東アジア歴史文化研究会

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香港の製造業が、香港回帰へ もはや中国で製造し、米国へ再輸出するメリットはなくなった(宮崎正弘国際ニュース早読み)

2019-10-18 | アジア情勢
香港から対米輸出の19%が通信関連、18%が宝飾品、そして17%が電子部品である。香港と言えば安物の繊維製品だったが、これもミシン工場のあらかたが中国の、それも奥地へ移転し、香港に輸送されて再輸出にまわされる。対米輸出の12%である。

福建省は嘗て女工が集合したミシン工場が林立していた。いまや影も形もなく、電機部品や機械の製造部品工場は広州周辺の仏山、東莞、厚街などに集中していたが、このあたりも様変わり。香港に隣接の深センはハイテク企業ばかりが目立つ。この深センからトラック輸送されて香港でコンテナに積み込まれ、米国へ輸出される。

米国は香港に特恵関税の優遇措置を与えてきた。それが10月16日、米議会下院を通過した「香港人権民主法」により、人権の改善がないと、優遇扱いもなくなる。

ただでさえ米中貿易戦争で、高関税を課せられたため、香港企業は中国大陸で製造するメリットがなくなった。

ついで人件費が高騰し、中国大陸より、ベトナム、カンボジア、ミャンマー、そしてバングラデシュへ工場を移管した。くわえて香港企業が悩まされたのは知財を軽視し、あるいは知財を盗んで類似品をつくり、かれらの競合者として市場をかき荒らすという、中国人のビジネスモラル欠如である。

振り返れば、栄枯盛衰、生々流転、波瀾万丈。1970年代後半から香港の製造業は、改革開放の波に真っ先にのって中国大陸へ本格的に進出し、人件費の安さが大きく宣伝されて、台湾華僑が続いた。
もちろん日本の企業も慌てふためいた。

2004年に香港から深センに「逆通勤」する香港人が24万人いた。2010年には17万5000人に減って、最近はもう少し減った。
香港の紅石勘駅から羅府への電車、いまでは3分から5分おきにある。早朝から満員である。

1970年代後期、まだ中国が鎖国していた頃、国境の展望台から双眼鏡で中国を見ることがあった。73年だったか、列車は旧式で一日に五本ほどしかなく、乗ると給仕がお茶をつぎにきた。
羅府の手前の駅で、タクシー運転手が乗り込んできた。展望台まで乗れ、いくらにまけるからとセールスである。

▲深センはうら寂しい漁村だった

70年代の終わりだったか、80年代初頭だったか、香港から日帰りツアーで蛇口コースがあり、フェリーで渡って、深セン市内を見学し、幼稚園もみたりして香港へ戻る。参加者はほぼ外国人だった。人口30000人ほどの裏寂しい漁村だった。

次に外国人ツアーに紛れ込んで、日帰りの広州ツアーというのがあった。広州は広州交易会で栄える国際都市で、広州ホテルのバアで呑んでいたらバーテンダーの若い男が、「あんたは日本で何をしている。所属はどんな単位か」と訊いてきた。

「自由で所属する単位はない」と答えると目を丸くしたものだった。「日本では自分で職業を選べるのか?」って。

90年代には経済発展が顕著となり、東京で逐一ビザをとるより、香港へ飛んで羅府へ行き、ここの中国旅行社で26000円也を支払うと数次ビザが、いとも簡単に取得できた。
それも半年間有効だったから、半年に一度は香港経由、あとは北京や上海や、東京から乗り入れている都市なら直接行けた。

もう一つの穴場は海南島で、アライバルビザが空港で発給され、一ヶ月以内なら数次ビザという特典が例外的にあった。こうした利便性に、中国も国際的になったもの、と感心したのも束の間、2003年頃から日本人はビザ不要となった。それまでのビザ取得の苦労は何だったのか。

さて香港企業である。メリットがなくなったと嘆く経営者は、いっそ香港へ戻ろうという考え方に傾く。茶湾や九龍糖あたりはまだ工業地帯が残っていて、空地もあるからだ。

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