忘れたころにやってくる投稿。
彼方です。
こんな時間に思い出して書いてみる
飯テロw
この親子丼、激うまでした。
『伊勢 小伝馬町店』
https://tabelog.com/tokyo/A1302/A130204/13177648/
小伝馬町駅または新日本橋駅から歩いてちょっとのところにあります。
これで1000円いかずにランチの親子丼♪
名前も「伊勢の親子丼」♪
大盛りを軽く平らげてしまいました。
必ずまた行く。夜は焼き鳥を楽しめる居酒屋って感じらしい。
書きたいときに書く、これぞブログって感じですね。
(単に忘れていただけですが。。。)
でも、忘れるって何なんでしょうね。
別に興味が全くないわけでもない、優先度が低いからタンスの奥にしまって忘れるって感じですよね。まあ、タンスが意思をもって時々教えてくれるわけではないので、「忘れている」というのは不思議ではないのかもですが、、、
一つ、これを書いていて思ったのは、ブログを思い起こさせる何かを、日ごろの目の付くところに置いておく、ことが忘れないようにするための手っ取り早い方法ですね。皆さん、普通にやっていることかもしれませんが、たぶん、人は何を思い起こさせるかを、優先順位をつけて決めているはずなんです。そしてそれを決めるには、理由、が必要なはず。
ブログの場合、その理由が弱いのかもしれませんね。
が、しかし、だからこそ匿名+気ままな更新で気楽にできる、という面もあるのかも?
ただ、その理由を求めて極端な繋がりを求める傾向も生み出しやすいのかもしれません。
誰かを過剰に好意的に感じて求めたり、逆に、過剰に非難してみたり
そうすれば良くも悪くも周囲のレスポンスを引き出しやすく、次を書く理由にもなりやすい。
理由を生み出すために、記事を決める・・・
理由があるから、記事を書く・・・
自分も含め、だれしもその両方の顔を持ちながらブログを書いていると思いますが、
何か、ブログを取り巻くシステムに動かされている自分、の違和感が否めない。
ジンネマンが言っていた。
「人はいつしかシステムを維持するために生きなきゃならなくなった」
制度経済学にも同じような見方をした偉人がいたらしい。(カール・ポランニー『大転換』)
「市場と社会の関係性の転換」
自分たちの意思による判断とは、「どこから、どこまで」なのだろう?
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