偏平足

里山の石神・石仏探訪

石仏935碓氷峠(群馬)馬頭観音

2020年10月21日 | 登山

碓氷峠(うすいとうげ) 馬頭観音(ばとうかんのん)

【データ】 碓氷峠 960メートル▼最寄駅 JR信越本線・横川駅▼登山口 群馬県安中市坂本▼石仏 碓氷峠道の途中、地図の赤丸印▼地図は国土地理院ホームページより

【案内】 これは前回の石仏944碓氷峠・刎石坂(群馬)徳住念仏供養塔の続き。
 上州の坂本からの碓氷峠道も、刎石坂を登ると少し平坦になる。そんな場所に立つ大きな石塔は文字「馬頭観世音」。背面に「天保七年丙申(1836)/信州佐久郡御影講中」と「願主有賀七郎右衛門/羽根石世話人中山忠兵衛」の銘が入っている。刎石坂の馬頭も信州佐久の人の造立だったが、またしても佐久の講中が立てたものである。御影講は江戸時代に行われた日蓮の命日に行った報恩の法要で、後に御命講、現在の御会式。羽根石は刎石で、中山忠兵衛は刎石茶屋の住人か。


 しばらく平坦な道が続いて右手の土手に馬頭観音がある。南向馬頭観音といわれている石仏だ。「寛政三年(1791)/坂本宿施主七之助」とあり、ここで上州側の人物が出てくる。


 次に北向馬頭観音が左手土手の上にある。「文化十五年(1818)/信州善光寺/施主内山庄左エ門/上田庄助/坂本世話人三沢屋清助」銘で、これは佐久と上州の人の合同のように見える。造立目的は善光寺参りの旅人の安全祈願なのだろう。
 坂本から登り始めてここまで、紀年銘がある石造物9基は寛政から文化・文政の約50年間に建てられている。この時代、庶民が旅に出て地方も潤った時期だった。

【独り言】 碓氷峠越えは人も馬も通る長い峠道でした。それでも信州からは下り一方でしたから、西国へ旅した人の日記を見ると碓氷峠を下に使う人が多かったようです。もっとも東国からの西国三十三所観音巡りなどは、美濃の33番谷汲寺から信濃の善光寺へお礼参りするので、否応なく碓氷峠を下るようになっていました。


 長い碓氷峠道ですから、途中二か所に茶屋がありました。その一つ刎石茶屋跡の案内には4軒の店があったと記されていて、かつての石垣が残っています。その奥の墓地をのぞくと多くの墓石のなかに地蔵が倒れていたので、立ててあげました。墓石のなかに、正面に「釋智讃不退位」の法名、側面に「越州福井松本筏町市橋直次/セ話人谷口幸助/文化七庚午(1810)春四月廿五日」というのがありました。銘から、越前の市橋直次がこの地で亡くなったため、谷口幸助が墓を建ててあげたことがわかります。市橋は旅人で、谷口は同行者か茶屋の人なのでしょう。法名は浄土真宗のようです。
 深井甚三氏の『江戸の旅人たち』(注)によると、巡礼者が持参する往来手形は、旅先で亡くなった場合はその土地の習慣に従って埋葬してほしい旨が書かれているそうです。また身元が分かれば出身地へ連絡したようです。全国の寺社を巡礼する六十六部などは、世話人や同行者によってねんごろに葬られ廻国供養塔まで建てたことは、いまに残る廻国塔からわかります。
(注)深井甚三氏の『江戸の旅人たち』1997年、吉川弘文館


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 石仏934碓氷峠・刎石坂(群馬... | トップ | 石仏936堀之内・御嶽山(新潟... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。