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ねずさんのブログよりの転載です。

http://nezu3344.com/blog-entry-4194.html#more

 

人や民族や国家には「違いがある」ということを、私達はちゃんと認識する必要があります。そこにある程度の距離を持つことは、親しい間柄であっても、遠い間柄であっても、関係を円滑にしていくのに、当然必要なことです。
なんでもかんでも受け入れれば良いというものではないのです。
あたりまえです。日本国内で人の肉を食べたら、それは犯罪です。

 

 

ラルフ・タウンゼント著『暗黒大陸 中国の真実』の82ページにある文を抜粋します。
戦前のChinaの街角の光景です。
タウンゼントは米国人で、昭和6(1931)年に上海副領事としてChinaに赴任、そこで第一次上海事変を経験し、その後福建省に副領事として赴任。
昭和8(1933)年に米国に帰国してこの本を出版しています。

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屎尿(しにょう)はどう処理をするのか。
家の中に大きな石のカメがあり、これに用をたす。
これをとっておき、農家や仲介業者売る。
華北では、営業許可を得た農家や業者が毎日のように、呼び声高らかに、手押し車や荷馬車を引いて。
華南では、天秤棒に桶を二つぶらさげて買いに来るから良いが、内陸部の田舎はひどい。
客室と同じ棟に巨大なカメがデンと座っている。
なかなか処理しないから、慣れない客はたいへんだ。
脱臭剤など見たことも聞いたこともない。

都市部から田舎へ向かう屎尿買い付けの長い列が続く。
写真で見ると実に素晴らしい。
見渡すかぎりの田舎道、山道を、桶を二つぶらさげた天秤棒を担いで、何千という人間がのろのろ歩いていく。
古くなって中程がへこんだ屋根の家や、灰色の竹と日干レンガのあばら屋などがごちゃごちゃした中に、高くそびえる塔がひとつ、ふたつ見える街から集めた屎尿を畑に撒きに行くのである。
伝統的な畑造りである。

 

華南では、担ぎ手は大抵が女で、痩せてはいるが足腰は強く辛抱強い。
年嵩の女連中は、荷物で重くなってキーキーいう竿(さお)にあわせて掛け声をかける。
決まったようにくるぶしと膝の中ほどまでの黒い木綿のズボンをはき、よほど暑くない限り何もかぶらない。
上着は何度も洗うから、色落ちしている。
足は裸足である。

若い娘の中には目もと明るい美人もいる。
また、赤いヘアバンドをしている者もいる。これは人妻の印である。
ぽっちゃり型で元気であるが、歳をとるのが早いから、すぐに歯が欠け、おばあちゃんになる。

街の市場で買い物をする者がいる。
魚一匹、田舎では買えない野菜一束等である。
これを桶の側にぶらさげるから、糞尿がかかる。

手押し車や荷車で市場に野菜を運ぶ者がいる。
前日、糞尿を入れた同じ桶に入れてなんとも思わない。
まして糞尿がかからないように包もうなどとは、まったく考えない。

彼らは伝染病が流行るときは大変だ。
流行に一役買うことになる。
屎尿を桶にめいっぱい汲んで蓋をしない。
毎日通る道をヌルヌルに汚して、全く気にしない。
そこで遊んだ子供や犬や豚が、バイ菌を家に持ち込むのである。

写真で見たらきれいな田舎の風景ではあるが、現実はきれいごとでは済まされない。
街から集めた屎尿を水で薄め、作物に撒き、家族総出で一日中、土になじむように裸足でこねまわすのである。
真夏の強烈な日差しに照らされると、美しい田園風景どころではない。
一面、悪臭で息もできなくなり、一度足を踏み入れたら、必ず具合が悪くなる。

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もし当時の米国がChinaの買収による宣伝工作に乗らずに東亜政策を展開していたのなら、おそらく日米の戦争は起きなかったであろうといわれています。
そしてその後のChina国民党とChina共産党の内戦もなく、China共産党による1億人規模の自国民への虐殺も起こらなかったことでしょう。

ひとつ、忘れてはならないことを申し上げます。
Chinaは当時、辛亥革命によって清王朝を滅ぼしました。
その清王朝は、紫禁城内に値段の付けられないような財宝類を保管していました。
ところがその紫禁城内の財物は、いつの間にか消え去っています。
もちろん当時のChinaは貧しく、そのような高額品を取引できるような市場もありません。
では、それらの品々はどうなったのか。

実は当時国民党の蒋介石は、弟をヨーロッパに、妻の宋美麗を米国に派遣し、これらの財宝類をメディアや政治家たちにばら撒いていました。
また国民党が日本に勝利した暁にはと、China国土の欧米への切り売りの空手形を大量に切っていました。
Chinaに利権を得たい英米仏蘭独露は、この財物と空手形、そしてChinese女性の性接待によって簡単に籠絡されたといわれています。
そしてこの方法は、いまなおChinaの国際政治活動で重要なファクターとなっているといわれています。

いまでも世界の先進国では、ジャーナリズムの監視があって、特に政治的影響力のあるような人物においては、美人局(つつもたせ)にかかったり、公に買収に応じたりすることは、きわめてむつかしいものです。
それだけに後腐れのないお金や女性に、きわめて脆(もろ)い。

おもしろいことに、当時の日本の官僚や軍人、あるいは民間人においては、そうしたChina工作はほとんど通用しなかったといわれています。
当時の日本には赤線があり、性の放出がきわめて簡単にできたために、わざわざ言葉の通じない外国人女性に手を出す必要もなかったし、外国人女性に下手に手を出せば、軍や官庁をクビになるだけでなく、一族の恥さらし、郷土の恥として、日本国内に帰るところがなくなってしまうのです。
だから集団性と責任を重んじる日本人には、美人局も買収も通じない。
これは悪人たちにとっては、ある意味恐ろしいことでした。

よく、Chinaの宣伝工作によって日本は追い詰められた、という話を聞きますが、宣伝は日本もしていたのです。
ただ、常に真実を誠実に語るだけの日本に対し、China国民党は、とにかく「いま自分たちの立場がよくなりさえすれば良い」という思考で、嘘八百を並べ立てるとともに、西洋人たちの欲望を刺激したわけです。
単に宣伝工作の問題ではなく、こうした「国を売ってでも欲望をくすぐる」という不誠実な悪に、まさに米国は飲み込まれ、対日戦争の準備をすることになり、結果、日米ともに大量の戦死者を出す結果となりました。

また欧米においては、代々続く植民地の支配層の貴族や、その貴族らをスポンサーとする当時の実業界や政治家たちにとって、きわめて正義感の強い日本の躍進は目の上のたんこぶとなりました。
そして日本に敵対するChineseを援助することが、彼らの財産を護り拡大することに繋がったのです。

冒頭にご紹介した文は、タウンゼントの『暗黒大陸 中国の真実』のごく一部の抜粋ですが、この文だけでも、相当ショックを受けた人もいるのではないかと思います。
ちなみに、糞尿を作物の肥料として活用するということは、日本でもごく普通に行われていたことですが、日本では回収した糞尿をそのまま畑に蒔くのではなく、深い穴である肥溜めに糞尿を入れ、そこで発酵させて栄養価の高い良質な土にして、これを肥料として畑に撒きました。

あたりまえのことですが、本当は発酵させて畑に撒いた方が衛生的でもあるし、肥料としても役立つのです。
ところがChinaでは、これができない。
なぜできないかといえば、畑はいつ暴徒たちに襲われて、作物を根こそぎ持っていかれるかわからないのです。
ですから深々と肥溜め用の穴を掘ることができなかったし、仮に掘っても、万一そこに暴徒(Chinaでは暴徒とヤクザと軍隊は同じものです)の誰かが落ちようものなら(昔は日本でも子供などがよく落ちたものです)、報復のために一族全員皆殺しに遭いかねなかったのです。
だから集めてきた糞尿は、そのまま畑に撒き、裸足の足で土と混ぜ合わせてこねくりまわすしかなかったのです。
哀れといえば、とんでもなく哀れなことですが、これがウシハク国の様相というものです。

女性の服装が、綿でできた黒の半長パンツと、何度も洗いざらして色の抜け落ちた上着しかなかったというのも、同じ時代の日本では、相当、貧しい人達であっても、現実にもう少しましな服装をしていたことを考えれば、いかにChinaの民衆が虐げられていたかわかります。

戦前戦中に大陸に渡った日本人は、軍人さんも民間人も、畑の収量を少しでもあげて、みんなが安心して作物をつくり、少しでも清潔な暮らしができるように、Chineseたちに農業指導をしていました。
けれど、申し訳ないけれど、現実には意味がなかったのです。
それは、日本が最終的に戦争に敗れたからということではありません。
どんなに教えても、どんなに快適な生活環境になるように指導をしても、日本人が去れば、また元の木阿弥に戻ってしまうのです。
それがChinaです。日本とは歴史、伝統、文化が違うのです。

Chinaが貧しかった理由のひとつに、作物の収量に対して人口が多すぎる、という問題がありました。
昭和初期のことです。
日本は、稲塚権次郎博士が、従来の品種の5倍もの収量のある小麦(農林10号)をChinaに持ち込み、終戦後もまる二年Chinaにとどまって、その栽培指導をし続けました。
これは蒋介石の依頼があってのことです。
Chinaでは、日本からもたらされた新種の小麦によって、なるほど小麦の収量はChina全土で約3倍になりました。
「これで、みんなが腹いっぱい食えるようになる」というのは、日本人の甘い見通しでした。
Chinaでは小麦の収量が増えた分、そのまま人口が増えたのです。

大東亜戦争開戦前のChinaの人口は4億5千万人です。
それがいまでは15億の人間がひしめいています。
そしてその多くは、年間所得が30万円にも満たない貧しい人々です。

いかなる道徳も、社会システムも、それは人間が作るものです。
人々のアイデンティティの基礎になる国の歴史がとんでもないものであったり、捏造であったり、あるいはそもそもアイデンティティの基礎になる教育そのものが奪われたりしていれば、人間はただの動物になります。
そして動物が相手では、いかなる道徳も社会システムも、まともに機能しません。

そして人間に危害を加える恐れがある動物たちがひしめきあっているところには、人間は近づかないのが、実は一番良いのです。

セオドラ・ルーズベルト・ジュニアは、米国の第25代副大統領であり、第26代大統領、そして大東亜戦争開戦時の第32代米国大統領であるフランクリン・ルーズベルトの遠縁にあたる人です。
そのセオドラ・ルーズベルトの奥さんが、昭和12(1937)年10月にChinaの視察から帰ってきて、『サタデー・イブニング・ポスト誌』に、Chinaで婦人が実際に見た事実を述べています。

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突然私達は叫び声を聞いた。
それは不機嫌なわめき声に変わっていった。
私達のすぐ下で、ひとかたまりの群衆が激怒した暴徒と化し、大声で叫びながら、5人の日本人を追っていた。
4人はうまくバスの中に逃げ込んだ

奇妙だが、中国人は日本人を引きずり出そうとしなかった。
ひとりがよろけて落ちた。
彼らはそこに襲いかかった。

それから彼は、血だらけになるまで蹴られた。殴られた。踏みつけられた。
肋骨が折れ、顔がどろどろと血まみれだった。

そこに白いターバンのシーク教徒の交通警察官が南京路の交差点からムチを持ってやってきて、暴徒をうさぎのように追い散らした。
それから救急車を呼んだ。
暴徒がまた集まってきた。
あきらかにやり返しに来たのだ。

私はあの日本人が死んでいると確信した。
しかし担架に乗せられたとき、彼の手が動くのを見た。


(『中国の戦争宣伝の内幕』ウイリアムズ,フレデリック・ヴィンセント著 p.34~35)
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貧しいChinaの民衆に同情し、彼の国で農業指導や教育などにあたった結果がこれです。
そしてセオドラ・ルーズベルトの奥さんが、この事件の目撃をしたのは、通州事件などが起きたあと、そして日本軍によって南京城にいた国民党が追い払われ、南京の治安が回復した直ぐ前の出来事です。

そして、そういう民族性を持ったChineseたちが、いま、南シナ海に軍事施設を作っているだけでなく、東シナ海にも海上ヘリポートをすでに10機以上建設しているのです。
その場所は、尖閣諸島のすぐ近くです。
そして日本国内には、人民解放軍が兵士達が、いまやウヨウヨいる、という状況です。

私は、Chineseが全部悪いとか、韓国人が全部おかしいとか言う気はさらさらありません。
そういう意味での差別には断固反対です。
まともな人達もたくさんいるからです。

ただ、同じ日本人同士の親しい友人であっても、やはり、違いはあるものです。
早い話が、隣の家と我が家では、家風が違います。
ましてや国や民族や言語が違えば、その風俗習慣も、歴史伝統文化も、まるで異なるものであるのは当然です。
それを、あたまから「日本人と同じ」として、違いを理解したり区別したりすることさえも否定してしまうのは、それは傲慢です。

他国には、他国の文化があるのです。
たとえば南洋のある島では、男性同士が親しくなった時、たがいの下半身を撫で合うという習慣をもった民族がいるそうです。
普通の日本人なら、まさに「たまげて」しまいそうな風習ですが、彼らにとっては、それはそれで意味のある立派な風習です。
日本式の礼がただしくて、その民族の礼は間違っているなどと、どうして決め付けることができるのでしょうか。

アフリカには、親しみを込めた挨拶に、たがいに唾をかけあうという風習をもった民族があります。
これまたびっくり仰天ですけれど、彼らにしてみたら、体を接してキスをすることのほうが、よっぽど異常に思えるのだそうです。

日本人はよく風呂に入りますし、温泉とか大浴場とか大好きです。
けれど、国や民族によっては、風呂もシャワーも、一生に何度か経験する程度という民族もあります。
おとなりのChinaでは、民衆は起きているときの服装のまま寝るのがあたりまえです。
パジャマに着替えるということが、奇妙に思えるそうです。
危険が迫った時に、着替えなければ逃げれないからです。

民族ごとに、違いがあるのです。
そしてその違いは、その国や民族の風土に密接に関係しているものです。
たとえばモンゴルなどの遊牧民は、パオというテントで生活をします。
遊牧地帯というのは寒い地域ですから、彼らのテントは床暖房です。
これがとてもあたたかい。
けれどもその床暖房の燃料は、家畜と人間の糞を乾燥させたものです。
周囲に木はないし、これが一番良く燃えるのです。

けれど、糞を燃やせば、それは文字通り「やけくそ」です。たいへんなニオイがします。
ですからテントで暮らす女性たちの最大にして最重要な仕事は、テントの床と壁の縫い目を常にしっかりとメンテナンスすること。
それをしないと、たいへんなことになるからです。

ちなみにこのヤケクソ戦略、日本でもかつてガスの大手会社が、西洋式トイレ内部で出したてほやほやの糞尿をガスの力で燃やすという新型タイプのトイレを考案したことがあります。
博覧会に出品しようと勢い込んだのですが、残念ながら開発段階で断念になりました。
臭気が漏れたときのニオイ対策がどうにもできなかったからだったのだそうです。

国や民族には違いがあります。
我が国では、縄文以来、人間の食事に欠かせない塩分とカルシウムは、小魚から採られてきました。
日本は四方を海に囲まれていますから、これが可能だったのです。
けれども、大陸の内陸部には海がありませんから、小魚を摂ることができません。
ですから、もっぱらカルシウムは家畜たちの乳から摂られました。
牛乳や羊の乳を飲むという習慣や、乳製品としてのチーズの製造なども、そうした生活習慣から生まれたものということができます。
また塩分も、小魚がありませんから、もっぱら動物の肉から摂取しました。
人が死ぬと、その動物たちに遺体を食べさせましたし、その動物を生きている人間が殺して食べました。
こうすることで、塩分が食物連鎖するわけです。
人の遺体を埋葬するのは、病気で死んだ場合だけでした。
病死の場合は、その病気に感染するリスクがあったからです。
ですから肉であれば動物の肉も人の肉も同じ肉、という国も、我が国のすぐ近くにあります。
けれど人が生きるためには、それが必要だったわけです。

人や民族や国家には、そういう「違いがある」ということを、私達はちゃんと認識する必要があります。
そこにある程度の距離を持つことは、親しい間柄であっても、遠い間柄であっても、関係を円滑にしていくのに、当然必要なことです。
なんでもかんでも受け入れれば良いというものではないのです。
あたりまえです。
日本国内で人の肉を食べたら、それは犯罪です。

ですから当然に、国や民族には「違いがある」ことを前提にお付き合いをしなければなりません。
そこを、つまらないヒューマニズムで混同すると、ルーズベルト夫人が見た日本人のような被害者が出るのです。

 

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