徒然なるままに修羅の旅路

祝……大ベルセルク展が大阪ひらかたパークで開催決定キター! 
悲……大阪ナイフショーは完全中止になりました。滅べ疫病神

【近況報告】デスマーチ進行中。

2019年07月14日 12時50分17秒 | 日記・雑記
 皆様お久しぶりです。

 じめじめして過ごしにくい昨今、俺は相変わらず人手不足のデスマーチで過ごしております。ふたりやめて二人入って三人やめるってどぉいうことよ。

 ここしばらく、カクヨムに上げてる修学旅行云々の主人公・龍華たちばなあずまの初恋の話に手をつけておりました。起床一時間で出勤な生活が続いており、もう数ヶ月経つのにめっちゃ遅々として進みませんが。

 AEDの使用法について調べたり心室細動に調べたりもしております。

 せっかくですので、造りかけですけど一部載せてみます。サボってるわけじゃないんだよアッピルですね。

 ところで、先々月あたりからのアルスラーン戦記。
 手足の腱を切断するくらいしろよ拷問吏。グリフィスの手足の腱を切断して逃げられない様にした再生の塔の拷問官を見習え。


 あと最近の修羅の刻、えらく絵柄が崩れましたね。ストーリーも微妙だし。
 狛も決着つくまでずっと本多忠勝をストーキングしてたんでしょうか。つまり作中においては本多以外と戦ってない……?












 外の吹雪はどんどん強くなっている。家にいたくなかったから出てきたが、大伯父――と呼んでいる祖母の従兄弟――の家への用事など別に今日である必要があるわけでなし、やめておくべきだったかもしれない。
 そんなことを考えながら、路線バスの最後部席の右側の窓際に腰を下ろしたあずまは窓枠に引っ掛ける様にして肘を突き、頬杖で頭を支えたまま小さく嘆息した。耳まで覆うニット帽をかぶったままの顔が、外が薄暗いために窓ガラスに映り込んでいる。
 バスの車内には雷も含めて、乗客が十五人――田舎の日常というべきか、利用者の大半が老人だ。
 バスが年代物で暖房が不十分なので、雷に限らず地元民の乗客はたいてい厚着をしている――ひとりだけ道民ではないのか、身なりのいい痩せた老人が羽織ったコートの前を掻き合わせる様にして少し寒そうにしていた。
 おそらく就航から数十年が経過しているであろう古ぼけたバスはサスペンションが傷んでいるらしく、少々振動が激しい――石北本線から離れた場所に位置するために電車の通っていないいくつかの町や村をつなぐバスを運営するのは田舎の小さなバス会社で、多少の補助金が出ていても車輌を新調するのには程遠いのだろう。
 まあそれでも、運営出来ているだけ御の字だ――雷の地元である上川町は層雲峡があるからまだいいが、近隣の小さな町や村は観光事業を成り立たせられるとはとても言い難い。農産物の販売などがあるから別に外部収入が無いわけではないだろうが、町全体の税収がさほど多くはないからだ。
 ただ、そんな就役ン十年のおんぼろバスであっても、近隣住民の貴重な足には違い無い。問題は高齢化が進む運転手の人材不足だろうが――
 足元になにかが転がってきたところで思考を中断し、雷はそちらに視線を向けた。
 小さな子供用の玩具が、足元の床の上に転がっている――どうやら雷のブーツに当たって止まったらしい。前席の背もたれが邪魔でやりにくかったが、雷は上体をかがめて足元の暗い空間に転がったミニカーを拾い上げた。
 視線を向けると車内の端から端まで一体になった最後部の座席の逆側に、母親らしき女性を真ん中にはさんでふたりの子供たちが着座している――男の子は小学生になるかならないか、女の子はもう少し小さい様に見える。親の躾が行き届いているのだろうふたりの子供たちはおとなしく座って母親と小さな声で会話していた。
 ふたりのどちらかが落としたものなのだろう、おそらく手前にいる男の子のほうだろうが、三人そろって太陽を追う向日葵みたいにこちらに視線を据えている。あらためて観察すると、母親は防寒着で着ぶくれしていてもわかるくらいお腹が大きかった。
「ほら」 そちらに身を乗り出す様にして男の子に玩具を返してやると、母親とおぼしき女性が微笑を浮かべて一礼してきた。
「ありがとう」
 その会釈に一礼を返し、母親に倣って頭を下げる男の子にうなずき返してから、再び窓枠の下に肘を突く。
「お兄さんはバイトかなにか?」 十代半ばの少年の恰好が上が黒いロングコート、下が膝上にポケットがついた作業ズボンなのが不思議だったのだろう、母親がそんな問いを投げかけてくる――雷は閉じかけた目を開いてそちらに視線を戻し、
「養蜂をやってる親戚のところに用事でしてね――もう帰るところなんですけど」
「ようほう?」 首をかしげる男の子に、
「蜂蜜を作ったりするお仕事だよ」 雷はそう返事をして、座席の上に載せていた取っ手つきの紙袋の中を探った。
「ほら、こういうの」 大伯父から土産にと渡された紙袋の中から小瓶入りの蜂蜜を取り出して、少年の前に差し出してやる――可愛らしくラッピングされた小瓶入りの蜂蜜は、高級デパートなどに卸されるたぐいのものだ。食品だけでなく蜜蝋を使った石鹸や蝋燭、蜂蜜を使ったシャンプーや化粧品なども扱っており、インターネットを介した通信販売も行っている――いい時代になったものだが、自分の牧場のホームページを扱っていることもあってこうして雷がちょくちょく呼び出される。
 代わりに養蜂に関する知識はいろいろと教えてもらえるし実作業も経験出来るので、実家の牧場と農場を継ぐつもりでいる雷としてはWinWinというところだった――大伯父のところの若い親戚たちとのつながりが深まるのも悪いことではないのだが、ただ悪天候時に呼び出すのは出来れば勘弁してほしい。
 まあ今回USBフラッシュメモリにHTMLファイルをショートカットとして保存し、IDとログインパスワードも保存してきたので、これからは悪天候時は自分のパソコンから遠隔で対処すればいい。というか、スマートフォンもSkypeも使いこなしているのになぜパソコンだけ駄目なのか。
 最近ではスマートフォンのフリック入力のほうがキーボードよりも早く出来る若者が増えているというが、雷にはどうにもピンとこない――どう考えたってキーボードのほうが使いやすいと思うのは、武術の修練やら戦闘訓練やらで出来た胼胝たこのせいでごつごつした指がスマートフォンの小さな画面に向いていないからかもしれない。とりあえず指紋認証万歳。
 そんなことを考えながら、雷は妹らしい女の子に小瓶を渡している男の子の様子に目を細めた。
「これは蜜柑の木のお花から取った蜂蜜に蜜柑の干し皮ピールを入れた、ジャムみたいにして使う蜂蜜でね」
 男の子から蜂蜜の小瓶を受け取って目をキラキラさせている女の子に、雷はそんな説明をしながら小さく笑った。
「お嬢さんおいくつですか」 という雷の問いに、
「四歳」 と母親が返事をしてくる。雷はその返答にうなずいて、女の子に視線を戻した。
「それあげる――冷蔵庫で冷やして食べて」
「ありがとう!」 雷の言葉に、女の子がパッと顔を輝かせる――母親が軽く眉を寄せて、
「いいの?」
「どうぞ」 これは朱莉たちも気に入っているから、持って帰れば喜ぶだろう――ただ、よその子にひとつ分けたくらいで目くじらを立てたりもすまい。
 年齢を確認したのは、二歳未満の幼児に蜂蜜を食べさせると重篤な後遺症を残す中毒症状を起こすか、最悪死ぬこともあるからだ――蜂蜜には休眠状態のボツリヌス菌が存在しており、芽胞と呼ばれる外殻で保護されている。この外殻があるためにボツリヌス菌は熱に耐性があり、蜂蜜ごと加熱しても死滅させることが出来ない。
 同様に芽胞があるために高濃度の糖分の中でも死滅させることが出来ない菌でもあり、さらに発芽したボツリヌス菌が作るボツリヌス毒は仮に細菌を死滅させても加熱で分解されない。
 人間がボツリヌス芽胞の附着した食物を経口摂取した場合は腸に届く前に芽胞が不活化されるのだが、消化器官が未成熟な乳児や幼児の場合、ボツリヌス菌の芽胞が不活化されないまま小腸まで届いてそこで発芽し毒素を作り始める。
 その結果腸内で産生された毒素を小腸から吸収し、乳児ボツリヌス症と呼ばれる中毒症状を引き起こすのだ――ボツリヌス毒の乳児中毒症としては蜂蜜は因果関係がはっきり確認されており、厚生労働省は一歳未満の乳児に蜂蜜を摂取させることを控える様呼びかけている。
 成長度合いには個人差があるので雷としては二歳くらいまでは控えるべきだと思っていたが、四歳ならもう問題無いだろう。
「ありがとう」 再び会釈する母親にうなずいて、雷はちょっと首をかしげた。
「お母さんたちは、里帰りかなにかですか?」
「主人の実家にね」 母親がそう返事をしてくる。では彼女の夫は単身赴任でもしていて、実家で妻子と合流して年末年始を過ごすのだろうか。そんなことを考えたとき、
「半年ほど前に亡くなった主人の両親が、そろそろわたしのお腹の子が心配だからうちにおいでって言ってくれてね」
「……すみません、無神経な質問をしました」 深々と頭を下げた雷に、母親があわてて手を振ってみせる。
「やめてよ――夫が亡くなったのはわたしが勝手に話しただけで、別に君はなにも悪いことは言ってないじゃない」 彼女はそう返事をしてから、羽織ったダウンジャケットの上からお腹に触れた。
「だからこの子が最後に残してくれた主人の忘れ形見でね、両親も気にかけてくれてるの」
 雷はその言葉に小さくうなずいてから紙袋の中身を探り、
「これも食べる?」 はちみつあめと印刷された紙袋を取り出して封を切り、男の子のほうに差し出してやる。
「お母さんもよかったら」
「いいの?」 大喜びで紙袋の中に手を入れ、個包装された飴玉を取り出して妹にひとつ渡している――いい兄ちゃんだ――男の子に視線を落とし、母親がそう尋ねてくる。
「どうぞ――気に入ってもらえて親戚のところの顧客になってもらえたら御の字です」
「それじゃ遠慮無く」 母親が紙袋に手を入れて、ビニールの包装の両端を捩る形で個包装された飴玉を取り出す。
 視線を転じるとたまたま前の席に座っていた身なりのいい老人がこちらを見ているのが視界に入ってきたので――雷はそちらに身を乗り出して紙袋を差し出し、
「よかったらどうぞ。ほかの人たちも」 という言葉に別に自分がほしかったわけではないのだろう、微笑ましげな様子で子供たちを眺めていた老人があわてて手を振った。
「いやいや、別にほしかったわけじゃ――」
「わかってますけどね。内地の人の様ですし、お気に召したらご家族のお土産にしていただければありがたい――宣伝みたいなもんです、遠慮無くどうぞ」 老人がその言葉に紙袋ごと飴を受け取りながら、
「どうしてよそ者だってわかるんだね」
「天候に対して備えが甘いので。防寒被服を十分に持ってらっしゃらないのかと――地元民ならそんなことはあり得ないので」
 薄着を指摘する雷の返事に、老人はなるほどとうなずいた。実際、地元民なら雷の様になるべく薄手でも保温性の高い服を着込むか、ダルマストーブのごとく着膨れするかのどっちかだ。老人はそのどちらにも見えなかった――特に彼は、バスに乗り込むとき耳当てをつけていなかった。上川町はともかくこのあたりはバスの本数も少なく、それ以外の公共交通機関もお世辞にも充実していないので、待ち時間がどうしても長くなる。この強風下だというのに耳の防護をしていないのは、地元民ではまずあり得ない。
 雷は自分の耳を指差して、
「屋外にいる時間があまり長くなる様なら、耳は保護しておいたほうがいいですよ――冗談抜きで耳が無くなります」
「それは洒落にならんね」 老人はうなずいて、
「まあ向こうに着きさえすれば、外にいる時間はそんなに長くないから大丈夫――だと思う」
「あまり長期の旅行というわけでもなさそうですけど」
「うん、古い友達の墓参りに行った帰りでね。層雲峡まで行って、そこから電車で移動するんだ」 あまり多くない手荷物に視線を向けて雷が口にした言葉に、老人はそう返事をしながら蜂蜜飴の包装をはずして黄金色の塊を口に放り込んだ。老人が片眉を上げて、
「ほう、これは――いい匂いだ。なるほど、お土産にはよさそうだね」
「そう言ってもらえるとありがたいですね」
「旭川空港の土産物売り場にあるかな」
「ええ」
「君はこの年末になにをしてるんだね?」 高校生には見えないが、という老人の言葉に雷はかぶりを振った。
「いえ、俺はうちの牧場の仕事をしてます」 これは関係無いですけどね、と付け加えると、
「なにを作ってるんだ?」 別の席に座っていた老人が、ひととおり配られ終えて半分くらいの重さになった紙袋を返しながらそう尋ねてくる。雷は差し出された紙袋を受け取りながら、
「乳製品です。チーズやらヨーグルトやら――あとは猪やら鹿やらのジビエ肉で燻製のたぐいとか」
「それは興味あるね。どこで?」 先ほどの老人の問いに、雷はそちらに視線を向けた。
「このバスの終点ですよ――上川町です。温泉街からは遠いですけど」
 老人はその返事にうなずいて、
「牧場かぁ。一度スケッチしてみたいんだが、どこかよさそうな場所は無いかな」 独り言の様なその言葉に、雷は首をかしげた。
「写生がご趣味なんですか? 残念ですけど、この時期の北海道じゃどこ行っても雪しか無いですよ」
「否、違うよ――これでも一応画家なんだ」 雷は老人の返事にうなずいて、
「この時期はどこに行っても雪しかないし、家畜も外に出しません――まきで放牧された牛と牧童のスケッチをしたいなら、時期を改めるべきですね」
「じゃあ春になったら、君のところのスケッチしに行ってもいいかね」
「それは歓迎しますけど――俺がいるかどうかはわからないですね、学校が休みの時期だったら帰ってると思います」
「普段は家にいないのかい」 全寮制の学校なのか?という老人の問いに、雷はかぶりを振った。
「今は違います――でも春からそうなります」
「ああなるほど、進学で家を出るのか」 東京にでも行くのかと続けてきた老人の言葉に雷は再びかぶりを振って、
「弟はそうです。でも、俺はこっちに残るつもりでいます」 そう返事をして、雷は小さく笑った。
「俺は家の牧場と農場を継ぐつもりでいるので――こっちの土地と仕事が好きですから、都会に興味はありません。高校と大学を使って、そっちの勉強をしようと思ってます――といっても実作業はほとんど出来るから、主な目的は資格取得ですけど」 あとは経営を学べれば、と続ける雷に、老人が小さくうなずいた。
「それなら夏休みの時期に訪ねれば、君がまきで仕事をしてるところをスケッチ出来るのかな」
「ええ、たぶん」 雷はそう返事をしてから、羽織った上着のファスナーを半分くらい下ろして懐に手を入れた。春になると都会へ出る穣と違い、雷はすでに実家の牧場の名刺を持っている――金属製の名刺入れから一枚を取り出して老人に差し出すと、彼はそれを礼儀正しく両手で受け取った。
「どうぞ。かなり標高差がある場所なんで、住所は上川町でも層雲峡からはかなり離れてますけどね」
「ふむ」 住所を見てもピンとこないのだろう――あるいは老眼で見えていないだけかもしれないが――、老人は受け取った名刺にちらりと視線を落としてから胸ポケットにしまい込んだ。返礼のつもりなのだろう、老人が自分の名刺を差し出してくる。
 受け取った紙片に視線を落とすと、名前は坂巻啓次郎とあった。住所は愛知県豊田市下山、確か以前は村だったはずだ。豊田市は周囲の村落を合併して一気に面積が拡大したから、そのときに豊田市に取り込まれた村のひとつだろう。
北海道こっちには、そのご友人のお参りだけですか?」
「札幌の画廊で個展があってね。少し早目に北海道に来て、墓参りに行ったんだ」
 老人がそう返事をしてくる――江戸龍華の者たちはともかく来歴は武家の子孫でも現状は農民の子でしかない蝦夷龍華の雷には美術品の造詣などまったく無いので、名前がわかってもこれもまたピンとこない。そんなにすごい人なのだろうか。
 まあ、帰ったら出海に聞いてみればわかるだろう。そんなことを考えながら、雷はもらった名刺を懐にしまい込んだ。
「ところで――」 会話が途切れたところで、子供たちの母親が声をかけてくる。
「はい?」
「お兄さんの目、綺麗な緑色よね――ハーフ?」
「いいえ」 雷は彼女が自分の目元を指差しながら口にした質問にかぶりを振って、
「母方の曾祖父がアメリカに渡った日系人移民でしてね、母がアングロサクソンのクォーターです」
「じゃあ八分の一?」
「いえ、母親が日本人の血が四分の一で――そこに父親が日本人なんで、日本人の血が五分の二ですね」
 それで根本的な認識の違いに気づいたのだろう、母親がそうなんだとうなずいた。
 雷には母方の祖父母が二組いる。先ほどの話に出てきたアメリカに移民した曾祖父の産んだ息子夫婦である実祖父とは別に、曾祖父の兄夫婦の息子夫婦が不妊だったために祖父母の産んだ子のひとりである母ゆきを養子として引き取った結果出来た養祖父母がもう一組いるのだ。
 養祖父母は深雪が十代のころに亡くなってしまったため、雷たち兄妹は養祖父母に会ったことは無いのだが、それはともかく実祖父は黒髪黒眼で外見は日本人とさほど変わらない――彼もアングロサクソンと結婚した結果その子供たちの白人の遺伝子が自己主張を始めたらしく、母の兄妹、つまり雷にとっての伯父叔母たちは金髪碧眼の白人としての特徴が強く出ている。一番父親似だったのが、グリーンの瞳以外は日本人に近い外見の母深雪だ。
 つまり祖父が日米のハーフ、祖母が白人なので、深雪は白人の血が四分の一の日米クォーターではなく日本人の血が四分の一の米日クォーターだ。
 父親が日本人なので、雷たち兄妹は白人の血が五分の三入っていることになる――よほど龍華りょうげの遺伝子の自己主張が強いのか、外見に顕れている特徴は瞳の色とちょっと色白なことくらいだったが。妹ふたりにいたっては黒髪黒眼で、ぱっと見では混血とはわからない。
「ああ、外人さんの血のほうが濃いんだ」
「ええ」 目の色以外はそう見えないね、という感想に苦笑しながらうなずいて、雷は席に座り直した。学校の遺伝に関する授業で習った限りだともともと生物の表現形、外観に顕れる遺伝的特徴に関してはアングロサクソンよりも東洋人のほうが優性であるらしいが――おっと、今は顕性けんせいというのだったか。
 そんなことを考えながら、蜂蜜飴の袋の口を折りたたんで足元の紙袋の中に戻す。
「じゃあ親戚がアメリカにいたりするの?」
「ええ、カリフォルニアに三十五人ばかり。おかげで日本で売ってないCDとか洋書を手に入れるのは楽です」 雷はそう返事をしてから、三十五人で合ってたよな?と頭の中で人数を数え直した。まだ存命の曽祖父、祖父母夫婦と大伯父ふたり、それぞれのその配偶者と子供、さらにその配偶者と孫たち。雷たちと同世代の孫たちはみんな十代で、結婚はしていない。うん、新たに子供が増えたという連絡は来ていないから三十五人。
「あ、すごい――英語で書かれた本を読めるの?」
「ええ」 雷はそう返事をして、ちょうどそのタイミングでシャンシャンというメールの着信音を奏でたスマートフォンを懐から取り出した。
 ソニーが公式で提供している雪山の一軒家の様なスマートフォン用待ち受け画面のテーマに附属してくる着信音だ。通知音がベル音だったりシルエットのサンタが橇に乗って空を飛んでいたりするあたり、クリスマスが題材らしい――別に毎年北米航空宇宙防衛司令部N O R A Dがサンタクロースを追跡しているなどという与太話を真に受ける様な歳でもないが、別段クリスマスが嫌いなわけでもない。宗教に興味は無いが、まだまだサンタの存在を信じている年代の子供が身内にいるのだからないがしろにも出来ない。それににぎやかなのはいいことだ。
 それはともかく指紋認証のセンサーに触れてデスクトップを開くと、左上に『通信サービスがありません』というメッセージが表示されていた――それとは別に『未受信のメールがあります』というメッセージも表示されている。ほかのキャリアは知らないが、docomoのXperiaの場合はデータ通信が途絶した状態だと時折こういったメッセージが表示される――どうも一定時間ごとに表示されるだけらしく、実際にメールやメッセージが届いていることはそう多くないのだが。
 三日前に買い換えたばかりのスマートフォンなので、どうにも使い方がよくわからない――帰ったら151に電話してみようか。
 このルートは基地局から極端に離れるらしく、一時的ではあるが通信が完全に途絶する――どうやら、いつの間にか電波の範囲外に出ていたらしい。
 首をすくめて携帯電話を懐に戻しかけたとき、がくんと車体が跳ねた――左前輪がなにかに乗り上げたのか車体が大きく傾き、そのまま元に戻ること無く右に向かって倒れ始める。
 周りからも悲鳴が聞こえてきている――すでに車体の傾きは座席に座っていられない角度に達しており、ややあって悲鳴とともに反対側の窓際に座っていた女性と子供たちが降ってきた。
 ほぼ同時に車体が完全に右側に横転したらしく、慣性で前方に滑っている車体の外板が除雪された路面とこすれるガリガリという音とともに激しい振動が伝わってくる。
 一瞬遅れて彼の上に落下してきた母子連れを、雷は両手を拡げて受け止めた――子供たちも問題だが、母親は妊娠中なのだ。携帯電話が圏外になっていて助けも呼べない様な場所で、なにかあったら命にかかわる。
 ドスンという衝撃とともに、母親と子供たちの体が落ちてくる――同時に右腋腹に激痛が走って、雷は小さく悲鳴をあげた。
 横倒しになった車体がまるでゲレンデの瘤に突っ込んだスキーヤーの様に一度跳ね上がり、そのあと再び落ちて強烈な振動が走る――再び腋腹に激痛が走り、同時に下側になった右側の窓ガラスが割れる音が聞こえてきた。
 続いてなにかにぶつかったのだろう、ごしゃっという音とともに車体の前滑りが止まり、フロントシールドが割れる音が聞こえてきて――同時に慣性で前方に体が弾き飛ばされ、前方の座席の裏側に顔面から叩きつけられて、雷は意識を失った。

 どれくらい時間が経ったのかは、わからない――暖かい感触が頬に感じられて、広河沙織は目を開けた。自分が誰かの胸に体重を預けて寝転がっているのに気づき、自分の体の下にいるのが十代半ばの少年であることに気づいて、ぎょっとする――だがあまりにも肌寒い空気に、彼女はすぐに自分の置かれた状況を思い出した。
 意識を失う前の最後の記憶はいきなり横倒しになったバスの座席から放り出される無重力感と、下側になった右側の座席に座っていた長髪の少年が転げ落ちてくる彼女たち母子を抱き止めようと両手を拡げる姿。
 そうだ。
 上体を起こすと、彼女の体の下になっていたのがあの子供たちに飴玉と蜂蜜をくれた少年だと知れた――車体の横転によって座席に座っていられなくなり、放り出されて落下した三人を受け止めようとしたのだ。
 少年は彼女の体の下敷きになったまま、意識を失っていた――車体がなにかにぶつかったときに慣性で前方に体がずれ、それで前の座席の背もたれの裏側に顔をぶつけたのだろう。頭の下の窓はガラスが砕けて窓枠だけになっているが、幸いなことにニット帽をかぶったままだったおかげでガラス片で怪我をしたりはしていない様だった。
 とりあえず少年が呼吸をしており、血色がおかしくなった様子も無いことだけを確認して、沙織は胸を撫で下ろした――上に乗ったままの沙織が大きく身じろぎしたからだろう、下になっていた少年が覚醒し始めたらしく唇から小さなうめきを漏らす。
「しっかりして」 少年の体の上からどいて彼の肩に手をかけ、軽く揺する――どうやらダメージは軽微なものだったらしく、すぐに少年の瞼がぴくぴくと痙攣し始めた。
 ややあって意識を取り戻した少年が、首を振り振り上体を起こす。
「くそ、なにが――」 どこか傷めたのか顔を顰めながら、少年は上体を起こした。毒を吐きつつも周りを見回して――それで彼は、すぐそばで座り込んでいる沙織に気づいた様だった。それで状況も思い出したらしく、
「大丈夫ですか? お腹に異状は?」 という質問が彼女のお腹の胎児の状態を気にかけているのだと気づいて、沙織はかぶりを振った。
「今のところは、大丈夫――お兄さんは?」 少年はその言葉にその場で座り込んで首を振り振り、
「大丈夫とは言えませんが、支障はありません。それより、ほかの人は――」 少年は単に若いというだけではない、明らかに訓練された素早い身のこなしで立ち上がり、周りを見回した。うめき声とともに身を起こしつつあった、少年に名刺を渡していた老人に視線を向け、
「無事ですか」
「ああ、なんとか」 老人の返事にうなずいて、少年が主導的な役割を担うのに慣れている自信に満ちた口調で指示を出す。
「後ろから順に、ほかの乗客の様子を見ていってください――特に左側の席に座ってた人たちを」 俺はとりあえず運転手の様子を見てきます――少年はそう続けて、足元に倒れている息子の体を躱して車体の前のほうへと歩いていった。

 車内の空気はエンジンが停止シャットダウンした時点で暖房ヒーターが止まり、急速に冷えてきている――フロントシールドが砕け散り、そこから暖気が流出したためだ。吹雪の風は後方から吹いていたため、フロントシールドが割れたことで出来た開口部から風雪が吹き込んでいないことだけが不幸中の幸いだろう。
 そんなことを考えながら、雷は天井に沿って車体前方に歩いていった。
 数人の年老いた男女が、折り重なる様にして倒れている――車体が横転した拍子に、左側の座席に座っていた者たちが放り出されたのだ。
 立ち乗りの乗客が体を支えるためのスタンションバーを跨ぎ越え、運転席へと近づいていく。
 最終的には坂巻という画家の老人も含めて、全員の状態を確認しなければならない――胸中でつぶやいて、雷はスタンションバーを乗り越えようとしたときに走った右腋腹の痛みに顔を顰めた。
 服の上から軽く押さえると、痛みが走る――どうやらあの母子を受け止めようとしたときに、肋骨が折れるかひびが入るかしたらしい。
 だがどうでもいい――骨折箇所は痛い、痛いがそれだけだ。
 痛みで動きが鈍るのは人間ヒトだけだ。修羅の化生けしょうたる龍華りょうげ鬼神おに龍華りょうげ雷にはなんの関係も無い。
 そんなことを考えながら、雷は懐に手を入れた。手探りで携帯電話を探し――いつも入れている作業服の胸ポケットに板状のスマートフォンが無いことに気づいて眉をひそめる。
 そういえば、携帯電話を胸ポケットに戻そうとしたときに車体が横転したのだ――懐から飛び出してどこかに行ったのかもしれない。あとで回収しよう――数日前に買ったばかりなので、失くしたらいろいろと悲しすぎる。
 否、携帯電話は買い替えれば済むからどうでもいいが――出来ればmicroSDカードは回収しておきたい。大吾郎と梅吾郎がそれぞれ仔犬だったころから撮り溜めた写真が入っているのだ――パソコンのハードディスク容量の関係でパソコンに入っていないので、失くしたら替えが利かない。
 車体が横転した直後に一度バウンドしたから、その拍子にガラスが割れた窓から飛び出して車体の下敷きになったりしていなければいいのだが――
 彼が運転手を優先したのは、言うまでもなく運転手になにかあったためにこの状況になっているからだ――単純に運転をミスした可能性もあるが、意識を失う前に車体がなにかに激突して止まる衝撃が伝わってきていた。高齢の運転手になにが起こったのか、現時点でははっきりしないが――なにが原因で横転したかは置いておいて、車体がなにかに正面衝突して止まった以上、運転席にいた運転手が被害を受けている可能性がある。
 運転席の背もたれシートバックの向こうに、エアバッグが展開したステアリングと禿げ上がった老運転手の後頭部が覗いている。意識を喪失したままなのか、動きは見せて――否。
 小さく舌打ちを漏らし、雷は間にあったもう一本のスタンションバーを乗り越えて運転席のそばに近づいた。
 七十代に差し掛かった運転手が、全身をおこりの様に震わせている――顔色を失って苦しげな浅い呼吸を繰り返し、意識は完全に喪失している様だった。
 これは――
 顔面蒼白チアノーゼの症状も呈している――肺か心臓いずれかの機能に異常が生じ、全身に鮮血フレッシュブラッドが行き渡らなくなっている証拠だ。
 鮮血が行き渡らない、すなわち酸素供給が滞っている。
 首を支点に顎を持ち上げて気道を確保しても、呼吸が再開する様子は無い――口腔を調べても、舌が落ちて窒息しているわけではない。
 素早く手首を取って脈拍を測り、瞼を開かせて瞳孔の状態を確認して小さくうめく。
 脈が無い。すなわち心臓の機能に問題が生じている――心臓になんらかの異常が生じて、肺に血液が送られなくなっているのだ。
 水面に顔を出して餌をねだる鯉の様に口をパクパクと動かしているのは、本人の意思によるものではない――肺に瀉血が流れ込まないことに気づいていない肉体が呼吸が出来ていないせいでガス交換が行われないのだと勘違いして、なんとか新たな空気を取り込もうと無駄な努力を繰り返しているのだ。
 肺は取り込んだ空気の中から酸素を取り出して血中に送り込み、代わりに血中から取り出した二酸化炭素を呼気と一緒に排出する器官だ。だが肺の機能が正常であっても、そこに血が流れてこなければ瀉血は鮮血に変わらない。
 脈拍喪失、意識喪失、全身痙攣、死戦期呼吸。
 なんらかの原因による心停止や心筋梗塞などの発作、あるいはVf、Vtなどの重篤な不整脈か。
 Vfは心室細動と言われるもので、不整脈の一種でありその中でも特に深刻なものだ――心筋梗塞や心臓弁膜症など心臓の既往症がある場合に多く起こり、急性心筋梗塞の初期症状であることもある。心臓に問題が無い場合でもカリウム、ナトリウムといったミネラル成分の血中濃度が原因で発生したり、心臓に衝撃を受けた場合に起こる(※)。
 心臓は電気刺激が順番に伝わることによって順序正しく、規則的に収縮して全身に血液を送り出すポンプである――心室細動はこの電気刺激が巧く伝わらない、あるいは伝送順序に狂いが生じることで本来は1-2-3-4の順で収縮すべき心筋が2-4-3-1といった様に出鱈目なパターンで収縮している状態だ。
 Vtは心室頻拍と訳されるもので、心筋の収縮がまるで震える様に細かくなり、十分な圧力で血液を送り出すことが出来なくなる。

※……
 心臓震盪しんとうと言われるもので、キャッチボールなどの際に心臓に打撃を受けることで心室細動が誘発され、小児の突然死の原因になります。格闘技における心臓撃ち(昔セスタスでやってましたが)も、心臓震盪による心室細動を起こすことで殺傷するためのものです。
 生きた人間を胸骨圧迫(心臓マッサージ)の練習台にすることが禁じられているのもこれが理由で、心臓が正しく働いているところに余計な衝撃が加わって心臓周りの筋肉が混乱してペースを乱し、心室細動の原因になるからです。




 心臓が完全に停止しているのか、心室細動の様に機能不全を起こした状態であるのかは問題にならない――対処は同じだ。心臓が完全に止まっていようがほかの心臓疾患であろうが、心肺蘇生を行うという対処は変わらない。
 野戦医療コンバット・ファーストエイドでは、とりあえず胸骨の下半分を強めに叩いてみるという方法があるのだが――雷は即座にその選択肢を排除した。
 それで確実に成功する保証は無い。これが目の前で発作を起こして倒れたのなら試してみる価値はあるが――時間的余裕が十分あるからだ――、今の状況では駄目だ。
 雷自身が意識を失っていたために、老運転手が意識を喪失してから今までどれだけの時間が経過しているかわからないのだ。救急救命講習で教わる様な心肺蘇生法と違って、たいした負傷をさせることが無いという利点はあるものの――それで巧くいかなかったら、貴重な時間を浪費することになる。
 確かこのバスには、あったはずだ――胸中でつぶやいて、雷は立ち上がった。このバスは後部から乗り込んで前から降りるオーソドックスな構造だが、出口の近くに体外型自動電気式除細動機、AEDの収納ボックスがあったはずだ。町や村落の間を移動することと乗客に高齢者が多いため、危急の事態に備えて設置したらしい――最初に使うことになるのが運転手だとは、バス会社側も想像していなかっただろうが。
 最近は救急救命講習などで胸骨圧迫と呼び方が変わった心臓マッサージだが、蘇生の確実性を期すならばAEDとの併用が必須になる――心肺蘇生法による心臓の拍動の再開は同時に心臓震盪による心室細動を伴い、それを野戦医療コンバット・ファーストエイドの技術で止める方法は無い。拍動を再開した心臓の鼓動を正しい状態リズムに調整するためには機械A E Dを使って、拍動を再開した直後で混乱に陥り出鱈目に収縮する心臓の鼓動のリズムを外部から電気的に調節する必要がある、が――
 運転席とその後ろの座席の間からタイヤハウスの段差の上に登ると、正式な名称など知らないが料金を支払う箱状の機械の横に心臓と稲妻模様の描かれたボックスが置いてある――ボックスがフロアに固定されているのか、幸いなことにどこかにすっ飛んでいったりはしていなかった。
 問題は巧く動いてくれるかだが――まあ一昔前に輸入されていた外国製の安物ならともかく、国内メーカー製なら大丈夫だろう。そんなことを考えながら、雷はボックスを開けてAEDを取り出した。
 AEDケースを手に運転席に取って返し、シートベルトをはずして老運転手の体の拘束を解く――丸めて置いてあった彼のものらしいコートを手に、雷は老運転手の体を運転席から引っ張り出した。車体の中央あたりにある壁に背中を接した、進行方向に対して横向きに設置された四人掛けくらいの長椅子状の座席のところまで引きずって行き、背もたれを寝床代わりに横たわらせる――クッションの変形によって力が逃げるので胸骨圧迫を行う際には床は固いほうがいいのだが、なにしろ状況が状況だ。脳組織の死滅とは別に、冷え切った内装材の上に横たわらせることによる体温の低下を心配しなければならない――いったん胸骨圧迫を始めると骨折や内臓の損傷を伴うので、作業が終わっても迂闊に動かせなくなる。内装材の上にじかに寝かせるより、こちらのほうがまだましだろう。
「すみません、どなたかひとりこっちへ」 周りにいるほかの乗客に向かってそう声をかけ、雷は老運転手のそばにかがみ込んだ。
 心肺蘇生は時間との勝負だ――心臓が完全停止している場合、脳はものの数秒で意識を失い数分以内に脳細胞の死滅が始まる。
 心室細動の様に心臓の動きに異常が生じている場合、心臓周りの組織は心臓を拍動させるためのエネルギーであるアデノシン三リン酸を急速に消費する。
 アデノシン三リン酸はいわゆるATP、細胞核内に寄生するミトコンドリアが体内に蓄積した糖や脂肪を変換して産生する、細胞組織にとって直接の活力となるエネルギー物質だが、心室細動が起こると心筋細胞が滅茶苦茶に収縮するために心臓周りに蓄積したATPを急速に消費し始める。
 成人であれば蓄積したATPを心臓が使い果たすまでの時間は数分間――三分が経過すれば生存率は五十パーセントを下回る。もちろんその場合でも、脳に酸素が供給されないので数分以内に脳組織の死滅が始まる。
 つまり心停止であれ心臓の収縮異常であれ、タイムリミットはいいところ三分程度。
 急がなければならない――雷自身が意識を喪失している間に、すでにいくらかの時間を浪費しているのだ。時間の余裕はすでにほとんど無い。むしろまだ死戦期呼吸が続いているのが奇蹟に近い――それが止まれば彼は死ぬ。
 横たえた老齢の運転手の制服とカッターシャツのボタンを乱雑にはだけさせ、雷はその下のアンダーシャツを引き裂いた。そばにやってきた坂巻老人が腕の力だけでインナーシャツを引き裂いた雷に目を見開いているが、そんなものを気にしているいとまは無い――雷は老人にAEDを押しつけて、
「これをお願いします」
「使ったことが無いんだが」 老人の言葉に、雷は老運転手のそばで膝を突きながら、
「緑色のボタンを押してください。あとは指示に従うだけです」 そう告げて、老人の胸の中央に組んだ両手を当てる――救急救命ファーストエイド講習や野戦医療コンバット・ファーストエイドの訓練は受けているが、実際に胸骨圧迫を行うのははじめてだ。もちろん、そんな経験など無いほうがいいに決まっているが。
 まあそれはともかく――
 備え付けのAEDはケースに入ったままでも操作することが出来る――老人が緑色の電源ボタンを押してAEDを起動させると、合成音声が最初の一言を発した。
『110番に電話してください』
 出来たらしてるよ。胸中でだけ首をすくめながら、雷は老運転手の胸にあてがった手を押し込んだ――坂巻老人がおっかなびっくりといった様子で粘着パッドを取り出し、コネクターを本体に挿入しているのを横目に見ながら、一定のリズムで胸骨圧迫を繰り返す。
 心臓マッサージ、胸骨圧迫は心臓が完全停止、あるいは心室細動等動いていても有効に血液を循環出来ていない場合に行われる――AEDはいわゆる電気ショック、昔のアメリカ映画に出てくる様なカーリングの石くらいもある巨大な電極を押しつけて電撃を流すたぐいの代物ではなく、順番や間隔が出鱈目になった心臓の拍動パターンを外部からの電気刺激で調整するためのものだ。したがって、AEDには心臓の完全停止状態を単体で回復させる能力は無い――小さなバッテリーしか備えておらず十分な電圧も電流も確保出来ない電気式除細動機は、除細動だけが仕事だからだ。心肺蘇生をするには胸骨圧迫、一昔前は心臓マッサージと呼ばれていた作業が必要になる。
 坂巻老人がひととおりAEDの準備を終えたらしく、こちらに視線を向けてくる――雷はそれを確認して、雷は雷はロングコートのポケットに突っ込んだままになっていたセブンイレブンのポリ袋を取り出した。
 胸骨圧迫は心臓を無理矢理動かして血液を送り出す措置で、つまり肺に瀉血を、脳をはじめとする全身の組織に鮮血を流すためのものだ――が、当然ながらそれだけでは役に立たない。
 胸骨圧迫で血液を送り出すだけでは、すでにガス交換が停止している以上動脈に瀉血を送り出すだけだからだ――組織の死滅が始まっていなければ肺胞は機能しているので、新たな空気を肺に送り込んでやればガス交換が行われる。
 コンビニのポリ袋に指で穴を開け、穴が口の上にくる様にして老運転手の顔の下半分を覆う。老運転手の鼻をつまみ、雷は大きく息を吸い込んだ。
 感染症を防ぐためのフィルム代わりにしたポリ袋を通して老運転手の肺に息を吹き込み、坂巻老人に視線を向ける。ふたりで一枚ずつ粘着パッドを規定の位置に貼りつけると、AEDが合成音声を発した。
『心電図解析中です。体に触れないでください』 男性の性質に近い合成音声が、そんな指示を出してくる。ややあって、
『電気ショックが必要です。体から離れてください』 無機質な合成音声がスピーカーから流れてくるのを確認して、雷は坂巻老人に運転手の体に触れない様にと手で指示した。
『オレンジ色のショックボタンを押してください』
 坂巻老人が四個のLEDでハイライトされているハートマークのボタンを押すと、老運転手の痩せた体が一瞬びくりと痙攣した。
『胸骨圧迫を開始してください』 という指示に、再び胸骨圧迫を再開する――折れた骨のゆがむ厭な感触に顔を顰めながら、雷は教わった通りに数回胸骨圧迫を繰り返してから肺に息を吹き込んだ。
 胸骨圧迫と人工呼吸を何度か行ったところで、
『心電図解析中です。体に触れないでください』 再び合成音声が流れ、雷は手を止めた。
『電気ショックが必要です。体から離れてください』 というアナウンスが流れたところからすると、まだ自発的な心拍は回復していないらしい。
 AEDは患者の心電図を一定時間ごとに解析し、電気ショックが必要な状態であるかを自動で判断する――AEDの電気ショックは先述したとおり停止した心臓の拍動を再開させる性質のものではないので、心臓が完全に停止している状態では通電しても意味が無い。AEDを接続した状態で心電図解析をしたときに心臓が停止していれば、電気ショックは行われずに胸骨圧迫と人工呼吸を促されるだけだ――したがって、今現在の老運転手の症状は心室細動の様に心臓が正常に動いていない状態なのだろう。
 胸骨圧迫は自発的な心拍の再開を促す意味も兼ねて、基本的には中断の時間を極力短くする必要がある――雷が実際に見たわけではないが、胸骨圧迫をしている間だけ意識を取り戻して中断すると途端に昏倒した患者もいるらしい。胸骨圧迫は生命だけは助かる半面肋骨の骨折や胸郭内部での出血、気胸、内蔵の損傷を伴うので、目を醒ましたらそれはそれでつらそうだが。
 再び電気ショックが行われ、老運転手の体がびくりと痙攣する。『胸骨圧迫を再開してください』 というアナウンスに、雷は胸の上で構えていた手を老運転手の胸にあてがい再び胸骨圧迫を開始した。
 胸骨圧迫のコツは、強く速く絶え間無く――救急救命のガイドラインでは胸骨圧迫を単独で二分以上連続で行うことは疲労によって胸骨圧迫の質が低下することから推奨されていないが、今の状況では仕方無い。
 再び老人の口から呼気を吹き込んだところで、AEDが再び心電図解析を始める――三度目の電気ショックのあと、胸骨圧迫を再開してしばらくたったところで、老運転手が大きな喘鳴を発した。
「その青いボタンを」 雷が声をかけると、坂巻老人がAED本体のボタンを押した。このAEDには一定間隔の心電図解析による監視とは別に、任意のタイミングで心電図解析を行えるボタンがついている。
『心電図解析中です。体に触れないでください』 というアナウンスを聞き流しながら鼻の前に指を差し出し、同時に胸から腹部にかけてを観察する――どうやら自発呼吸を再開してくれたらしく、胸から腹にかけてが規則的に上下している。ややペースが速い――経過観察の必要があるだろう。
『電気ショックは必要ありません』 AEDの発したアナウンスに、雷は老運転手の首筋に指先を当てた。弱々しいながらも頸動脈の脈拍が回復しているのを確認して、安堵の息を吐く。
「どうだね」
「回復しました。一応は、ですが」
「さっきまでの作業は」
「胸骨圧迫のことですか? 不要です――少なくとも今は」 かたわらの坂巻老人の問いに、短くそう返事をしておく――胸骨圧迫とAEDと併用するのは、胸骨圧迫だけでは回復した心臓の拍動のリズムが正確に確保されないのをAEDによって電気的に整えるためだ。心拍が回復している状態で胸骨圧迫を行う意味は無い――むしろ余計な衝撃が加わって心臓震盪を起こし、心室細動を誘発して逆効果になるだけだ。
「後ろの人たちは」
「何人か意識が戻ってるよ――だが何人か怪我人がいる、特に左側の座席から落ちてきた人がね」
 それは予想出来たことだったので、雷は小さくうなずいた。後遺症の残る様な負傷をしていなければいいが。
「わかりました」 そう返事をして、雷は運転席の足元に丸めて置いてあった運転手のコートを彼の体にかけてやった。徐々にではあるが呼吸は落ち着きつつある。
 AEDの粘着パッドはそのままだ――AEDは患者の心拍を定期的に計測し、監視して、必要に応じて再度電気刺激による除細動を行う。そのため、一度つけたらつけたままにしておく必要がある。
「この人を見ててくださいませんか。AEDははずさずに――意識が戻るか、呼吸が乱れたり顔色が変わったら教えてください」
「ああ、わかった」 その首肯を確認してから、雷は坂巻老人がいったん道を開けてくれた腋を通り抜けて車体後部へと歩いていった。

 バスの乗員乗客を合わせて十六人――すでに意識を取り戻している者もちらほらといる。夫婦で乗っていたらしい年老いた男女は、妻が目を醒まさないらしく夫が必死に呼びかけていた。
「大丈夫ですか」 雷がそばにかがみ込むと、夫らしい老人がこちらに視線を向けた。彼は再び足元に横たえた老妻に視線を落とし、
「嫁さんが目を醒まさねえ」
 雷はうなずいて、老人と場所を代わった。彼ら夫婦は、左側の座席にいたはずだ。雷は手早く呼吸と脈拍を測り、瞳孔を確認してから服の上から体を検めながら、
「お爺さんは怪我は?」
「儂は打ち身だけだ」 その返答にうなずいて、雷は横向きになった老女の頭をひっくり返した。
「頭を打ってる様ですが――気絶してるだけです。病院へ行って検査を受ける必要はありますが、少なくとも今無理に起こす必要はありません」
「わかるのかい」
「ええ」 雷はうなずいて立ち上がり、
「怪我をした人がいらしたら、申告を――特に呼吸や心拍が止まってる人と頭に損傷を受けてる人、骨折してる人を」
 車体後方から甲高い子供の泣き声が聞こえてきて、雷はそちらに視線を向けた。あの母子連れの母親が血相を変えながら、
「ごめんなさい、ちょっと来て――娘がどこか怪我してるみたいで」
 その返事に、雷は老人に視線を向けて、
「呼吸が乱れたり顔色が変わったり、なにかおかしな反応があったら教えてください」 老人がうなずくのを確認してから、車体後部へと歩き出す。
「この爺さんが頭を怪我しとるんだが」 ふたつ後ろの席で左側の座席から落ちてきた老人の様子を見ていた別の老人が、横を通り過ぎていくそんな声をかけてくる――怪我をした老人は頭部に出血があったが、意識は保っているらしい。雷はそれだけ確認して、
「ここを押さえて。骨折を処置したらすぐに来ます――傷口をこすったりしない様にしてください」 そう指示をしてから、雷は立ち上がって車体後部へと歩いていった。
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