醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  1029号   白井一道

2019-03-18 16:31:49 | 随筆・小説


     かぞへ来ぬ屋敷屋敷の梅やなぎ   芭蕉



 元禄2年8月(1689年)、芭蕉は大垣で『おくのほそ道』の旅を終わりにする。その後芭蕉は近江近辺に滞在し、元禄4年9月下旬、江戸に下る。
 陸奥への旅立ちにあたり、芭蕉は江戸深川の芭蕉庵を手放している。その時の句が「草の戸も住み替る代ぞひなの家」である。芭蕉は跡を絶って江戸を旅立った。芭蕉には江戸に変える住いが無かった。妻もいなければ、子供もいなかった。江戸に変えるべき理由がなかった。しかし芭蕉は元禄4年9月下旬になると江戸に向かった旅立ち、11月、江戸に戻り、日本橋橘町に仮寓する。
なぜ芭蕉は江戸に下る決断をしたのか、その理由が今のところ、私には分からない。江戸の門人たちからの誘いがあったからなのかもしれない。元禄5年の正月を芭蕉は江戸で迎えている。
「かぞへ来ぬ屋敷屋敷の梅やなぎ」。この句を芭蕉は元禄5年3月に詠んでいる。この句に芭蕉は「緩歩(くわんぽ)」と前詞を付けている。町人たちが住む日本橋橘町を出て江戸詰めの日本各地の大名屋敷が軒を連ねる武家屋敷街の散歩した折の句が「かぞへ来ぬ」の句であった。
江戸時代は身分制社会であった。武士が住む地域と町人が住む地域、農民が住む地域は別々に住み分けられていた。理由なく農民や町人が武士の住む地域に出入りすることはできなかった。その分をわきまえぬ行いをする者を武士は切り捨てることができた。
芭蕉の身分は農民である。農民身分の者が妄りに理由なく武家屋敷街を歩き回ることは難しかったに違いない。江戸時代、身分は服装で分けられていた。農民は農民の服装が強制されていた。が芭蕉は墨染めの衣を羽織った僧侶の服装をして武家屋敷街を緩歩したのではないだろうか。手には数珠を持ち、屋敷ひとつづつ数えながら、厚い塀で仕切られた庭に掃いている高い樹木、梅や柳の木を愛でて行った。
春の日の武家屋敷街の静かな佇まいに心が満たされていくのを芭蕉は感じていた。これは芭蕉の江戸武家屋敷街への冒険であった。
これが俳句だ。武家屋敷の発見であった。この句はまさに現代俳句に生きる俳句の手本中の手本になる句のような句だ。この句は良い句だと思うだけで自分の俳句力がアップしたような気分になる。

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