教科書に載せて全日本人に知らせたい現代史 支那人の卑史 朝鮮人の痴史
黒木 頼景
成甲書房


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なぜ日本だけが独立国だったのか

  毎年、八月中旬になると、本国民は神妙な顔附きで懺悔式に参加する。夏祭りじゃあるまいし、国会議員から村役場の事務員まで、色々な行事で大忙しだ。大東亜戦争によるアジア侵掠と国民が蒙った悲惨さを忘れないため、というが、反省するならどうして負けたのか、あるいは、どうやったら勝てたのかを研究すべきだろう。だいたい、「善人気取り」のマスコミや学者は、我が国の“軍国主義”を批判するが、肝心の軍国主義者がいなくて、代わりに共産主義者がウヨウヨいたことを意図的に無視する。赤く染まった軍官僚が日本を敗戦に導いたんだから、そっちの方を批判すべきなんじゃないか。現在では明らかとなったけど、帝國陸海軍や官僚組織に潜む共産分子は、「北進」すると大切なソ連が壊滅するから、日本を英米にぶつけるべく、「南進せよ !」と叫んで躍起になっていた。

Sejima 1(左  /  瀬島龍三)
  近衛文麿はもちろんのこと、陸軍参謀の瀬島龍三なども、日本の惨敗を期待していた内の一人だろう。今でも覚えているが、晩年の瀬島はフジテレビが企画した『日本の夜明け』という番組に出演し、自己弁護に務めていた。対談相手の笑福亭鶴瓶は歴史に無知だから、瀬島の正体を見抜けず、ただ感心してうなづくだけだった。学校秀才の参謀らしく、瀬島は饒舌なトークで観客をたらし込むのが実にうまい。しかし、彼は波瀾万丈の人生を語っていても、なぜか「シベリア抑留」時代に触れようとはしなかった。つまり、この赤いナポレオンは「愛国者」の仮面を附けて日本人を裏切り、ロシア人の命令に従っていたから、拉致時代を詳しく述べる事が出来なかったのである。一部の帰還兵が憤慨していたけど、瀬島が語る嘘で塗り固めた「悲劇の軍人像」には腹が立つ。陸軍中佐の瀬島は、参謀本部作戦課部員で軍令部作戦課部員を兼務していたから、失敗を重ねた作戦指導に関しては、普通の士官や兵卒よりも責任が重いはずだ。ところが、『幾山河』を出版してベストセラーにした瀬島は、多くの軍人や民間人が貴い命を失ったことに“胸が痛む”と述べ、自己防衛に成功すると、ちゃっかり「太平洋戦争戦没者慰霊協会」の会長に納まった。まったく、卑劣な野郎は最後まで図々しい。日本を敗戦に導いた共産主義者をここで語り出すと長くなるので省略する。

Aida Yuji 1(左  /  会田雄次)
  毎年、停戦記念日を迎える頃になると、各雑誌は大東亜戦争を取り上げ特集を組む。ところが、戦場に赴き銃撃戦をくぐり抜けた言論人というのは意外と少なく、京都大学の会田雄次先生は論壇において貴重な存在だった。その他の知識人と言ったら、陸軍少尉だった山本七平くらい。ビルマ戦線で散々な目に遭った会田先生は、日本への愛国心と忠誠心を持ち続けていたが、無謀な作戦に駆り出され、囚人生活を味わったせいか、心の片隅にどことなく醒めた人生観を持っていた。その会田先生が帝国主義時代と日本の明治維新を語り出すと、独特な切り口を披露するから非常に面白い。会田先生によると、西歐列強がアジア諸国に迫り来るという危機を迎えて、国論が沸騰し、近代化の達成と国家の独立を維持したのは、唯一日本だけであった。(会田雄次「なぜ日本は世界平和に貢献できないのか」、『日本人の外交感覚』 世界文化社、1992年 p.168) 日本人が長いこと仰いできた支那は、英国の攻撃を喰らうと“あっけなく”大敗し、あろうことか第二首都にまで攻め込まれての降伏だ。アヘン戦争を目の当たりにした日本人は、陋化した幕府ではどうにもならないと悟り、自ら社会改革に着手したから本当に偉い。日本人と異なるアジアの諸民族は、アヘン戦争の経緯が伝えられても、ちょっとした叛乱くらいで、みな無感覚、いわば「眠ったまま」の状態だった。

  西歐列強による戦慄の侵掠に関して、会田先生は「アジアの中で日本ただ一国」が危機感を募らせ、蹶起して近代化を成し遂げた、と述べていた。だが、一つだけ間違いがある。日本はアジアの国ではない。我が国はアジア圏に属しておらず、アジアとは違う文明を築いていた。日本と朝鮮の地理を考えれば一目瞭然だ。大陸に接する朝鮮人は絶えず支那人や北方民族の圧力を受け、侵掠を受ける度に屈辱を味わい、抵抗すれど百戦連敗。だから、いつも従属国のままだった。そのうえ、日本の貧乏人より貧乏。でも、朝鮮人は賢い。モンゴル人や支那人の侵攻を防ぐために、魅力が一切無い汚穢の地域になるという政策を取った。さぁ~すが、朝鮮人は興亡の一手を指してくる。確かに、誰も肥溜めを占領し、その上澄み液を飲もうとはしないだろう。日本人だって、悪臭漂う浮浪者に抱きつこうとは思わないじゃないか。ちなみに、属国になった朝鮮は選りすぐりの「美女」を支那様に献上したというが、その貢ぎ物だって“どれくらい”上玉だったのか怪しいものだ。もし、本当に美女を差し出したとすれば、国内に残ったのは献上できないカスや醜女(しこめ)ということになる。 また、モンゴル人による強姦で生まれた混血児は、周囲からどう扱われたのか、ちょっと興味がある。現在の朝鮮人は「モンゴル顔」が嫌いなようで、顔面工事を用いて繕っている。(朝鮮人が顎を削ったときの骨って気持ち悪い。)

Brumese under the British rulekoreans 40









(左: 英国統治下のビルマ人  /  右: 昔の朝鮮人)

  会田先生の話を聞けば、日本の明治維新は本当に凄かった、と思えてくる。他方、西歐の衝撃に対するビルマの反応は呆れるほど酷かった。会田先生によると、イギリス人は易々とビルマを征服することが出来たという。異民族支配に長けたイギリス人は、「分断して統治する」という伝統的手法を用い、ビルマの少数民族、すなわちモン、カレン、シャン族などを懐柔し、彼らを唆して叛乱を起こさせた。つまり、異なる民族を巧みに反撥させることで、イギリス軍は乏しい兵力でもビルマ人を征服することが出来たのだ。しかし、ここで疑問が湧いてくる。最後の王家であるアラウンパヤ王朝、とりわけ英傑と呼ばれたミンドン王は、いったい何をやっていたのか? とても信じられない話だけど、この王様がやったことは、ビルマやその周辺の学僧たちを集めて、南方仏教の経、律、論の三蔵の経典を校訂し、それを大きな大理石の石版729枚に刻んで、それを一枚づつ嵌め込んだパゴダ(仏塔)を建てただけ。これは数年がかりの大事業で、その建物を披露する1871年には、全アジアから人々を招待し、第五回世界仏教徒大会を開いたそうだ。会田先生は次のように評していた。

  飢えた虎狼が爪をとぎ、牙をみがいている最中にあっって、軍備を整え、国論を対英抗戦で統一するといった手段はまったくもってとっていない。ひたすら祭壇を築き、仏陀の加護を、といってもただ平和を祈ることに巨費を投じていただけである。(上掲書 p.174)

  会田先生も呆れていたが、これでは敵に自国を犠牲として捧げるべく準備をしているようなものだ。案の定、次のチボウ王の時代、ビルマは抵抗らしい抵抗もせず、英国にあっけなく征服併合されてしまった。「憲法九条」という念仏を唱えている日本人は、ビルマ人の愚かさをよく肝に銘じてみるべきだ。武力による進撃には、それを上回る武力で闘わねば勝ち目は無い。「核ミサイルの第一攻撃を受けてから反撃を考えます」と口にする日本の政治家はビルマ人を笑えないぞ。

同族の日本人で構成されていた日本

  日本人だけがなぜ覚醒し、挙国一致で独立を保てたのか、会田先生はその理由を述べなかった。これは筆者の推測になるが、日本の明治維新は、我々が戦闘民族で、しかも同じ種族で長いこと暮らしてきたからじゃないのか。日本人は同じ土地で二千年以上も共同生活を送り、皆が皇室を敬い、その神聖さを疑わなかった。しかも、時折、各地の武士が戦を起こすことで軍人魂が鍛えられ、切磋琢磨しながら武力を高めていくという歴史を辿っていた。日本人の民族の精神が活き活きしていたのは、武士の伝統を温存していたからだろう。注目すべきは、日本の戦争が殲滅戦ではなく、大将の首を取ったら終わり、という淡白な闘争だったことである。「戦国時代」といえども温和な戦さが多く、領民の絶滅を招く収奪すら無かった。例えば、甲斐の武田軍が勝ったら越後の百姓は皆殺しとか、越後の上杉軍が信州に攻め込んだら現地の民衆は悉く血祭りに上げられ、女子供でも串刺しの刑、というのはなかったはずだ。第一、「義」を尊び「信」に厚い謙信が、占領地で掠奪放火強姦の限りを尽くすなんて想像できない。

  でも、支那人の軍閥・匪賊ならやりたい放題。日本人では考えられぬ残虐性を発揮する。勝者になった支那人は敗軍の将兵を容赦無く追討するし、民衆に対する掠奪と強姦が兵卒へのボーナス。血みどろの戦争は閻魔様でも驚く生き地獄と化し、国土と人心はボロボロになる。しかも、不運な者はバーベキューの食材だ。支那人の「目玉焼き」は眼球を炙ったりするから、かなりグロテスク。一方、日本の戦国時代は謂わば煌びやかな絵巻物で、魅力溢れる武将が死闘を繰り広げる英雄譚に近い。ところが、支那人の戦争は宇宙人や蛸でも真っ青になるくらいのホラー映画。支那人に滅びの美学なんで一切無い。あるのは勝者が敗者の顔を踏みつけて雄叫びを上げるだけ。支那の武将はせいぜい、匪賊の頭目か暴力団の首領といったところだ。支那の民衆は統治者から大切にされたことは一度も無いから、信じるのは自分自身と血族くらいで、他人は潜在的な敵か、どうなってもいい虫けらである。だから、支那人はイギリス人やフランス人が攻めてきても、自分の家族さえ助かればいいと思っているし、誰が支配者になろうが、支那が最低の国であることに変わりがない。むしろ、法治主義を実践するイギリス人に征服されて嬉しかった。香港割譲を悲劇と教えているのは日本のアホ教師くらいで、現地の支那人は大英帝国に併合されて幸運だったというのが本音だ。

  強い国家は血で結ばれた者同士が同じ文化や信仰を共有し、君民一体となって団結できるという点に特徴がある。第19世紀にドイツと日本が勃興したのは、こうした國體(こくたい)を有していたからだろう。ドイツはキリスト教で日本は神道という違いはあるが、どちらも戦士気質を尊び、昔から変わらぬ血の絆で結ばれていた。だから、外国からの脅威を感じると、国家の末端まで戦慄が走り、官僚組織から教会、組合、私的クラブまで様々な国家的筋肉が反応する。同質民族で成り立っている国家には、「郷土愛」と「同胞」に共鳴する神経が張り巡らされており、各細胞が密接に繋がっている。日本人が朝野を挙げて国難に立ち向かうことができたのも、朝廷と幕府が祖先と神々の血で結ばれ、庶民も同じ絆を有し、日本全体が運命共同体となっていたからだろう。

  しかし、国内に異民族が蔓延(はびこ)っていると国内に亀裂が生じる。ドイツの場合はユダヤ人で、日本の場合は朝鮮人だ。長いことドイツ人から賤民扱いで、ゲットーからの解放後も異人種と見なされていたユダヤ人は、ナチス政権で大迫害を受け、ゲルマン人に深い恨みを抱いている。ドイツ人意識を持ちながらも「除け者」にされたユダヤ人は、ドイツ人が“種族的”に団結することを極端に嫌う。二度と再び、ゲルマン民族が統一されぬよう、教科書から映画に至るまで、様々な心理・謀略戦を使って分断を図っている。ちょっとしたTVドラマでも非ドイツ化の影が見え隠れする。例えば、ドラマのキャスティングで全員がチュートン系のドイツ人というのは不可能だ。必ずトルコ系とかアラブ系の血が混じった俳優、ないし北アフリカ系やアルバニア、ボスニア、ユーゴ系じゃないかと思える黒髪の俳優が採用され、多民族国家ドイツというイメージが埋め込まれている。最近では、アフリカ人やシリア人の若者まで、ドイツ生まれだから「俺はドイツ人」と言い放っているくらいで、日本人からずば、とても信じられない。

  かつてはゲルマン人の血で結ばれていたドイツの國體は、ユダヤ人や左翼分子の攻撃で崩壊寸前だ。よく冷酷な獄吏が囚人をいたぶる時、抵抗できぬようアキレス腱を切ったり、五寸釘で手のひらを打ちつけて壁に固定し、ナイフを用いて肉を剝いだり、目玉を剔(えぐ)ったりする。同様に、ユダヤ人はナチスの罪を掲げて、まずドイツ人の精神を叩き潰し、リベラリズムで洗脳してから、その手足の筋を切断し、じっくりと宿敵の肉体を切り刻んで行く。ユダヤ人の仕置きに絶えられなくなったドイツ人は、大粒の涙を流して慈悲を乞うか、自ら進んで「私は悪魔でした。残りの人生を全て贖罪に捧げます」と宣言する。だから、ドイツには左翼思考の国民が多い。昔、肉慾に悩んだ修道士が、鞭を持って自分の背中を叩いたけど、現在のドイツ人は“非ナチス”をアピールするため、異常な自虐を国是に掲げている。トルコ系帰化人やアフリカ系住民なんて本当のドイツ人じゃないのに、ドイツ国籍を持つから「ドイツ人」と見なして、差別主義者の汚名を避けている。もし、正直に「トルコ人や黒人なんか嫌い !」と口にしたら、「ネオ・ナチ」と疑われ、社会的地位まで失ってしまうから、ドイツに言論の自由は無い。

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(左: ゲルマン系ドイツ人の男女  / 右: ヨーロッパに住みつくユダヤ人 )

  日本もドイツと同じ病を抱えている。マスコミ業界や教育界に潜む左翼分子は、日本の同質的社会を「閉鎖的」と非難し、「国際化」の印籠を掲げて外国人の受け容れを後押しする。この潮流に逆らう者は、「右翼」のレッテルを貼られて表舞台に出ることはできない。現在の国会議員で、明確にアジア人の流入や混血児の増大を懸念する者が何人いるのか? LGBTに関するちょっとした失言でも、マスコミの集中砲火を浴びた杉田水脈議員を見れば、どの保守派議員だって懼れをなし、アジア移民に対する反対を堂々と述べることはできない。しかし、勇気ある反対は絶対に必要だ。もし、臆病な日本人ばかりとなれば、アジアから“ここぞ”とばかりに大量の異民族が流入し、日本国民が持っていた民族的一体感はズタズタに切り裂かれ、ご近所への“心配り”は徐々に無くなり、“困ったときはお互い様”という美風も消滅するだろう。あたかも、隣人が誰だか判らぬ雑居ビルに住んでいるようなものだ。只でさえ、日教組教育で日本人の国家意識は薄れているのに、そこに多民族教育が加われば、日本という国家的枠組みまで無くなり、日本人は地球をうろつく放浪集団になってしまうだろう。こうなれば、政治家は特殊利益団体の代弁者に過ぎず、軍事・外政は票にならないから無視となる。おそらく、天皇陛下だけが日本国全体の将来を憂慮される指導者となるが、憲法上、政治権力を持たない元首であるから、結局「お祈り」しかない。

  一般国民が「アジア移民の流入」と聞けば、賃金の低下くらいしか思い浮かべないが、本当に怖いのは、移民の子孫が日本社会で台頭することだ。なるほど、移民一世は教養が無く、筋肉労働に従事する者が多い。しかし、その子供たちは日本の学校で教育されるから、日系人の子供と同じレベルになる。ただし、移民や帰化人の子供がみんな直ぐさま秀才になる訳じゃないが、大勢の子供が勉強し始めれば、その中から優秀な子供だって現れてくる。その優等生が大学にまで進み、専門家となって官庁や民間企業の各界に入り込めば、何をしでかすか分からない。外人系の官僚や議員は、子供の頃に味わった差別体験や屈辱感を一生抱くから、日本人のために尽力することはないだろう。むしろ、無意識の復讐心を燃やし、日本の国益を軽視する。例えば、入国基準を低くしたり、国籍を誰でも取れるような法案を通すかも知れない。また、我々は当然の如く警官や判事を「日本人」と思っているが、多民族化する近未来では、支那系の警察官とか、日鮮混血児の裁判官、華僑系の財務官僚、北鮮系の国会議員などが普通になる。こうしたグローバリズムが日常化すれば、彼らの親戚や同郷人も連鎖して流れ込むから、やがて日本はアジアの一部となるだろう。

  実際、テレビや新聞がしょっちゅう「アジアの中の日本」と宣伝するから、一般国民の中には自らをアジア人と思っている人が多い。しかし、「アジア」とはヨーロッパ人が勝手に使っている呼称で、基本的には「トルコから東の異民族が住む地域」という意味である。例えば、「西アジア」とは主にトルコ辺りを指す名称で、場合によってはアゼルバイジャンやグルジアを含むこともある。また、我々がよく耳にする「中東アジア」は、シリアとかレバノン、イスラエル、サウジ・アラビからペルシア(イラン)に跨がる地域と考えてよい。そして、「東南アジア」とは、タイやマレーシア、ベトナム、フィリピンなどの地域で、「極東アジア」と言えば、主に朝鮮と日本を指す。でも、普通の日本人が日本人同士で「僕達は極東アジア人だよね !」とは言わないし、トルコ人やアラブ人、ユダヤ人、ペルシア人と同じ文明圏に属しているとは思わない。彼らに親近感を抱く日本人は稀だろう。だいたい、上野のアメ横でシシカバブ(焼き肉)を売っているトルコ人や、新大久保で雑貨店を構える南鮮人を「私たちと同じ種族」と見なす日本人がいるのか? 髭面のパキスタン人やスカーフを被ったマレー人を見たオバちゃん達は、「最近、外人が多くなったわよねぇ~」と愚痴をこぼすくらいで、たとえ日本国籍を持つアジア人が現れても、彼らを“同国人”と思わない。10代や20代の若い女性だと、アラブ人のゴワゴワした胸毛を見ただけで、拒絶反応を起こし、蕁麻疹(じんましん)が出るほどゾっとするだろう。

  そもそも、ヨーロッパ人が日本人をどう呼ぼうが、我々が気にすることではない。日本人は誰が何と言おうとも「日本人」で、朝鮮人でもなければ、支那人でもない。イギリス人やフランス人が、日本人を「黄色人種」とか「モンゴロイド」と呼ぶのは、彼らの自由である。我々は外国人の慣習に干渉すべきではないし、「やめろ !」と厳命することもできない。各民族には国内で自由な言論を楽しむ権利がある。ここでちょっと興味深いのは、モンゴル人との混血児が公立学校に通い、同級生から「モンゴロイド」という綽名をつけられたら、担任の先生はどうやって日系人の子供を叱るのか? もし、朝青龍みたいな顔をした小太りの女の子が、「朝青龍」とか単純に「モンゴル」とからかわれたら、教師たちは「そんなこと言っちゃいけません !」とは言えないだろう。なぜなら、日系人の子供たちが「どうして?」と理由を訊いてくるからだ。日比混血児の場合も同じで、子供同士の喧嘩の際、日系人の生徒が「何だ、このフィリピン野郎!」と罵倒した時、日比混血児の生徒は反論できない。日系人の生徒が級友から「フィリピン人みたい」と言われれば、「何だよ ! 馬鹿にするな !」と言い返せるけど、母親がフィリピン人だと沈黙するしかない。実際、フィリピン的容姿を馬鹿にされて号泣する混血児がいるのだ。教育評論家は「民族差別はあってはならない !」と綺麗事を口にするが、現場の学校では建前など無力で、子供達の間には生理的嫌悪感が渦巻いている。

  日本人のアジア化はかなり深刻だ。最近の幼稚園や小学校では、アジア系混血児の子供が珍しくなく、名前は日本的でも顔附きがタイ人風とかベトナム風といった“アジア的”な子供が多い。しかし、こうした子供たちは確実に投票権を持つ「日本国民」となって行く。そして、「アジア化」の傾向は日本の将来に暗い影を投げかけている。もし、日本が様々な民族と雑居する長屋国家になれば、国家的危機に直面しても、「日本国民」が団結することはないだろう。異民族の血が混じった「国民」は共鳴せず、似た者同士で寄り集まり、各民族ごとに行動するからだ。たとえ支那海軍が尖閣諸島を占領しても、幕末に見られた国民的沸騰は起こらず、無気力なアジア系「住民」が領土侵犯をボケ~と眺めているだけだろう。国土防衛に燃えるアジア系国民なんて有り得ない。むしろ、侵掠を手助けする支那系国民が蹶起するだけだ。アジア移民が増加しても日本列島の地形は変化せず、統治機構としての政府も残るだろう。だが、愛国心に満ちた日本人は「少数派」となるに違いない。やがて、日本社会には「民族的断絶」が顕著となり、日本史上初となる「日系人の終焉」が訪れる。嫌な予感だけど、日本史の授業が「マイノリティーの過去」を学ぶ科目になる日は近いかも。




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