真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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朝鮮人徴用工の証言 タコ部屋での労働と生活

2020年01月07日 | 国際・政治

 私は、最近の日韓関係の悪化は、日本側に責任があるのではないかと思います。日本政府は、韓国最高裁判決の”国際法違反”をくり返し、韓国側に責任があるように言っていますが、徴用工問題に関する日本政府の見解にはおかしなところがあると思からです。日本側の見解は、概ね下記のようなものではないかと思います。

 二次世界大戦中、韓国人労働者は、国民総動員下で日本に渡航・就労し“徴用工”といわた。戦後、その徴用工が受け取っていなかった賃金などの支払いを求め訴訟を起こしたが、日韓の裁判所はどちらも、「問題は国交正常化の際の日韓請求権並びに経済協力協定で終わっている」とし、個人の補償要求は認めなかった。ところが今回、韓国の最高裁が「個人の日本企業への補償請求権はある」として補償裁判のやり直しを命じた。それは、国際法的には解決している問題を、国内裁判で覆したもので、国際法違反である。

 しかしながら、個人の補償請求権について、日本政府はかつて、”両国間の請求権の問題は最終的かつ完全に解決した”けれど、”いわゆる個人の財産・請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない”と主張していました。
 そうした見解に至るきっかけは、サンフランシスコ平和条約に”連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し…”という条項があるため、広島の原爆被爆者が日本国に対して補償請求の訴訟を起こしたり、シベリア抑留被害者が日本政府に補償を要求したからです。その時、日本政府が放棄したのは、”外交保護権”であって、個人の請求権は放棄していないから、日本政府は補償することはないということだったのです。”外交保護権”に関する日本政府の主張は、その時その時の事情によって変わっているといえるのではないかと思います。

 また、そうした法律的な問題以前に、日本政府の徴用工問題や日本軍”慰安婦”問題に関する姿勢そのものに、私は誠意が感じられません。きちんとした調査や関係者の聞き取りをしたわけでもないのに、安倍首相はかつて、日本軍”慰安婦”の問題に関し、”狭義の強制性を証明する証言やそれを裏付けるものはなかった”というような発言をし、日本側の強制性を否定しています。朝鮮人徴用工の問題に関しても同様に、徴用はあったが、”強制連行や強制労働の記録はない”というようなことを言って、政治家同士では謝罪めいたことを言っても、直接被害者に謝罪しようとはしません。歴史家や研究者が資料を基に明らかにした事実、また、被害者の証言などによって明らかになった事実を無視していると思います。安倍首相は、被害者の手記や証言集、今回抜粋した”聞き書き” などもほとんど読んではいないのだろうと思います。そうした被害者の証言をあたかも虚偽であるかのように扱い、被害者に直接向き合うことをしない話し合いでは、両国政治家同士の相互の利益を考慮して政治決着がはかれても、根本的な解決にはならず、したがって、日韓の真の友好関係は築けないだろうと思います。

 現在は強制労働は法律で禁止されています。日本の労働基準法5条には
使用者は、暴行、脅迫、監禁その他精神又は身体の自由を不当に拘束する手段によって、労働者の意思に反して労働を強制してはならない。
とあります。
 また、労働基準法第17条には、
使用者は、前借金その他労働することを条件とする前貸の債権と賃金を相殺してはならない。
とあります。
 こうした法律は、戦後、国際労働機関(ILO)が提案し、1930年に採択された『強制労働ニ関スル条約(第29号)』(1932年に日本も批准しています)に基づくものであると思います。
 この条約の第一条は、
”1 本条約ヲ批准スル国際労働機関ノ各締盟国ハ能フ限リ最短キ期間内ニ一切ノ形式ニ於ケル強制労働ノ使用ヲ廃止スルコトヲ約ス
 とあり、また、第二条には、
”1 本条約ニ於テ「強制労働」ト称スルハ或者ガ処罰ノ脅威ノ下ニ強要セラレ且右ノ者ガ自ラ任意ニ申出デタルニ非ザル一切ノ労務ヲ謂フ
とあります。

 朝鮮人徴用工の問題が、こうした国際労働機関(ILO)が提案した『強制労働ニ関スル条約(第29号)』の精神に全く反するものであったことは、下記のような証言で明らかだと思います。単なる賃金”未払い”の問題ではなく、奴隷労働ともいえる”強制労働”の問題です。
 だから、きちんと被害者に向きあい、謝罪と補償をすることなく、日本の韓国に対する経済協力によって、”完全かつ最終的な解決” などできるわけはないと思います。

 誠意をもって対応し、関係改善をすべきだと思います。

 下記は、「朝鮮人強制連行論文集成」朴慶植・山田昭次監修:梁泰昊編(明石書店)から、「いまも忘れぬタコ部屋での労働と生活」(聞き取り:平林久枝)と題された文章の、「飯場の一日」を中心に抜粋しました。
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                         三 聞き書き(地域別)
(北海道)
           いまも忘れぬタコ部屋での労働と生活
  はじめに
 ・・・
李さんは現在54歳になり、タコ部屋生活のときからすでに38年の歳月が経っているのであるが、現在でもまだ当時の恐ろしかった生活が夢に現れて、苦痛にゆがんだ同胞の顔や人間の声とも思えぬような暗いうめき声におびやかされるという。わたしはタコ部屋についてはほとんど何もしらなかった。李さんはわたしの幼稚な質問にもていねいに答えてくれた。以下は李さんの語ったところをまとめたものである。

  故郷のこと
 私の故郷は全羅南道 和順郡 清豊面 車里である。車里は道庁所在地の光州を南下して宝域市と結ぶ鉄道のだいたい中間地点で山の中の村だった。村の戸数は400戸ぐらいで村民は水田と畑をやっていたが、どこの家も貧しくて、米をたべている家は少なかった。
 ・・・
しかし家に帰っても仕事がなかったから、またすぐ京城に出てきた。京城の街角にはあちらこちらに「産業戦士募集」という大きな看板がたっていて人目をひいていた。そこでわたしもその看板につられて、指示されている職業紹介所へ行ってみた。わたしのような若者が二日間で93人集まった。ほとんどがニ十歳前後だった。
 ・・・

 帯広の飯場
 帯広は飛行場の街だった。航空隊の宿舎があり、飛行機を守っていた。ほかに陸軍もいた。「熊」部隊といっていたような気がする。わたしたちのつれていかれた飯場はその近くにあった。1棟百人くらいが入る飯場のバラックが5棟あった。わたしたちがついたとき、すでに働かされていたものがある。飯場は大倉組のものだった。
 ついた日、反抗的なものや、ちょっとなまいきなやつだとにらまれたものは組のものに徹底的になぐられた。「やきをいれる」といわれた。それは二度と反抗する気を起させないようにするための見せしめ的なものだった。はじめてこんな情景をみたものは、一様におそろしいところにつれこまれてしまったことを知って畏縮した。そのあとで、ここからは絶対に逃げ出せない。いまは戦争中だから、この戦争に勝つためには、どんな苦労にも耐えて目標の作業を必ずやりとげなければならぬというお説教をされた。それから、自分の名前はなくなってしまった。その日から名前のかわりにわたしは「13番」と呼ばれた。くにから持ってきた本や金銭はとりあげられてしまった。
 わたしはここにきてはじめておそろしい「タコ部屋」の存在を知った。(古川善盛氏によるとタコ部屋とは、北海道および樺太─現在のサハリンに特徴的な、監獄部屋とも呼ばれた土工部屋のことである。北海道鉄道敷設法施行(1869)や拓殖計画の実施<1901>により、北海道の土木工事とそれに伴う土工夫の需要は、1900年代から急速に拡大されていったが、遠い「エゾの奥地」の土工夫確保は容易ではなく、あいだに周旋屋が介在、活動し、その結果前借金でしばりつける飯場、タコ部屋制度がうまれた。

  タコ部屋の組織
 わたしのいた大倉組の「タコ部屋」の組織はこんなものだった。(図略、但し分団長とタコの部分には横にも数列:組長─分団長─週番─棒頭─飯台主─タコ)
 この組織はあとでつれて行かれた三菱の美唄炭鉱でもだいたいおなじようだった。分団長が大倉組の下請けでタコ部屋をつくるのである。…
 週番は棒頭の中から成績のよいものがえらばれてなる。…
 棒頭は十人いた。現場で指揮をとったり監視したりするタコの見張り役である。タコは棒頭のことを幹部さんと呼んでいた。朝鮮人が一人いて通訳をかねていた。

  飯場の一日
 帯広の大倉組の飯場の現場は飛行機の滑走路をふやし飛行場を拡張することだった。わたしたちは、その工事を早く仕上げるための応援隊だった。私たちの仕事は滑走路を雪が降る前にニ面つくることだった。
 飯場の一日は、すべてが命令、号令の指揮ですすめられた。命令、号令は週番がかける。
 「起床」朝四時すぎると大声の号令で起こされる。夏でもまだうす明るいだけである。すぐ起きて、ふとんをたたみ、歯をみがき顔を洗う。まごまごしていると怒鳴られる。起きてから十分ぐらいでやってしまう。
 「めし」の号令で土間に並んだ細長い木のテーブルの前に並ぶ。「めし」は木の弁当箱に、米、ジャガイモ、キントキ豆(大豆の一種)の混じった御飯が一合五勺弱と生みそが少々、それにみそ汁。といっても、汁の実(ミ)はなくてお椀になまみそをといたお湯が一杯。昼飯も同様の弁当箱と他に水が一合つくだけで汁はなし。夕飯は朝飯と同じ。一年中この「めし」に変わりはない。「めし」の量が少なくて質の悪いことはいうまでもないが、それ以上にみんなが苦しめられたのは、水が自由に飲めないことだった。水は朝、昼、夜茶碗に一杯(約一合)きりくれなかった。飯場には井戸がなくて遠くの川から汲みあげてくる貴重品だったのだ。朝飯がすむと土間に向かって、タタミのふちに腰をかけて、夜があけるのを待った。
 「出発」の号令で全員宿舎の外に出る。現場で使う道具などを持って整列する。点呼をとってから現場に向かう。
 飯場から現場まで約2キロメートルある。その間往復には軍歌をうたわされた。「勝ってくるぞと勇ましく」が多かった。歌わなかったり、声が小さく元気がないと「元気を出せ」となぐられた。朝の往き道はまあ歌えたが、帰りにはくたびれて声も渇れてしまったので、なぐられる者が多かった。
 滑走路をつくる仕事といっても、当時は現在のような大型の土木機械は何もなく、ほとんどが人夫の腕の力一つに頼られていた。道具といってはスコップと掘った泥土を運ぶ車だけだった。
 作業はまず土を掘ることである。滑走路にする場所をまず六尺(二メートル)掘る。そこへ一番下に隈笹を敷く。次に砂を八分目入れてからバラスをまいて、その上にコンクリートを打つのである。
 仕事は毎日ちがう相手と二人ずつに組まされて、ばらばらに散らばると勝手に各組が好きな場所(滑走路予定地)を掘った。そしてその堀った土を泥車に積みこんで一キロメートルほど離れた場所に捨てに行くのである。この泥運搬車の大きさはタタミ一畳分くらいである。土を掘ってそれに積む。まずタタミ三畳の広さを二尺の深さに掘って、それによってでた土を車に積めるだけ積んで運ぶのだからものすごく重い。車に入れる土の量が少ないと「盛がわるいぞ」と打たれた。また土を運ぶときは往復かけ足でなければならない。掘った土を運び終わるとまた三畳分を二尺の深さに掘る。これのくり返しである。運搬する道筋のところどころに、むちを持った棒頭が見張っていて、のろのろしていれば「それ走れ、それ走れ」と、持っているむちや棒で、タコの背中や腰をどやしつけた。棒頭も走っていて追いまくる。牛馬よりひどい扱いである。二人で土を掘り、積んで走り、土をあけては走った。これを一日最低60回やらされた。見張りはむちを持って追いまわす棒頭のほかに高い櫓を組んでその上から見張っているのもいた。ここからは現場の全体が見渡せたから、脱走や事故にそなえた。そのほかにもいつも軍隊が見回っていて、何か起こると鎮圧にのり出してきた。しかし毎日異なる相手と組んであとはバラバラで追いたてられていたから、何か相談したり、暴動を起こすことなどはまったくできなかった。
 仕事のつらさに、指が使えなければ休めるだろうと、自分の指を泥運搬車の下においてひきつぶしてしまった者がいたが、そんな事ぐらいで仕事は休めなかった。けがや事故はたるんでいるからだと打たれた。またスピードの出たはずみで泥車の車輪がはずれて積んだ泥をぶちまけてしまったりすると、死ぬほどむちでたたかれた。
 「昼飯」の号令がかかる。昼飯は十二時から三十分間である。朝の弁当と同じものに一合の水。この水が一合きりというのが実につらかった。汗をかき、息がきれるからどうしても水が飲みたかった。もちろん腹もすいたが、それ以上に水が飲みたくて、めしと水をとりかえる者さえいた。水は反場から四斗樽を二人でかついで川に降りて運んでくるのだから貴重品なのである。昼飯のほかに三時に、立ったままたばこを一服吸うだけの休みが一回あった。それは文字通り一服の時間、五分もなかった。
 タコはいつも空腹だったから、口に入れるものがあれば何でも食べた。現場に生えているタンポポの白い根、からすの実と呼んでいた草の実など、これは毒があるといわれたがみんなかまわず食べた。玉ねぎの皮などが落ちていれば争って拾った。棒頭にみつかるとまたなぐられた。こうした粗食と重労働、体罰のくり返しでみんなたちまちのうちにやせこけてしまった。ニ十歳前後の若者が骸骨のようで、骨の上に皮をはりつけただけになり、目もくぼんで老人のようなしわが顔中にでき、息をふきかけただけでも倒れてしまいそうに衰弱していった。
 仕事場での服装は往復着ていた服はぬいでしまい、ふんどし一つにわらじばきである。わたしは後になって写真でみたのだが、ナチスの収容所で虐殺される寸前のユダヤ人と当時のわたしたちがそっくりだと思った。みないつも心の奥に脱走への願望をかくしていた。作業をしているところからずっと遠くに雪をかぶった十勝岳がみえた。その雪の山をみると、あの山の下にはきっと冷たい水が流れているだろう。あの山の下に行けば水が腹一杯飲めるだろうと水を飲みたい一心で脱走するものがいた。しかしみんな失敗した。原野でかくれるところがないからだ。脱走者が出ると櫓の上で見張っている棒頭が「飛びっちょうだあ」と大声でわめく。すると軍用犬(大きなセパード)や自動車に乗ったもの、馬に乗ったものなどがどこまでもどこまでも追って行ってつかまえるのである。たいてい一キロメートルも逃げないうちにつかまってしまった。脱走者がつかまってくると、その場ですごいリンチをうけた。また夜飯場にもどってから連帯責任だといって他のみんながなぐられたが、だれもうらみごとなどいわなかった。
 わたしも水が飲みたい一心で脱走して失敗した。朝飯をたべて現場へ行く途中でやった。現場では櫓の見張りにみつかってしまうと思ったから。帯広についてから一ヶ月くらい経った六月の中ごろだった。少し暑くなっていた。故郷の近い6番と38番がいっしょに脱走した。十勝岳をめざして夢中で走ったが四、五百メートルさえ逃げないうちにつかまってしまった。あと四、五百メートル行けば背の高い草のはえているあたりにもぐりこめたのだが、その手前でつかまってしまった。わたしと38番はつれもどされたが、6番は帰ってこなかった。しかし6番はとても弱っていたのでつかまらないはずはないから、つかまった場所で殺されてしまったのではないかと思う。わたしたちも、つかまった場所でまずさんざんなぐられて息もたえだえにさせられたから。それから現場までひきずるようにしてつれてこられ、梁瀬と言う見習士官に刀のさやでなぐられた。よろよろしながら、それでも仕事をさせられ、夜飯場に帰ってきてからまた食卓のそばの土間に引きずりだされて帯剣バンドでめちゃくちゃになぐられた。まず帯剣バンドで背中の皮が割けて背中じゅうが血だらけになるまでなぐられる。すると、体を裏返しにして胸や腹をやられる。そのうちに口から血が流れ、次に肛門からも血がしたたる。咳をすると耳や鼻からもかたまった血が飛び散った。意識不明になると水を頭からざぶざぶかけられた。最初は痛くても、やがて感覚がなくなって痛みもその当座は大して感じなくなってしまう。しかし、寝床へつれもどされると、ひと晩中痛みで眠れなかった。うめき声をころして一夜明けると次の日は同じように作業に行かされた。動けなくても引きずりだされて現場まで何としてでも連れ出される。他のたとえば病人などでも、決して飯場に休ませて寝かしておくということはしなかった。どんな場合でも現場まで引っ張り出され、病人などは現場にすわって作業をみていなければならなかった。寒い日には、そのことは働く以上につらいことにもなった。
 仕事の終了時間は六時ときめられていたが、暗くなるまでやらされた。みな運搬を60回から62回はやっていた。帰りは道具を持ち軍歌を歌いながら帰った。どんなにつかれていても声をふりしぼって歌った。歌わないとなぐられたから。
 七時頃飯場にもどると、晩の食事である。朝飯とまったく同じものを食べる。
 「入浴用意」風呂場の湯舟は四畳半ぐらいあった。五人ずつ並んで、「入れ」「交代」の号令がかかる。号令に従って、手拭いを以て湯につかる。入る順番があとになれば、まっくろいどろどろの湯になってしまう。上がり湯などない。その湯で顔をひとなでして首筋でもこすればもう交代である。そのきたない湯さえ飲むものがいる。しかしみつかれば又なぐられた。どろと汗とでしょっぱい湯。出てみれば体にどろの縞がついていることもある。わらじが足の指のまたに食いこんで、ただれて血を流すものもいた。でも薬などない。ふろから出ると順番に便所に行く、風呂に入るのも順番で、棒頭などが入ったあとに、タコが順番に。今日は一斑が早く、明日は二班が早くというように入った。
 「寝具の用意」八時になると寝る仕度をする号令がかかる。土間をはさんで両側に長く続いたタタミの上にふとんを敷いて寝る仕度をする。自分の衣類をまるめて枕にする。飯場で使っていたふとんは帯広の町から軍隊が没収してきたものだったから、最初のうちはきれいだったが、たちまちのうちにぼろぼろになってしまった。寝る仕度がすむと、ふとんの上にあぐらをかいて二列に並んで坐る。
「点呼」の号令がかかる。はじから「一、二、三、四、…」と番号をいってゆくが、日本語になれない者がもたついていえなかったりするとまたなぐられる。隣のものがそっと教えてやる。それがわかればまたどなられる。それから説教がある。きょうは能率が悪かったとか、戦争を続けるために一日でも早く滑走路の完成を急がなければならぬとか、脱走などがあったときには、そのことについて延々と聞かされた。
「就寝」で床に入る。たいていのものは昼間の疲れで何を考える間もなく眠ってしまう。それでも中に何人かがひそひそと隣同士でしゃべっているのがきこえれば「雑談するな」とどなられる。話し声はしなくなる。しかし声を殺したすすり泣きやうめき声がどこからともなく起こる。元気なさかりのはずの若者が百人もいるというのにすこやかな眠りはない。みんな故郷のことを考えると、それからそれへといろんな事が考えられて悲しさがこみあげてくるのだ。わたしはまず国のお母さんのことを思った。思ったというより自然にこころに浮かんでくるのだ。お母さんの顔が。それから国をうらんだ。何でこんなことになってしまったんだ。日本を憎むより自分の国をうらむ気持ちがつよかった。犬の遠吠えのように気味の悪いひくいうめき声が「アイゴー、アイゴー」ときこえてくる。それはだれかが怖ろしい夢の中でうなされている声なのか、考えごとをしながら思わずもらしたさめているものの声なのかわからなかった。しかし、そのたまらなくいやな声は今でも耳の底にくっついて離れない。こんなことが毎晩だった。
 帯広の仕事は約五ヶ月かかって終わった。その間休みは一日もなかった。報酬ももらわなかった。一銭ももらわなかった。送金したといわれたが、返事もこなかったし、結局、故郷にも送金しなかったと思う。滑走路作業が終わったとき、みんなを集めて週番が話した。
「おまえたちをこれからとてもいいところへ連れて行く。北海道は寒いが、あったかいところだ」あったかいというのは炭鉱の坑内のことだった。帯広駅からまた監視つきで汽車にのった。たいした所持品もなく体一つで移動した。一緒に出発したのは60人ぐらいだった。引率して行ったのは高橋五郎という名前だったが朝鮮人である。

  三菱美唄炭鉱 (以下略)  


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