青い花

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タタール人の砂漠

2020-08-03 08:47:57 | 日記
ブッツァーティ著『タタール人の砂漠』

『タタール人の砂漠』は、北に異国との国境線がある辺境の砦を舞台に、希望に引きずられ人生を空費する男の姿を描いている。

訳者の解説によると、ブッツァーティは、1906年に北イタリアのヴェネト州の小都市ベッルーノに生まれ、幼少期をその地で過ごしている。
このベッルーノという町は、北側に鋸状の尾根が連なるドロミテ・アルプスが聳え、山並みの向こうはオーストラリアとの国境である。

人生の出発点と思われたその砦は、実は終着点であった――――この苦くて重い人生の物語の舞台として、ブッツァーティが物心ついた時から親しんできた故郷を彷彿とさせる架空の地を設定したことに、何らかの意味を見出してみたくなる。

“北の砂漠からは彼らの運命が、冒険が、誰にでも一度は訪れる奇跡の時がやって来るに違いない。時が経つとともに次第にあやしくなっていくこうした漠とした期待のために、大の男たちがこの砦で人生の盛りをむなしく費やしているのだった。
彼らは普通の生活、当たり前の人たちの喜び、凡庸な運命にはなじまないのだった。彼らは身を寄せ合うようにして、おなじ希望を抱いて暮らしているのだった。そして、そのことを決して口に出さなかったが、それは彼らがそれに気づいていないか、おのれの心を用心深く包み隠す軍人としての性からだった。“

主人公がなかなか目的地に辿り着けない不穏な冒頭から始まり、期待と失望の反復の中で人生を浪費していく砦の人々の描写の連続に、じわじわと心を蝕まれていく物語だった。
虚無と絶望の書と見る向きも多いようだが、必ずしもそればかりでもない。
と言うのも、この物語は、主人公の笑顔で終わる。
冒頭の人生の門出で無理に作った青年の微笑と、結末の長い無為の時を経た老人の笑顔は、全く別の種類のものだ。
決して幸福な笑顔ではない。ただの錯誤でしかないかもしれない。それでも、あの結末が有るのと無いのとでは、物語や主人公の印象が全く異なる。最後の笑顔からは、何も残せなかった人生を、それでも自棄にならずに生き切った者の持つ勇気と矜持を感じたのだ。

読む人の年齢によって感想の変わる作品だと思う。
若い人は、儚い希望に縋って転機を見極めることの出来なかった男の悲劇から教訓を得るところが多いのではないか。
すでに中年期に入っている私には、人生のテンカウントを聞いた後でも、胸を張り、軍服の襟元を整え、笑顔で臨終の瞬間に臨んだ男の姿がひどく心に沁みたのだった。

士官学校を卒業したばかりのドローゴ中尉は、九月のある朝、最初の任地バスティアーニ砦に赴く。
バスティアーニ砦は、北の辺境に位置する。国境を守護する任務は責任重大であり、それ故出世の足掛かりになるに違いない。まだ21歳、この地をはじめの一歩として、本当の人生が始まるのだ。

しかし、ドローゴは砦に赴く山道で徐々に不安に駆られるようになる。
なぜなら、道で行き会った人々が誰も砦のことを知らないのだ。国境の砦の守護は重要な任務ではなかったのか?

谷の橋でドローゴが初めて出会った砦の軍人、オルティス大尉。
年の頃は40がらみの引き締まった気品のある顔つきをしたこの人物が、ドローゴに大きな影響を及ぼすことになる。
二人は馬を並べて砦に向かう。
その間のオルティス大尉とのやり取りで、ドローゴは彼の期待とは大きく異なり、バスティアーニ砦が実は出世コースから外れた左遷地であることを知る。オルティス大尉によると、バスティアーニ砦は、無用の国境線上にある第二級の砦なのだ。

何ら気にする必要もない国境線。前には石ころだらけの乾いた荒野が広がっているだけ。
《タタール人の砂漠》と呼ばれるその荒野の向こうには、大昔には勇猛な騎馬民族タタール人がいたらしい。でも、ただの伝説だ。砂漠の向こうに渡った者など誰もいやしない。砦はこれまで一度も役に立ったことはないのだ。

オルティス大尉は、そんな無用の地に赴任して、すでに18年になるという。
慣れるものだよ。国境守備隊であることには違いないし、何でも第一級の物が揃っている。料理は飛び切り上等だ。……そう嘯くオルティス大尉が愚鈍なのか、言葉の裏に何かを隠しているのか、ドローゴにはよく分からなかった。彼に分かったのは、一刻も早くこの地を去るべきということだけだ。
しかし、砦に着いてすぐ、第一副官のマッティ少佐のもとに出頭したドローゴは、経歴に傷をつけることなく転任するには、4ヵ月待たねばならないことを知る。

ドローゴは、ブロズドチモ兵曹長の仕立て部屋を訪れた時に、助手の老人から内緒話のように以下のことを告げられる。
ブロズドチモは砦に来てすでに15年になる。そして、いつも同じ言葉を繰り返し話している。ここにいるのは臨時のことだ、いずれ近いうちには……と。

“「でも、決してここから出ていくことはありますまい」と老人は言った。「あの男も、司令官の大佐殿も、そのほかの大勢の連中も、死ぬまでここに残るでしょう、一種の病気みたいなもんですな。あなたもお気を付けになった方がいいですよ、中尉どの、あなたは新しく赴任して来なさったばかりですから、まだ間に合ううちにお気を付けになることですな……」”

それに対して、ドローゴは、ここには4ヵ月いるだけで、残るつもりなどないと答える。が、老人は、それでも気を付けなくてはと繰り返すのだった。

老人によると、口火を切ったのはフィリモーレ大佐なのだそうだ。
フィリモーレ大佐が、「重大事件が起きる」と、言い出してもう18年になる。この砦はごく重要なのだ、ほかのどの砦よりも。それなのに町の連中は全く分かっていない。
フィリモーレ大佐の言う《事件》とは、戦さのことらしい。砂漠からタタール人が攻めてくると、昔の軍隊の残兵どもがあちこちに出没していると、地図を調べながら言うのだ。

フィリモーレ大佐だけではない。
スティツィオーネ大尉も、オルティス大尉も、何かが起きると毎年言っている。きっと退官の日まで言い続けるのだろう。ブロズドチモもただの兵曹長で、連隊付きの仕立て屋に過ぎないのに、上官たちと一緒になってその気でいる。

ドローゴは惨めな話だと思う。4ヵ月後には出ていく自分には関係のない話だ。
しかし、老人は嘆願するような口調でこう締めくくった。

“「お願いですから、お気をつけくださいよ、あなたは暗示にかかりやすそうですから、ここに居座ってしまいそうな気がしてなりません、あなたの目を見れば分かります」”

ドローゴの勤務が始まる。
同じ顔ぶれ、同じ訓練、同じ書類……砦の生活に特別なことは何も起こらない。銃声が響いたのも、規則を犯して砦の外に出た新人兵士が、合言葉を知らなかったために城門で射殺された事件の一度きりだ。
それでも、城壁の向こうの目には見えぬ北方からは、自分の運命が迫って来つつあると、ドローゴは感じる。
己の姿が、20も年上のオルティス大尉の姿に重なりつつあることに気づかずに。

“結局こうなることになっていたのだ、おそらくはずっと前から、ドローゴが、オルティスといっしょに、初めて台地の端に立ち、真昼の重苦しい陽光のもとで、砦を目にしたときから、すでにこうなることに決まっていたのだ。”

4ヵ月後の面談で、ドローゴは自ら転任依願を取り下げた。
この4ヵ月は無駄に過ぎたのではない、未来に繋がる意味のある時間だったはずだという、負けの込んだ博打打ちのような認識と、自分の人生にはまだ沢山の時間があるという若さゆえの油断から、彼はタタール人の襲来という古参の将校たちの根拠もない希望に乗っかってしまったのだ。
希望だけではない。
もうドローゴの中には習慣のもたらす麻痺が、軍人としての虚栄が、日々身近に存在する城壁や仲間たちに対する愛着が根を下ろしていたのだ。単調な軍務の繰り返しに慣れてしまうには、4ヵ月もあれば充分だった。

ドローゴは休暇中に地元に帰省するが、既に生まれ育った町に馴染めなくなっていた。
恋人への愛情は冷め、家族や旧友にはよそよそしさを感じ、はやく砦に帰りたいと思う。もはや彼の人生は砦と分かち難くなっていた。

助手の老人の懸念通り、その後のドローゴは、辺境の砦で30年余を過ごすことになる。
単調で退屈な日々の積み重ねに過ぎない暮らしの中、ドローゴをはじめ、フィリモーレ大佐も、オルティス大尉も、そのほかの将校たちも、いつか運命的な出来事が起きるはずだという期待に縋りながら、ひたすら待ち続ける。
彼らのそうした漠然とした、それでいて熱狂を孕んだ期待から生み出されたのが、北の砂漠から伝説のタタール人が襲来するという幻想なのだ。
彼らは幻想に望みを賭ける一方で、結局は何も起こらないまま終わってしまうのではないかという不安と焦燥に苛まされながら、今か今かと北の砂漠を伺い続け、砦を去ることができない。

“結局のところ、ただの戦闘でもいいのだった、ただ一度でいい、本当の戦闘であればいいのだった、軍服に身を飾り、謎めいた顔をした敵兵に向かって突進しながらも、不敵な笑みを浮かべることができればいい。ただ一度の戦闘を、そうすれば、おそらく、あとは一生満足することだろう。”

こういった心境は、なにも孤立した辺境の砦に勤務する軍人に限らないだろう。
多くの人にとって、人生とは閉塞的で単調な日々の積み重ねに過ぎない。そして、そうした日々に耐えるために、自分の人生にも何か劇的な瞬間が訪れるのではないかという期待を抱き、それが虚しいものに過ぎないかもしれないと恐れながらも、潔く捨てることができない。その間にも時は飛ぶように流れて行く。

『タタール人の砂漠』の中で、北の砂漠の向こうに何者かの姿が見える場面が三度出てくる。
一度目と二度目は期待外れに終わった。
三度目は本当だった。
北の砂漠から敵の軍勢が攻め寄せてきたのだ。30年もの時を経てようやく幻想は現実になった。
しかし、その時にはもう、ドローゴは年老い、病に冒されていた。彼は、戦闘に参加することどころか、砦に留まることすら許されなかった。彼が出ていけば、彼の部屋に援軍の将校たちのベッドを置くことが出来るのだ。彼は全人生を賭けて待ち続けた運命の時に立ち会うことも出来ない。
ドローゴが期待と焦燥の宙吊りという苦しみから解き放たれる術は、もはや死しか残っていなかった。

『タタール人の砂漠』の砦は、人生という器そのものであり、タタール人の襲来という幻想は、人々がその中で抱く期待や不安の象徴なのだ。
ドローゴの人生には、多くの凡庸な人々の人生に通じる寓意性と普遍性が込められている。
何度もやり直すチャンスがあり、それを促す人もいたのに、逆転の瞬間を求めて砦に籠り、待ち続けているうちに虚しく潰えてしまったドローゴの人生には、多くの人の人生と重なる部分があるだろう。

25章で、ドローゴは谷の橋で、モーロという新任の中尉と出会う。
その時、ドローゴの心には、初めて砦への道を辿った遠い日、谷のちょうど同じところでオルティス大尉と出会ったことや、ふたりの気まずいやり取りなどが蘇った。

“あの日とそっくりおなじだ、と彼は考えた。ただ違うのは、立場が入れ変わっていることだ、今では何度目かバスティアーニ砦への道をのぼって行く古参の大尉はほかならぬ彼、ドローゴであり、一方、新任の中尉は、モーロとかいう見知らぬ青年なのだ。その瞬間にドローゴは世代がすっかり変わってしまったことに気づいた、今では彼は人生の峠を越えてしまい、あの遠い日に彼にはオルティスがそう見えたように、自分はもう年寄りの部類の入るのだ。”

自分が老いてしまったと自覚してからの歳月の流れはなんと早いことか。

『タタール人の砂漠』のどの場面が刺さるのかは、読者の年代によって異なると思う。
私がどうしようもなく胸を抉られたのは、ブロズドチモが北の国境線に見つけた黒い集団が、タタール人でもなければ、その他の敵軍でもなく、無害な測量部隊に過ぎなかった場面ではない。待ち焦がれた敵軍の襲来を前に、病み衰えたドローゴが従卒に支えられながら砦を後にする場面でもない。このモーロとの出会いの場面だった。
この場面を読んだ後で、ドローゴとオルティス大尉との出会いの場面を読み返すと、当時のオルティス大尉の心中と、現在モーロの目にドローゴがどのように映っているかの両方が分かってしまって苦しい。

人ひとりの人生における時間の流れの速度は一定ではない。年を取るのに伴い〈月日の遁走〉は、加速度的に早まって行く。
若い頃は密度が濃く、流れが遅かった時間も、年齢とともに内容が薄まって行き、翼が生えたように過ぎ去ってしまう。

この〈月日の遁走〉の感覚は、作品の構成でも表現されている。
『タタール人の砂漠』全30章のうち、1章から4章までは砦への道中から到着という僅か2日間の描写に費やされている。続く5章から10章は砦での2ヶ月間。11章から15章までがその後の2年間。16章から24章がその後の4年間。
そして、25章から30章の間に、ドローゴの最期までの歳月が、まさに〈光陰矢の如し〉の速度で流れていく。この時間の流れが坂を転がるように加速していく様には、読んでいてゾッとさせられた。

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2 コメント

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Unknown (hayane-hayaoki)
2020-08-03 09:34:17
一冊の物語読んだような充足感です。
年長者が若者を見るとき、そこに昔の自身を見ているので、懐かしくも苦々しく時に愚かに思うのでしょうかね。
Unknown (mahomiki)
2020-08-03 09:47:57
hayane-hayaokiさおぺんさん

この小説は、構成と人物の配置が巧みで、
そこそこの長編なのに中弛みを感じさせない傑作でした。
一人の人物の視点のみで描かれているのに、小説内の世界に奥行きを感じられたのですよね。

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