自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

5.15事件/国体論/復古(神格)から革新(人格)へ

2018-05-15 | 近現代史

[ご報告] 前立腺オペの術後、出血と血塊による再閉尿で一時救急処置を受けましたが、その後は経過良好で平癒を迎えました。盛年の頃の機能にもどりました。PVPの実力が能書きどおりであったことをドクターと共に喜んでいます。

  匂坂資料全4巻(1989~1991)角川書店

932年 「血盟団」事件 2.9前蔵相井上準之助暗殺 3.5三井財閥総帥団琢磨暗殺
1932年  5.15事件 海軍青年将校と陸軍士官学校生ら首相官邸等襲撃、犬養首相を射殺
1936年  2.26事件 皇道派将校反乱、国家改造クーデター失敗  

5.15事件は「血盟団」事件のやり残しを仕上げたものである。実行者は上海事件による軍の移動と足止めで井上日召大洗グループの決起に間に合わなかった海軍青年将校6名(戦死した藤井斉大尉の盟友・古賀清志中尉が首謀)と橘孝三郎が主宰する自営的農村勤労学校・愛郷塾グループ7名(塾幹事後藤国彦首謀)、それに陸軍青年将校の不決断に愛想をつかした陸軍士官候補生12名(元士官候補生・池松武志=首謀者を含む)である。
青年将校と士官候補生からなる一組は犬養首相を官邸で襲い、問答無用射殺した。反抗的態度の巡査1名が殉職し、1名が負傷した。大洗グループが果たせなかったメインターゲット「首相」暗殺に成功したことにより「血盟団」所期の目的が完遂された。日召グループは困難だが「連続的に総理大臣を」やれば政府は倒壊する、と考えていた。
犬養首相に特別恨みがあったわけではない。「起爆薬」として「首相」暗殺が最大の効果をあげる(池松武志:反省の響を最大にする)と考えて当時の犬養首相を選んだに過ぎない。犬養首相はかつて「憲政の神様」と謳われたが、総理になってからはやむなく軍部に追随して関東軍の満州制圧、上海事件に師団派遣・増派を容認し、満蒙独立方針要綱を閣議決定した。これと、陸相に希望の星・荒木中将、参謀次長に真崎中将、内閣書記官長に満蒙積極外交の森恪が就任したことに満足して、陸軍側と北一派、大川一派はクーデターの意欲を失った。かれらの言い分は「時期尚早」である。
北一輝の同志西田税が陸軍側の「裏切り」を画作したとして大洗グループの残党川崎長光が西田を自宅で拳銃で襲って瀕死の重傷を負わせた。5.15事件の同志たちは西田を革命のブローカー視していた。
農本自治主義・愛郷塾が東京府内外の変電所6カ所を手榴弾で襲撃して首都のブラックアウトを狙った。その魂胆は治安の混乱を起こして戒厳令を誘発することだった。投擲爆発2か所、不発2か所、投擲に至らず2か所。文明と都市の象徴である電力を狙ったところに農本主義のアンチ資本主義、アンチ中央集権、反文明思想が表れている。
そのほかの襲撃行為(タクシーで乗り付けた)は以下のとおりである。
牧野伸顕内大臣官邸襲撃 玄関前に手榴弾投擲 破片で玄関付近損傷  門前の警察官1名銃撃で負傷 その後警視庁に向かい玄関に向かって拳銃を乱射 警視庁書記と読売記者重傷
首相襲撃組も警視庁に向かうが空振り 後続の一部は乱入し硝子戸を蹴破る等狼藉 ついで予定になかった日本銀行に向かい正面玄関に手榴弾投擲 破片で付近損傷
立憲政友会本部襲撃 手榴弾投擲 玄関付近損傷 続いて警視庁に向かい手榴弾投擲 庁前電柱電線と窓ガラス破損
◇「血盟団」明大生奥田秀夫、三菱銀行構内に手榴弾投擲 外壁等損傷
それぞれの行動が腰が引けているように見えるのは戦術選択(威嚇と宣伝目的)のせいである。
最後に警視庁で落ち合い非常͡呼集の警官隊と「決戦」を想定していたが警官がいなくて空振りに終わった。

実行者たちは大洗グループほどではないが日本主義(天皇親政+農本自治)と国体(万世一系の君民一体国家)について固い信念を持つ直接行動の確信犯であった。天皇観、時勢観、行動について共通理解で結ばれ、その表現は画一的で紋切り型である。たとえば行動のターゲットでは「君側の奸」と君民一体を離隔する財閥・政党・特権階級、手段では「直接行動」(暗殺テロと要所襲撃)、意義では「桜田門」(井伊大老暗殺事件による隠喩)、「捨て石」、「前衛的破壊」、といった具合だ。
荒木陸相と大角海相が被告の行動に理解を示した。軍の後押し、在郷軍人会の組織的な活動がきっかけで全国的な減刑嘆願署名運動が起こった。新聞は被告たちの法廷での熱のこもった宣伝演説を逐一感情的に報道し、その動機の青年らしい「純粋さ」を強調して世論の軍国熱を煽った。
軍人は軍法会議で民間人は裁判所で裁かれ、橘孝三郎を例外として最長15年の刑(三上卓中尉、古賀清志中尉/元陸軍池波武志/愛郷塾後藤国彦)が言い渡され、特赦で6年後には出所した。ただ一人無期懲役を宣告された橘は8年後の出所となった。首謀者と首相を殺害した軍人が15年で民間人の思想=実践指導者・橘孝三郎が無期なのは戦前の通例通りにしてもいちじるしく平衡を欠いている。

後継首相選びで満州事変の事態拡大を憂慮していた天皇は「ファッショに近いものは絶対に不可」と重臣に希望を述べた。天皇の念頭にあったのは、十月事件で首相に擬せられた荒木貞一陸相(陸軍革新派が推していた)、満州事変で全軍出動を許可した関東軍本庄繁司令官、朝鮮軍を勝手に越境させた林銑十郎司令官等戦線拡大派だったと私は想像する。
仮にファッショを全体主義と言い替えると国粋主義「国本社」トップの平沼騏一郎(陸軍実権派と森恪が推していた)と鈴木喜三郎(政友会総裁:憲政の常道に従うなら最有力の首相候補)の名をあげることができるが、国粋主義はファシズムではない。日本主義の国体はファシズムと絶対に相いれない。ファッショのみならず
〇〇ファシズムのような安易な使い方は厳に慎むべきである。それはすべてを説明するが何も証明できない。
戦後、5.15事件は「軍ファシズム」(後述するように正しい名辞は軍主導全体主義もしくは石原莞爾のいう軍主導国家)の先駆のように論評されて来た。自由、保守、革新、左右の立場を越えて、学会、論壇でそのように今も論じられている。
まず「軍ファシズム」論について・・・。
全体主義・軍主導国家運動の本流、本命は現人神天皇をかつぐ軍部であり、独伊のように民間結社ではないのだから、外来名辞を転用した「軍ファシズム」なる合成語は分かったようで意味が分からないばかりか真相解明に役立たない。軍主導全体主義とすべきだ。天皇を神に祭り上げた日本の極端な軍国主義は全体主義の一つである。
つぎに「先駆論」について・・・。
5.15事件を軍主導全体主義の先駆と言い切ってよいのだろうか? たしかに5.15事件は、事後政党内閣制が終焉を迎え、本来統制されるべき軍部が逆に内閣を統制する本末転倒、軍主導国家が始まる一つのきっかけとなった。しかし軍主導国家は、軍部が天皇の神格化を推進しながら天皇の権威を借りたから、また5.15事件で勢いを増した世論の軍国熱を利用したから、できたことだった。また軍部内部で満蒙支配に積極的な佐官級将校が軍政、軍令の要職を押さえて実権をにぎり軍事の舵取りをしていたことを忘れてはならない。軍官僚が暴力的直接行動に組するわけがない。
軍主導国家は5.15事件当事者が望んだ事態ではなかった。それどころか、かれらの天皇観には神格化の流れを忌避したい願望が刻印されている。またかれらは必ずしも政体の変更(政党内閣制廃止と軍事政権)を望んでいたわけでもない。そのことを次稿で明らかにしたい。本稿では手始めに国体論の動揺(国体明徴運動の原因となった)を明らかにしたい。

国体について今回初めて調べてようやく少し分かった気になった。国体は国柄といえば分かりやすい。お国柄、家柄、人柄と同心円を絞っていくと人体という中心点に達する。郷土、家族、人体はそれぞれ国体論の基本モデルになりうる。

とくに家族=家父長制共同体は儒教思想とあいまって国民に分かりやすく国のかたちの比喩として広く喧伝され深く浸透した。これだけなら天皇は国の家父長でありヒト=人格である。家父長的天皇観をベースに神権的天皇観が優勢になると「天皇の赤子」という表現が普通のこととなった。

郷土をモデルにして国体を論じた思想家を私は知らない。逆に古代中国の国体を模範にして農本自治を国家改造の基本に据え、疲弊し困窮を極める郷土、ひいては国土を楽土にしようと考えた思想家を取り上げたい。その学者権藤成卿は中国
古代の氏族共同体と王朝の理想的帝王像をモデルにして社稷[しゃしょく]国体論を唱道した。根底にある愛郷主義もまた理屈抜きで民衆に受け入れられやすい。橘孝三郎は自営的農業学校を開校するにあたって愛郷塾と命名するほどに権藤の漢学に精通した学殖と社稷国体論に敬服して親交を深めた。
社稷国体論は
5.15事件の各グループが共有した北一輝の国家改造論の弱点を埋める制度設計計画と見ることができる。北一輝の改造論を剣(破壊計画)にたとえるなら権藤の社稷論は鍬(建設計画)であろう。建設は破壊より困難で青年将校たちも自らはイメージをもてず在り合わせの権藤の社稷国体論に飛びついた感じがする。だがそれだけではない。その社会改造策が日本の自然、風土に根をおろした愛郷主義、愛国主義ナショナリズムに裏打ちされていなかったら青年将校に熱狂的に歓迎されることはなかっただろう。
ここでは社稷について簡単に説明するだけにしたい。古代中国では集落ごとに土地神(社)と五穀神(稷)をまつった祭壇=社稷と氏神を祭った小祠があった。王朝も交代ごとにそれぞれ社稷と宗廟を新たにし五穀神と祖神の祭祀をおこなって天命による革命を宣言し権威の正当性を誇示した。かくて社稷は国体と同義語になった。日本にも神社と寺院、大嘗祭と靖国神社があり血気盛んな軍人インテリが受け入れやすい素地があった。来年改元時の国家祭礼行事を社稷の観点から観たい。
易姓革命の中国と皇統万世一系の日本では国体がまったく異なるが、そんな違いはものともせず、青年将校、愛郷塾生、大洗グループは、北一輝の改造政策の構造が国家主義、中央集権であり、精神が西欧的合理主義、文明開化主義、一言でいえばエリートが発する国家資本主義であることを感じとって、権藤が唱道した人民主体の農本自治と君民共治に共感して一つにまとまった。

幕末わが国の国体を概念化した水戸学の大成者・会沢正志斎はその著『新論』で人体モデルの国体論を構築して尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。「それ、四体そなわらざれば、もって人たるべからず、国にして体なきときは、何をもって国たらんや」 人体の各パーツとそのグループがそれぞれ役割パートを担い互いに交通し統一した全体つまりヒトを形づくっている。全情報が頭脳に集中し指令が発せられるが脳も器官の一つであり器官と器官の間に上下関係、権力と隷属、権利と義務の関係があるわけではない。脳を天皇にそのほかの器官を国民に擬すれば、君民一体のユートピア像が出来上がる。素朴な天皇器官説である。
国家を実存する生命体に擬した国家有機体説の意義は大きい。論理的に発展性があり説得力がある。軍人勅諭は天皇を大元帥、頭首とし臣下を股肱とした。明治憲法で天皇は元首と明記された。

人体の頭脳に擬せられた天皇はその発生、誕生を問われる。天皇は人格か神格か?
幕末から明治にかけて列強に対抗する統一国家造りの必要性が神話をモデルにした天孫降臨、天皇神権説を浮上させた。万世一系の現人神信仰である。天皇は現人のまま神にされた。聖書のキリスト降誕物語を想わせるところが創作者たちにとってミソであろう。
明治政府が発布した「大日本帝国憲法」は、日本の低い国際的地位を反映して、列強に学び追い付く立場上、近代的立憲主義に合わせようと苦心して古い価値観による表現を抑えている。字面だけは近代的で西洋に対して対面が保たれた。明治憲法には、神武天皇は例外として神話とか神道の文言がない。それによれば、天皇は神武天皇を皇祖とし万世一系である。天皇は神聖にして侵すべからず。国家を統治する天皇の大権は皇祖皇宗より受け継ぎ、子孫へと伝えていくものである。
天皇が神であれば万世にわたって永久に革命はできない。若き北一輝は、この明治憲法が規定する天皇の神格に異議を唱える内容の『国体論と純正社会主義』(明治末の1906年)を自費出版して即発売禁止をくらった。
天皇が神であるなら過ちを犯さない。しかるに国家を統治する現実の天皇は絶対に過失を犯さないとは言えない。天皇に大権があるなら天皇は神ではない。神話の天孫血族説も万世一系の皇統も嘘っぽい。文字の無かった一千年は歴史が空白[このことは権藤も認めるところ]である。祭政一致は未開社会の遺物である。国史の実態は集団間の生存競争、優勝劣敗の権力闘争である。こんな思いで神権的国体論と家父長的天皇観を「科学的」社会進化論でもって論破したところに北一輝の独創性が光っている。

北の考える国体では天皇は人格を持つ国民の一人になった。国家は天皇と国民で構成されるが、天皇が常に人格者とは限らない。そこで実在する国家に人格をもたせた。国民の統合のためには国家が至高の人格として忠誠の対象とならねばならない。軍部と政府の首脳、民間の国粋主義者が軍人勅諭、教育勅語等で必死になって浸透させている忠君愛国の思想はひっくり返さねばならない。
そうなるためには国家を進化させねばならない。進化の着地点と手段が「純正社会主義」であり、それの教化啓蒙
である。これで北一輝の明治憲法に向けた異議申し立てが憲法改定ではなく憲法の枠内で国家を「進化」させることを目的にしていることがわかる。

次にユートピア思想と実政治の峻別を考察する。
国体論はユートピア思想もしくは崇高な夢を核心とする。また革命には平和革命であれ暴力革命であれユートピアもしくは信仰が不可欠である。私も学生時代革命志向と安保反対、打倒日米帝国主義の旗幟だけで活動していたわけではない。初期マルクスが描いた社会主義のユートピア(労働が生計の手段から自由で創造的な芸術活動になる牧歌的な夢)に元気をもらっていた。
北が描くユートピアでは、天皇は国民の天皇であり、天皇と国民は国家へ自らを同化し、国家のために働くことが生きがいになり自己と国家の活力を増幅させる。人類である天皇と国民はみずから自己を改造して人格を進化させてついに「神類」になる。逆説的だが、これはユートピアであってユートピアではない。戦後毛沢東国家が出現し世界を驚かせた。私はそれを好意的にみていたが「6億の蟻」(全体主義国家)と評する見方も有力であり根拠があった。
蟻は社会を作るまでに進化した種もあるから北の社会有機体説は蟻社会モデルと皮肉ることも可能だ。中南米にいる葉切蟻の社会では女王、兵、労働の役割があり立体工場で集団労働で集めた木の葉からキノコを栽培している。横つながりで情報を共有し役割に応じた共同行為を営むが縦の階級はない。
現実のヒトはユートピアないし信仰なしでは生きられないところが蟻とは類的に異なる。信仰ありき、である。聖書では、最初にコトバありき、コトバは神だった、とある。だから神話をふくめて「どこにもない」クニの像、社会像を描くことを、全体主義思想の先駆、全体主義運動の酵母として否定することは人類史に目をつぶることである。
ナチズム、スターリニズム、文化大革命、ポルポト政権による都市・貨幣廃滅と百数十万人虐殺(カンボジア)の教訓は、特定のユートピア思想を実現可能なものとして極端化して、その実現を政治課題として政策化し実行してはならない、ということである。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教は今日に至るまで無数の虐殺を行ってきた。それでもこの4大宗教を排斥することは愚かである。非難すべきはその信仰にあらず、そこから派生した極端主義(原理主義を自称する)である。

現実の政治過程と国体論に戻ろう。明治憲法はゴムひものように伸び縮みし民本主義と国粋主義による二様の相反する解釈を招いた。大正デモクラシーに対抗して神話を絶対視した神権的国体論と家父長的天皇観が浸透してゆく。天皇も軍高官も常識として認めていた天皇機関説にその矛先が向けられてゆく。国体明徴運動のはじまりである。ついには全体主義国家になる日本もドイツ同様、憲法改定運動は起こらず、解釈の大転換で立憲主義が葬られたことは示唆的である。

5.15事件は「血盟団」事件(日召の国体観+藤井斉の暴力的直接行動論に基づく合作事件)を仕上げた海軍青年将校のいわば出遅れ事件だった。駒不足の海軍青年将校が直前になって陸軍士官学校グループを引き入れたことにより事件は、日召事件完結の意義を越えて、陸軍の2.26事件とつながった。これをもって先駆けと言うのは空疎な論である。士官候補生の思想と行動の独自性が消えてしまい国家改造計画の歴史が単純化され平面的になってしまう。
藤井大尉の遺志を継ぐ陸軍青年将校・菅原三郎中尉が北一輝の国体論と天皇観、権藤成卿の農本自治・君民共治論でもってオルグして士官学校グループをつくった。村中、大蔵、安藤、相澤各中尉も士官候補生と接触があり合同懇談会で同席している。菅原中尉と彼らはみな後継事件にかかわり事件記録に名を残すことになる。
次稿で士官学校グループの国体観、天皇観を検討する。北一輝の思想の何が受け入れられ何がスルーされたかも考えたい。また権藤の思想がどのグループにも感動感銘をもって迎えられた様子を伝えたい。




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