こういう仕事をしていると、「先生の治療所を取材させてください」から始まって、「『神の手』を持つ○○の名医」、「ゴッドハンドを持つ○○人」とかいうタイトルの本に掲載、あるいは出版してみませんか?」という電話やメールをよく頂戴します。(ちなみに、雑誌掲載は1ページで240万→今だけ80万!、書籍は4000部で今なら割引価格350万!だとか…もちろん頂けるのではなくこちらが払うのですが…(^^ゞ)
まぁそれはさておき、私たちのような医療職(鍼灸や整骨)で、「神の手」という言葉はよく使われます。
はたしてそうなのか…今回はそんなことを考えてみました。
「神の手」?
神業の技術を持った医療従事者の名前の前に、「神の手(ゴッドハンド)」という冠(かんむり)が付けられることがあります。世の中に「神の手」を持つ人がやたらと増えてきているような気がします。
「神の手」という言葉に違和感を感じるのは私だけでしょうか?
鍼灸を生業(なりわい)にしている者にとって、いくら神業の技術を持っていたとしてもそれは「神の手」ではありません。
私はむしろ、「神に祈る手」の方が近いように思います。
鍼灸の4つの診察法(望診・聞診・問診・切診)の中に、切診という直接患者の身体に触れて診察する方法があります。脈やお腹に触れ、緊張度や圧痛の有無などを診るのですが、この時に私の中に2つの思いがあることに気付きます。
ひとつは、「神経を集中して、ほんの少しの変化も見逃さないようにしなければ」という気持ち。
そしてもうひとつは、「神様、どうかこの人を助けてあげて下さい」という私の祈りのような気持ちです。
私はもちろん、「絶対に治す。治せるはず」という思いで治療をします。全身全霊を傾けてやるのだけれど、いくら私が全身全霊を傾けたところで、100%治るかといえば、そんなに簡単ではありません。
診断も正しい、治療も正しい…どこからみてもパーフェクト。でも患者は治らない。治せないだけならまだしも、ひどい時には、治せずに死んでしまいました。ということが起こるわけです。
私が治療を受け持った以上、その患者さんが「すっかり良くなりました」というところをゴールとするなら、なにがなんでも、そして1日でもはやくそこに連れて行ってあげたい。そうであれば、自分の技術を超えて、神様に頼むしかないわけです。
私はもちろんやるべきことをやる。そのために日々の勉強も怠らない。
しかしながら、その人が助かるか助からないかは治療室の中だけで決まるわけではありません。少しでも「悪い出来事」が起きないように神頼みをして、なにがなんでも治してあげてください。という思いで鍼をしているのです。そのような思いで鍼をする時には何かが受け手に伝わり、ひいては鍼の効き目にも影響するのではないかと私は本気で思っています。鍼は、その作用に心身が「賛成」するかどうかで効力が違ってくることが少なくないと私は信じています。
人の寿命は誰にもわかりません。
不治の病に罹って、余命あと数ヶ月と言われた人が、10年後もピンシャンしていたり、逆に、あれだけ元気で医者知らずだった人が、ある日突然急死したり…。つくづく命というものは、不確定なものだと思います。
神頼み、というと無責任に思われるかも知れませんが、神様に願いをきいてもらえるために私が信じ込んでいることが2つあります。
ひとつは「あきらめないこと」、そしてもうひとつは「裏切らないこと」。
この2つを呪文のように自分の中に染み込ませ、怠らずに頑張り続けているからこそ、神様が助けてくれているのかも知れません。
そして、どこへ行っても治らなかった病気が治せた時ほど、「お前は、神様なんかじゃないんだよ。人の命、生き死にをコントロールするのは、決して人間なんかじゃないんだよ」という声が聞こえてくるような気がするのです。
三室戸寺の蓮
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