昨日の続きです。
今回はいよいよ天守内部です。
天守は第二次大戦で焼失した
ので、現在は外観のみの復元
の鉄筋コンクリート造りです。
下図⑤から撮影の東附多門の入口です。
この場所には江戸時代には続附多門が
ありました。
現在地にある解説板です。
入り口横の解説板は
大垣城の歴史解説です。
天守の構造です。
焼失前の石垣は一部のみで、赤坂金生山産の
石灰岩で、いろいろな化石が入っています。
入館料100円と良心的です。
天守内に入りました。
展示品の一部を紹介します。
文政8年の古絵図です。
焼失前の当時の国宝天守です。
関ケ原の戦いのときは3階だったようです。
1620年に松平忠良が4階に改築してい
ます。4階の4は「死」を連想して縁起が悪
いため、4階の天守の城はほとんどありま
せん。
再建した今の天守にあるのと同じ鯱鉾です。
鎧兜です。
火縄銃です。
手に取ってみることが出来ます。
火縄銃の解説板です。
兵装図です。
関ケ原の戦いのときに西軍が出した禁制です。
石田三成・小西行長・島津義弘・宇喜多秀家の連名で
出されています。
内容は ①兵士は乱暴狼藉をしてはならない
②竹木を伐採してはならない
③放火してはならない
以上を守らないときは厳罰にする。
大垣の西円寺に発行しています。
島津義弘も署名しているので、島津も西軍の主力部隊
だったのですね。
1600年頃の関ケ原周辺大名支配地図です。西軍は水色です。
織田 秀信(おだ ひでのぶ)は、清須会議で織田家を継いだ三法師です。
キリシタン大名でした。織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫。関ケ原当時
は岐阜城主でした。官位は正三位中納言で岐阜中納言とも呼ばれました。
公卿補任においては本姓で平 秀信(たいら の ひでのぶ)と記載されてい
ます。安土城で成人の後、岐阜城主となり、秀吉の「秀」をもらって秀信
と改名します。関ヶ原の戦いで、西軍に味方し落城したので、織田秀信
は自害を決意しますが、福島正則らに諌められ剃髪得度して、高野山に
入ります。
かつて祖父・信長が高野聖を迫害したため、秀信は高野聖派に追われ、
山麓の向副村に閉居したといいます。村人の情で善福寺の一隅に住み、
村の娘と結婚して一子をもうけ、幸せな日々を送りますが、1605年5月
に、病気のため秀信は26年の短い生涯を閉じます。信長の直系はこれ
で絶えたようです。(ただし、諸説あります)
織田 秀信終焉の善福寺の庵址です。
大垣城周辺地図です。
今日はここまでです。明日に続きます。
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