最初に「回転ずしすしろー」に行ったとき
すしろーネタを投稿すれば商品券が当た
ると知り、期間限定ホタテの寿司が美味し
かったので、みどりの木のツイッターに投
稿しました。
期間限定のホタテにぎり寿司です。
ホタテが大きくて、口に入れると柔らかい
ホタテが、口いっぱいに広がりました。
美味しかったので3皿食べました。
これから本題です。
今回2019年1月7日に見学に行った、
旧交野(かたの)代官所の紹介です。
地元では代官屋敷と呼ばれています。
江戸時代に高家旗本として三千百二十石を領
した、畠山氏の代官所で、1708~1734年に
かけて母屋が建てられています。建てられた
当初は茅葺き屋根でしたが、1797年に本瓦
葺きに葺き替えられ、昭和59年からの保存
修理工事で茅葺形銅板葺となりました。現在
母屋は国重要文化財です。
下地図①付近からの撮影です。
代官職の北田家は北畠顕家の後裔を称して、
北畠顕家から9代目の好忠の時に、交野の
私部城主安見(やすみ)直政の家臣でしたが、
元亀元年(1570年)織田信長による、本願寺
攻めに安見氏が大敗し、城は大和の筒井勢
に攻められ落城します。その約20年後、京都
の叔父の元にいた嫡子・好孝が私部(きさべ)
に戻り、現在の地に居住し農業を始めました。
江戸時代になり、1619年に畠山氏の子孫・
旗本畠山修理太夫に、大和国宇智郡内・河
内国交野郡内・摂津国豊嶋郡内で、合計三千
百二十石が与えられました。私部(きさべ)の
3分の2を所領したとき、、初めは畠山氏が
直接支配し、北田家はこの地の庄屋を勤める
ことになります。そして18世紀前半、第6世
佳隆の代には代官職をまかされました。
北田氏は以後世襲で代官職を務め、10代
好剛まで続き、幕末1864年に同村の原田
伝兵衛に代官職を譲りました。譲った理由は
よく分かりませんが、下写真のような豪壮な
長屋門を幕末に建てたのが、畠山家の怒り
に触れての交代とも考えられます。
代官職を勤めた北田氏は南北朝時代に南朝
方だった武将・北畠顕家の末孫と伝えられ、
南朝没落後、足利将軍家にはばかって姓を
「北畠」の白を除いて「北田」と改めたといわ
れます。
私部(きさべ)城主安見氏の重臣となってい
ます。私部城跡は後に紹介します。
下図③辺りから撮影の北田家の長屋門です。
天保14年(1843年)に建てられた、長さ
56mもある長屋門です。民家では日本一
の長さだそうです。現地の方に聞くと火曜
日に公開されているそうです。
交野代官所周辺地図です。右下に交野代官所跡とあります。(グーグルより引用)
北田家は敷地約4000㎡(1200坪)の広さがあります。
一般公開日が春と秋の2季制に変わりました!
見学は事前に予約が必要です。先着30名
下記に申し込み下さい。
交野市社会教育課 文化財係 TEL 072-893-811
ということで、この日は外周をまわり写真を撮影しました。
上図②辺りから撮影の①の所です。
②から撮影した長屋門です。
台風の被害か壁の漆喰が剥がれています。
③の所にある長屋門の入口です。
門の中に入った所は交野市のWebページ
より引用させてもらいますが、今回はここま
でで明日後編です。
読者募集中ですので、読者登録はここのリンクです。
希望があれば、相互登録します。
毎日午後8時半頃に更新しています。
「相手わかるように」に設定して読者登録してください。
読者のブログ村・ブログランキングは出来るだけ押しに行きます。
Ctrlキーを押したままで、ポチしたら画面が飛ばされません。
お手数ですが、よろしく。ぽちっと押すだけ