19「ぶどう園と農夫のたとえ」

2020-03-28 | Weblog
3月28日(土)
現在のテーマ「エルサレムへで」
今日のテーマ「ぶどう園と農夫のたとえ」
■聖書 ルカ20:1~19 (17b)
■聖句 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。(17b)
■解説
エルサレムでのユダヤ教指導者たちとの論争が本格化します。彼らはイエスの権威について尋ねます。しかし、イエスを信じたいからではありませんでした。そのような彼らを前に、イエスは「ぶどう園の農夫のたとえ」を話されます。「ぶどう園」はイスラエル民族、「ぶどう園の主人」は神、「農夫たち」はイスラエルの宗教的指導者、「僕たち」は神から遣わされた預言者、「息子」はメシアであるイエスを表しています。農夫たちが跡取りの息子を殺してしまうこの例え話は、このあと起こるイエスの十字架を示唆しています。さらに今日の聖句(詩篇118:22~23の引用)にあるように、「家を建てる者」はイスラエルの宗教的指導者、「捨てられた石」がメシアであるイエス、「隅の親石」が新契約の基礎を表します。祭司長や律法学者はこの例え話を正しく理解しましたが、悔い改めには至りませんでした。それほど彼らの心は頑なであったのです。
■祈り
素直な心で、「隅の親石」となられたイエスを信じます。この石の上に新約の土台が据えられ、恵みの小石が積み上げられ教会が完成するからです。

今日の御言葉 20200327 ルカ19:45~48「神殿を清める」

2020-03-27 | Weblog
3月27日(金)
現在のテーマ「エルサレムへで」
今日のテーマ「神殿を清める」
■聖書 ルカ19:45~48 (45,46)
■聖句 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした」。(45,46)
■解説
その後イエスは神殿に行き、いきなり商売人たちを追い出されます。彼らはいけにえとして使用される動物や貨幣の両替によって暴利を得ていました。イエスの行為の理由は「祈りの家であるべきわたしの家(神殿)を強盗の巣にしている」ということで、イザヤ56:7を引用しておられます。マラキ3:1には「あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる」とあり、ゼカリヤ書の最後には「(メシアが来られる)その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」とあります。イエスの行為はメシア性の啓示でした。また、パウロは「わたしたちは生ける神の神殿なのです」(2コリ6:16)と言っていることから、私たちの心という神殿がイエスを迎えるにふさわしい状態であるかどうか点検してみる必要があります。
■祈り
主よ、わたしの心という神殿はあなたを迎えるためのものです。もし、神以外のもので満ちているようでしたら清めて下さい。

今日の御言葉 20200326 ルカ19:28~44「エルサレム入城」

2020-03-26 | Weblog
3月26日(木)
現在のテーマ「エルサレムにて」
今日のテーマ「エルサレム入城」
■聖書 ルカ19:28~44 (41,44b)
■聖句 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、‥‥‥「それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」。(41,44b)
■解説
有名なエルサレム入城は4つの福音書が取り上げていることからも、印象深い出来事であったことが分かります。その中でルカだけは異彩を放っています。それは群集の歓喜とイエスの涙というコントラストに現われています。ルカはこの時の群集の歓迎が皮相的なものであることを示そうとしています。「主がお入用なのです」という子ろばの必要性をルカだけが繰り返しています。ゼカリア9:9-10の預言について3世紀のラビたちは「イスラエルがふさわしい状態であるとメシアは天の雲に乗って来る。イスラエルがふさわしくない状態であると、いやしく、ロバに乗って来る」と言っています。ルカだけがファリサイ派の人々の拒絶の姿を示しています(39)。そして今日の聖句の件となります。この歓喜の中で、イエスだけは誤ったメシアイメージに歓喜する群集の心理を見抜き、悲観せざるを得ないエルサレムの状況を嘆かれたのです。理由は「神の訪れてくださる時をわきまえていなかった」からです。最初にベツレヘムの荒野で「神の訪れのとき」を聞いたのは貧しい羊飼いたちでした。この時も拒絶と時をわきまえない人々の姿が福音書には描かれています。後のキリスト者が時をわきまえるものであって欲しいとルカは言いたかったのかもしれません。
■祈り
個人としての神の訪れの時に、素直に心を開くことができますように。終末における神の訪れの時をわきまえ、主の御心を満たしながらそれに備えることができますように。

今日の御言葉 20200325 ルカ19:11~27「ムナのたとえ」

2020-03-25 | Weblog
3月25日(水)
現在のテーマ「エルサレムへの道」
今日のテーマ「ムナのたとえ」
■聖書 ルカ19:11~27 (19)
■聖句 主人は言った。「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」。(19)
■解説
「ムナ」は当時の通貨の単位で、1ムナは100デナリオン、1デナリオンは当時の一日の賃金に当たります。マタイ福音書では「タラントン」という別の通貨でよく似た例えが語られています(マタイ25:14-20)。背景にはエルサレムに近づきつつあり、メシアのエルサレム到来が「神の国がすぐにも現われる」(11)といった期待感を人々に与えていたことがあります。導入句の「ある立派な家柄の人が、王位の位を受けて帰るために遠い国に旅立つことになった」(12)は暗示的でキリストの昇天を、「帰って来ると」(15)はキリストの再臨を、「帰って来るまで」(13)はその間の教会時代をあらわしています。立派なその人は10人の僕たちそれぞれに10ムナを渡して商売をするように命じて旅立ちます。この例えは教会時代を生きるキリスト者についての3つの基本的な姿勢が語られています。第一に委託です。主は私たち一人一人に「ムナ」を託しておられます。第二は活用です。委託されたものを生かすことが期待されているのです。そして第三は清算です。清算は儲けた額を問題とはせずに、忠実であったかどうかが問われています。報酬は儲けた額とは比べものにならないほど大きな「十の町」です。キリストが再臨し神の国が現われるその時まで、教会は、キリスト者である私たちは、ゆだねられたものを活用して救いに連なる人々を増やすようにと期待されているのです。
■祈り
主が来られるその時まで、託されたもの(福音)を活用して、一人でも多くの人を恵みの中に招くことができますように。また、その業に忠実でありますように。