大垣城の紹介9 天守内部 | みどりの木のブログ

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昨日の続きです。

今回はいよいよ天守内部です。

天守は第二次大戦で焼失した

ので、現在は外観のみの復元

の鉄筋コンクリート造りです。

 

下図⑤から撮影の東附多門の入口です。

この場所には江戸時代には続附多門が

ありました。

 

 

現在地にある解説板です。

 

入り口横の解説板は

 

大垣城の歴史解説です。

 

天守の構造です。

 

焼失前の石垣は一部のみで、赤坂金生山産の

石灰岩で、いろいろな化石が入っています。

 

入館料100円と良心的です。

天守内に入りました。

 

展示品の一部を紹介します。

 

文政8年の古絵図です。

 

焼失前の当時の国宝天守です。

 

関ケ原の戦いのときは3階だったようです。

1620年に松平忠良が4階に改築してい

ます。4階の4は「死」を連想して縁起が悪

いため、4階の天守の城はほとんどありま

せん。

 

再建した今の天守にあるのと同じ鯱鉾です。

 

鎧兜です。

 

火縄銃です。

手に取ってみることが出来ます。

 

火縄銃の解説板です。

 

兵装図です。

 

関ケ原の戦いのときに西軍が出した禁制です。

石田三成・小西行長・島津義弘・宇喜多秀家の連名で

出されています。

内容は   ①兵士は乱暴狼藉をしてはならない

     ②竹木を伐採してはならない

      ③放火してはならない 

       以上を守らないときは厳罰にする。

   大垣の西円寺に発行しています。

 

島津義弘も署名しているので、島津も西軍の主力部隊

だったのですね。

 

1600年頃の関ケ原周辺大名支配地図です。西軍は水色です。

 

織田 秀信(おだ ひでのぶ)は、清須会議で織田家を継いだ三法師です。

キリシタン大名でした。織田信忠の嫡男、織田信長の嫡孫。関ケ原当時

は岐阜城主でした。官位は正三位中納言で岐阜中納言とも呼ばれました。

公卿補任においては本姓で平 秀信(たいら の ひでのぶ)と記載されてい

ます。安土城で成人の後、岐阜城主となり、秀吉の「秀」をもらって秀信

と改名します。関ヶ原の戦いで、西軍に味方し落城したので、織田秀信

は自害を決意しますが、福島正則らに諌められ剃髪得度して、高野山に

入ります。

かつて祖父・信長が高野聖を迫害したため、秀信は高野聖派に追われ、

山麓の向副村に閉居したといいます。村人の情で善福寺の一隅に住み、

村の娘と結婚して一子をもうけ、幸せな日々を送りますが、1605年5月

に、病気のため秀信は26年の短い生涯を閉じます。信長の直系はこれ

で絶えたようです。(ただし、諸説あります)

 

織田 秀信終焉の善福寺の庵址です。

 

大垣城周辺地図です。

 

今日はここまでです。明日に続きます。

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