ALS(筋萎縮性側索硬化症)を煩い、自ら死を選んだ林優里さん(当時51歳)のことが
世間を賑わせている。
彼女は、自分が自分でなくなっていく毎日が、死ぬことより恐ろしかったのではないかと思う。恐らく悩み続け、絶望を繰り返す毎日だったのではないだろうか。
彼女のご冥福をお祈りしたい。
(自ら死の決断をされた林優里さん 写真は20代の頃)
個人的には、彼女の意志を尊重したい。だから、荷担した医師が殺人罪に問われるのは
少し心苦しい、出来れば無罪とは言わないが、減刑されることを望む。
彼女は自暴自棄になったようにも見えるが病気が悪化する中、最後の冷静な判断だったと思う。
とても、意志の強い人だったのだろう。
主治医にも安楽死求める 京都ALS患者嘱託殺人(7月29日 日経新聞)
彼女の場合は、安楽死というよりは尊厳死に近いのではないかと思っている。
尊厳死については、多くのお年寄りが延命処置を望んでいない実態を医療ジャーナリストでありドクターでもある森田洋之さんが、北海道の夕張での経験を表現者クライテリオンで語っておられる。
こちらのブログも尊厳死に関連しているのでどうぞ↓
人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?/コロナパニックについて考える(森田洋之)
今回のコロナ問題は、安楽死や尊厳死を考えるにはとてもよい機会になったと思う。
ただ、安楽死と尊厳死を議論するときに、林優里さんのことは一旦忘れて一般論で考えた時に
「本人の意志だから」
だけでで決定するのは、拙速すぎる気がする。
私は、死を論じる前に、なぜこの世に生を受けたのか。
我々は、どういう理由で生きているのか。
また、日本という国はどういう国なのか、どういう歴史を辿ってきたのか。
こういうことが、ある程度頭に入り、議論できる程度のレベルになってから
安楽死や尊厳死を考えるべきだと思う。
現在の価値観で議論するのは危険ではないかと思う。
現代日本の生命至上主義的な所は大問題だと思うが、しかし、個人の自由などで
簡単に安楽死を認めていたら、自殺の延長になってしまうかもしれない。
「楽になれるのなら、安楽死を望む」
のような考えが出てくるのではないかと思われる。
また、それでお金儲けするような人が出てくるかもしれない。
例えば、臓器移植の順番を待っている人が、ドナーに自殺を促したりするようなことが、
あるかもしれない。
ただ、今回の林さんの安楽死に携わった医師を悪人だと思わない。
なぜなら、林さんにしてみれば、世話になった人に「殺してくれ」とは言いにくく
また、父親になど言えるはずもない。
仮に友人に頼んだとしても、もし実行すれば友人に手をかけたことで、頼まれた人は
今後一生悩み続けることになる。(その行動が正しかったのかどうか・・・)
そうなると、他人で病気や薬剤に知識がある人に金銭的に頼む方が本人も楽ではないだろうか?
だから、現在の日本の法律内では、金銭的に請け負う人も必要になると私は思う。
やはり公の機関が必要だと思う。
公に議論するのではあれば、安楽死執行人のような人を政府が作る必要がある。
その前に倫理委員会のような委員会を設置して、各ケースごとに議論を行い、安楽死を実行するか否かを判断するような公な場所が必要だろう。
(昭和27年 黒沢映画 「生きる」)
いずれにしても、安楽死が先行するのではなく、なぜ生きているのか、なぜ生を受けたのか
ということを、答えは出なくても考えてもらうのが先だと思う。
私自身も答えは出ないのだけど、常に考えることは大事だと思っているし、
現在の生命至上主義的な考えは誤りだと思っている。
だからといって、命を粗末にしろといっているわけではない。
最後までお読みくださりありがとうございました。
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