もし心が邪悪に引かれ、欲にとらわれようとするなら、これをおさえなければならない。心に従わず、心の主となれ。   
                             
     般泥洹経 
 
「お経を読んでいる時は、無の境地みたいな感じですか?」というご質問をいただく事があります。仏教では「集中すること」の大切さを説いていますが、それは「無の境地」とは少し違います。
 
 仏教の修行というと、山に籠もったり滝に打たれたり、というイメージをお持ちの方も少なくないと思いますし、実際日本の仏教ではそのような修行をしています。私も山の道場に籠もり読経や水行をしました。
 
 しかし実は、仏教の修行は元々「瞑想」を主としていたのです。何か一点に心を集中する「サマタ瞑想」や一挙手一投足に意識を向ける「ヴィパッサナー瞑想」は近年日本でもよく知られるようになりました。
 詳しいやり方はここでは割愛します。最近は仏教の瞑想に関する本も沢山出版されているので、ご興味のある方はご覧下さい。
 
 幾ら修行を積んでも、人間の集中力には限界があります(超人的な人もいるとは思いますが・・・)。例えば本を読んでいても、いつの間にか意識が「今日の夕飯は何にしよう?」という事に向き結構な時間が経ってしまった、というような経験は多くの方がしていると思います。
 
 瞑想の大きな目的の1つは「雑念が浮かんだらすぐに気付き、本来集中する対象に意識を戻す」事です。とても心地良い時間のはずなのに、つい嫌な事を思いだし、あれこれ不快な記憶が蘇り心地よさがなくなってしまったら、これはとても勿体ないですね。
 「嫌な事を思い出す事」「今関係ない雑念が浮かぶこと」は仕方ないですが、「嫌な思いや雑念に気付いたらすぐに意識を戻し、その瞬間瞬間を精一杯過ごす」つまり「嫌な思いや雑念を引き継がない」事を仏教では大事にしているのです。
 
 前述の質問に関して記しますと、お経を読むときは一心に集中して、もし意識が他にそれてしまったらすぐにまたお経に意識を戻します。コツは自分の声に集中する事かと思います。私の場合、ご法要でお題目を唱える時は亡き方の新しい場所での幸せ、参列の皆様の幸せをお祈りしています。
 
 人間はどうしてもそのままでは雑念だらけで、目の前にある幸せそっちのけで不愉快な事を考えてしまう事があります。欲に振り回される事もあります。そしてそのままだと良い結果は生まれません。
 幸せになるためにも、自分の心をきちんと制御する事が大切です。奔放な心に振り回されるのではなく、心を従えるのです。勿論これは簡単ではありません。しかし仏教の思考や修行は、自分をその境地に近づけてくれます。