まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

いま、陛下は何処(いずこ)に    15 7/27 改稿

2023-12-25 20:30:07 | Weblog



2016年掲載 旧題 あの頃に倣う 移風は、陛下の「威」と「忠恕」しか解決はない   

「移風」・・・忌まわしい雰囲気を祓い、新しい気風を起こす


 

天明・天保、あの頃も天変地異は多発して人心は乱れた

だだ、民の窮状を直視し、禁中並諸法度を越えた英知で人心を整えた賢帝や国母がいた。

それは民の依頼心や皇位の謀でもない醇なる忠恕心だった。

真の学を作興し、ややもすると慣性に緩む宮中を整え、世に公徳心を喚起した。

その威の力は、経年劣化に堕した幕府(政府)の軟弱さを露呈させ、民の離反を招いた

国風に新たな清涼感を抱かせるには、物や便法ではなく、縦軸である維を新たにする忠恕の心であった。

それが大御心に応ずる民(大御宝)の強固な国なるものの紐帯なのだろう。








以前、日本の道徳的移風は王政(道)復古でなくては、との考えを記したことがある。
文字解釈での多論はあるだろうが、「移風」は現状の民情なり、その方向性や価値観から導く政治なり経済、そして教育の雰囲気や流れを好転させることだ。

以前の章では道徳的移風については王政復古と書いたが、時代錯誤と非難かつ嘲笑された。王政の何処が、と切り取り反論をされても納得するものもなく、かといって天皇に政治権力を委ねるものでもなく、だだ、現状の政治形態にある権力者に慎みがなくなったとき王政の由縁となる「王道」に取り付く島をみるのだ。

己の薄弱さと人生すら完結できそうもない庶世の民として、天皇の姿に何を描くかはそれぞれだが、不特定多数の人々に対する人間の姿として垣間見る行動は、世俗にまみえる処士として、どう見ても近づくことのできない異次元の姿として映るのだ。

たとえ、土佐の賢候山内容堂が無頼の衆と切り捨てた薩長が大義を取り繕うために内裏から世俗にお出まし願い、歴史にもない軍服を着せたこともあるが、また古今の歴史に利用されかつ権力の形式的装飾に用いられたとしても、平成の御世における天皇の大御心を体現する姿は、まさに王道の心をみる観がある。それは忠恕心だともいう。

それを伝統だというのは容易いが、人間はそれができると思うだけでも意味がある。
また、教育においても単に数値選別されて望みの職掌を得た位上人でさえ、及びもしない観念や、庶民から見ても驚愕とも思える所作にも、処世で当然考えるであろう、小欲とは異次元の大業に向かう超克した心情が読み取れる。






昭和天皇


ときに、昨今の選良の態度や輔弼としての宰相と官吏の姿を見ると、どうしても大御心を忖度した行動が読み取れない。処世の人々からすれば一種の軽さを感ずるのだ。
いくら民主や法治と謳われても、そこには収まらない安堵と鎮まりがある。

以前、少し不敬な依頼心を抱いたことがある。
皇室の奥の語り部として重用された卜部亮吾氏(侍従、皇太后御用係)が良子皇太后のお付きで葉山の御用邸に赴くとの連絡があった。筆者とは洒脱な関係だったので「サッポロのビールを差し入れします」とお伝えしたところ、「ビールは輸送でゆすられると、しばらく間をおかなければなりませんね」と氏らしい洒脱な応えがあった。氏は銀座七丁目のライオンビヤホールでの泡友仲間ゆえのビール薀蓄だった。

ところで皇太后様はお元気ですか」と問うたら「お変わりありませんかの方がいいですね」と返された。

浜辺を散歩なされますか」と聴くと「補助を必要としますが」とのこと。

「ならば、皇后陛下がお手を添えれば今どきの婦女子は見習い、それが周知されれば政府の扶養費支出も抑えられます。なによりも国民のムーブメント(運動)となれば、国柄も変わりますね」これが少々不敬な願望だった。

妃殿下ご自身で養育すれば、ベビーカーはどこの製品、衣類はどこの店,帽子はどこのブランド、と世の婦女子は騒がしかった。そこで世俗では嫁が義母の車椅子を押している微笑ましい姿を見倣ったら保護費も抑えられ、家族のきずなも強くなるとトンチまがいに考えた拙意だった。

陛下を活用することを過度にタブー視する向きもあります。もちろん政治にコミットすることも問題となります。

でも、御姿、しぐさ、お気持ち、といった人間が学ぶ対象として活かすことは陛下の意にも沿うものだと思います。

よしんば弛緩した政治家や官吏に対して

「政治は目立たない処を慎重に探り、つねに不特定多数の安寧を心掛けるよう」

と、お言葉を発したら、処世の人々は縁に依って来る苦難や煩悶にたいしても、自己における時と縁の巡り合わせだとして為政者に反目しなくなるはずです。

国民が真摯に政治に応ずれば、権力を運用する政治家や官吏も覚醒するはずです。それは国情の雰囲気を変えることにもなります」






卜部皇太后御用掛  小会にて 

https://kyougakuken.wixsite.com/kyougaku/blank-1


それは縁あって日本に棲む人々の心の中に描いている長(おさ)としての立場を認知している世代が存在する間にしか効力がないことです。

次世の御代が変われば威も徳も薄れるだけでなく、認知すら軽薄な関心しか持てなくなるかもしれません。

欧米のような私生活のスキャンダルやファミリーへの愛着はあっても、畏敬の存在ではなくなることもあります」

動物でも群れの長(おさ)を失うと羊飼いに連れられ、犬に追い立てられる羊のようになります。

郷や国の防衛とて、武器道具を揃え、財を駆使しても人々が連帯を失くしたら、防衛力は弱くなります。

なかには「小人は財に殉ず」のごとく、危機を察知したら責任回避するものも出てきます。

また、間諜も現れます。その内なる反省は70年前に体験しました。」

筆者がせめてもの皇室の「奥」に職掌を持つ卜部氏に対して答えを必要としない呟きごとであった。毎年のごとく節期の激励文をいただき、小会(郷学研修会)の道学に添い、天聴(天皇の知るところ)に達しているかのように至誠ほとばしる督励清言は、あえて意を表すことに逡巡すらなかった。また不遜にも卜部氏を通じて、゛あの御方ならわかっていただける゛、そんな下座からの気持ちだった。

そんな想いも世俗に晒せば、「自由と民主の時代に・・・・」との誹りもある。
その自由と民主の仮借がさまざまな分野に善くない影響を与えているから問題なのだ。

どうも表現が今風でなく稚拙らしい。仮にも定説なるものとアカデミックな論拠を書き連ねれば、いくらか数値選別エリートの反駁にも贖えるのだろうが、そこまでの知能力も耐力もない。いや、関わりになると問題がより複雑になってしまう危惧もある。







  義士 大塩平八郎


江戸、天保の頃、飢饉が襲った。江戸の役職や御家人は強引にも地方から米の上納を図った。江戸御府内という体面もあったが、物が動けば利を生ずるように、お決まりの御用商人と担当、責任官吏の賂も問題だった。私塾洗心洞を主宰し、かつ奉行所与力職にあった大塩平八郎は道学の士を募って豪商の打ち壊しを義行した。

以下ウィキペディア転載

≪前年の天保7年(1836年)までの天保の大飢饉により、各地で百姓一揆が多発していた。大坂でも米不足が起こり、大坂東町奉行の元与力であり陽明学者でもある大塩平八郎(この頃は養子の格之助に家督を譲って隠居していた)は、奉行所に対して民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書五万冊を全て売却し(六百数十両になったといわれる)、得た資金を持って救済に当たっていた。しかしこれをも奉行所は「売名行為」とみなしていた。

そのような世情であるにもかかわらず、大坂町奉行の跡部良弼(老中水野忠邦の実弟)は大坂の窮状を省みず、豪商の北風家から購入した米を新将軍徳川家慶就任の儀式のため江戸へ廻送していた。

このような情勢の下、利を求めて更に米の買い占めを図っていた豪商に対して平八郎らの怒りも募り、武装蜂起に備えて家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。

一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱と交換できる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。

一方で、大坂町奉行所の不正、役人の汚職などを訴える手紙を書き上げ、これを江戸の幕閣に送っていた。新任の西町奉行堀利堅が東町奉行の跡部に挨拶に来る二月十九日を決起の日と決め、同日に両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てた。≫

 


中央 安岡正明講頭  右 卜部皇太后御用係  於 郷学研修会

 

それ以前の天明の飢饉には一つの出来事があった。
庶民は、幕府は頼りにならないと京の天皇に直訴した。天皇の忠恕心に委ねたのだ。

光格天皇は窮状を知り即座に備蓄米を供出を幕府に問うた。率先して動いたのは後桜町上皇だった。いっときは一日に三万人の庶民が御所に集まり、周囲約一千メーター余りを周る「御所千回周り」を行なった。

御所の周囲を流れる溝を掃除して清水を流し、上皇は数万個の果実を配った。他の宮家はお茶などをふるまった。

そのお姿は、その後代の孝明、明治とつづく天皇の現示的イメージとして、大政奉還、討幕維新と流れる時世を暗示する天皇の仁を添えた賢明な行動だった。






後桜町上皇



元々は民生の政治は幕府専権である。天皇が備蓄米の供出を関白をとおして京都所司代に命令を伝えることは禁中並公家諸法度に触れることであり、大問題になることだった。

その後、大塩の決起があった。天保は仁孝天皇だった。天皇は天明の件を一例として関白は京都所司代に対して救済策をご下問している。ここでも江戸の幹部用人の無策が露呈している。

江戸幕府ができてから朝廷が幕府に物申したのも初めてだが、しかも天皇をはじめとする上皇や公家の積極的救済は、たとえ「禁中並公家諸法度」という制約があったとしても、民を救済することに何ら幕府に遠慮することなく、怯むことのない皇道(すめらぎの仁道)を顕示する叡智と剛毅がある。



 

平成天皇が鑑とした光格天皇




そもそも存在する立場の役割として、民もその姿を認知し、かつ深層の情緒に溶け込んだ姿は普段の民生には隠れた存在だ。施政は幕府専権であり責任ある為政者だ。勤労の果実は年貢として徴税する。

しかし、一旦事が起こっても何ら問題意識もなく、埒外な政策しか執れないようでは、民は天皇の威と忠恕心にすがるしかないと、当時の民は考えた。そこに意が向くことは当然であり、今でもそれは威能は有し、行動は可能だ。なぜなら民の存在を大御宝(オオミタカラ)と称し、その民の良心の発露である「人情」無くして国法は機能しないからだ。制度はともあれ深層の国力である人間の情緒性は、政治機能とは別の意味で、直接的黙契の関係が厳然としてあるようだ。

幕府用人とて慣習とはいえ綱紀の緩みに対する問題意識すらなく腐敗堕落して、迫りくる欧米列強の植民地を企図する勢力との対応にすら窮するようになった。

現状追認、後回し、事なかれ、責任逃避、そして下剋上。

それは平成の御世に再来した現状とあまりにも類似した集団官吏の姿ではないだろうか。

しかも、その甦りなのか縁の再復なのか、天皇の姿が明らかに変わってきた。いや、変わったのは市井の人々の覚醒と蘇りへの愛顧なのかもしれない。








震災地への巡行、戦災慰霊の旅、津々浦々の市井の人々との交流、そして再び惨禍の兆候を察知したような言辞と国民への配慮は、あの大塩の抱いた正義と忠恕による人心の安定を共に願い祈る、皇祖仁孝天皇の宗旨(皇宗)に沿う、意識の伝承のようにも映る御姿でもある。

世俗は家族を基とした内外の社会生活に煩いを多くみるようになった。生産や消費、そして成功価値の変化や人生到達への茫洋さなどが混在して将来すら計れなくなっている。それらは苦情やモンスターと称される表現でしか表れる姿ではなくなっている。

当時の大塩とてそのような世情の姿に決起したのではないが、掴みどころのない浮俗ともおもえる時節に、問題意識を描く諸士は少なくはない。さりとて、゛どうしたら゛と暗中を模索するのみだ。





上賀茂


そこで筆者は今上陛下の発する大御心に沿うことを提案する。それは真似る、倣うことでもある。

応答辞令、仕草、言辞、様々だが、先ずは慎重に意志を読み取るべく鎮まりのある行動をすべきだろう。だからと言って崇拝主義やファン気質になることもない。姿を見せて膝を折り語りかけるだけで我が身の変化を感じられることの不思議さを我が身に問いかければよいことだ。宰相が百万言を弄しても届くことのない我が身の是非の感覚を探ることだ。

それが、「普段は感じられることでなくてもよいが、何かあった時に想い起していただきたい存在でありたい」との応えに対する市井人のほどよい立場だろう。そして即位の宣誓に「憲法を遵守して・・」と、厳明した言葉を公務に嘱する人々に最も理解してほしい。

民主主義を仮借した政治なるものが、運用者たる為政者によって暫し混迷している時世に、国民は、゛あの御方ならわかってくれる゛それを護ることに何の衒いもない国民は多いと思う。

だからこそ形式的認証であっても、その受任者たる輔弼(政官)を教化して欲しいと、またもや依頼の心が興るのは自然の姿ではないだろうか。今ならまだ間に合うと思うのだが・・


一部、参考資料は関係サイトより転載。イメージも一部同様に転載しています

浮世はなれした切り口ですが、ご感想はコメント欄にいただければ幸いです。

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