青い花

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ヤン川の舟唄

2019-05-23 08:02:31 | 日記
ダンセイニ卿著『ヤン川の舟唄』には、ボルヘスによる序文と、「潮が満ち引きする場所で」「剣と偶像」「カルカッソーネ」「ヤン川の舟唄」「野原」「乞食の群れ」「不幸交換会」「旅籠の一夜」の8編が収録されている。

本書は、ボルヘス編集の“バベルの図書館” (全30巻)の26巻目にあたる。私にとっては15冊目の“バベルの図書館”の作品である。

“文学は、宇宙開闢説と神話とをもって始まるといわれている。エドワード・ジョン・モートン・ドラックス・プランケット、通称ダンセイニ卿は、その両方のジャンルを、『ぺガナの神々』(一九〇五)および『時と神々』(一九〇六)において巧みに試みた。(略)ブレイクの宇宙開闢説は、スウェデンボリに由来し、のちにニーチェが敷衍することになる、倫理学のある全面的な改革に照応するのに対して、ダンセイニのそれは、自由で嬉々とした想像力の戯れなのである。同じことは彼の膨大な著作全体を構成する他のテクストについても言える。”

ダンセイニ卿は1978年、ダブリンの北方、ミーズ州の伯爵領に生まれた。
幼くして18代城主となったダンセイニ卿は、居城から毎日のように夕映えの山々や野原を眺め、その先にある〈夢の国〉を夢想した。ダンセイニ卿の作品のあらゆる所に、彼が夢みたエルフランドの気配がする。そこは、人間の野原のすぐ隣に境界を接していながら、人間は決して行き着くことが出来ない。黄昏の薄明かりに包まれたその場所には、変化するものは何一つない。〈時〉は動かず、永遠の充足に包まれている。
1921年、ダンセイニ卿は表明した。「私は肉眼で見たものについて書くことは決してない。夢みたことについてだけ書く。」


「潮が満ち引きする場所で」は、亡骸の見る幾世紀にわたる夢。

ロンドンの住人だった私は、何か恐ろしい罪を犯したことにより、マントを纏った友人たちから古代の儀式に則って殺害され、河口近くの泥濘に亡骸を遺棄された。
私の亡骸は正式な埋葬が許されず、それ故魂は如何なる地獄にも辿り着けず、幾世紀もの間、忘れ去られた物、役に立たない物などと共に泥土に留まり続けることになった。
私は死者の目で見棄てられた物たちを見た。

“長い年月の間ずっと、廃屋の群れだって哭きたかったのだ、が、死んでいるので、じっと沈黙しているのだ、ということを。またもし、見棄てられた漂流物がすすり泣けるものなら、それは彼らにとってもよいことだろうと気がついた。しかしそれらの物たちには泣こうにも眼もなく、生命も持っていなかった。私はまた、すすり泣こうとしてみた。が、私の死んだ眼からは一滴の涙も出なかった。”

私は見棄てられた物たちとともに冷たい泥濘に横たわっていた。
川は私たちに優しくしてくれない。抱きしめてくれない。唄ってくれない。埋葬してくれない。川は豪華な船に懸想しながら海へ流れていくだけだ。

とうとう海の潮が、川がしてくれなかったことをしてくれた。
潮は満ちてきて、私を覆ってくれた。碧い水の安らぎに包まれて、私はついに埋葬が叶ったと思った。しかし、潮が引くと海は私を残して去ってしまった。そんなことが何年も続いた。骨になった私の亡骸は、潮の満ち引きの度に泥土で覆われたり晒されたりした。
やがて役所の人間が私を見つけ、埋葬してくれた。ところが、埋葬の夜に、友人たちが私の墓を掘り起こし、またあの河口の泥土に戻してしまった。
それから何年もの間、私の骨は何度も発見され、埋葬されては、友人たちに掘り起こされ、河口に戻された。それが、友人たちの伝統となり儀式となっていた。友人たちが死ぬと、彼らの子孫が儀式を受け継いだ。
こうして、潮の満ち引きの上に、忘れられた物たちの孤独の上に、幾世紀かが過ぎた。
ロンドン最後の人間が、かつて友人たちが来ていたマントに身を包み、堤防の上から私がまだそこにいるのを確かめた。それが、私が最後に見た人間の姿だった。

私は幾世紀にもわたる夢から、小鳥の囀りによって解放される。
が、私は本当に悪夢から目覚めたのだろうか。自宅のベッドの上で私が流した涙は現実の物だったのか。それもまた、亡骸の見た夢だったのか。潮の満ち引きの下で見る幾世紀の夢は、冷たくて、寂しくて、それ以上に静謐な詩情を湛えていた。


「カルカッソーネ」は、永遠にたどり着けないエルフランドの伝説。

アーンを治める若きカモラック王は、戦勝の祝宴で占い師から、「陛下はカルカッソーネへ行くつくことは決してありませぬ」と告げられる。

竪琴弾きのアレルオンが、カルカッソーネの伝説を唄う。
カルカッソーネこそが、伝説のエルフランドなのだ。そこは、妖精王が多くの妖精たちを従えて、人間たちから隠れ住もうとやって来た土地だった。重なり合って築かれた塁壁が眩しく煌き、その後方には大理石のテラスがあって、噴水がしぶきをあげている。
八千年前からこの地に住む魔女は、海から教わった世界で二番目に古い歌を歌い、その眼からは寂しさゆえの涙を流す。彼女は川から水を引いた大理石の風呂で泳ぎ、風呂の底に逆巻く水を眺め、風呂に血の色が見えると、山々で戦のあったことを知る。彼女が歌う時、泉水は暗い地中から湧き踊り、彼女が悲しい時、海も悲しみに沈む。
しかし、それらはすべて、伝説の中の光景だ。
ときおり、旅人たちがカルカッソーネを垣間見ることがあるが、それは白昼夢の様に頼りなく、忽ち霧に覆われてしまう。近づくことは出来ない。

カモラック王と彼の戦士たちは、一人残らず立ち上がり、アーンの神々に必ずカルカッソーネに行きつくことを誓った。彼等には、戦勝記念品など、どれも詰まらぬものに思われた。夢みるものや、必ずやり遂げようと決めた野望に比べれば、それらには何の価値も無かった。

“われらは運命と戦おうとしている。余がカルカッソーネには行けぬだろうと予言した運命とだ。もしわれわれが運命の予言の一つでもくつがえせたなら、世界の未来のすべては、われわれのものとなろう。”

一行は、アレルオンの竪琴に導かれながら行軍する。
旅は苦難に満ちていたが、彼等は勇ましかった。これまでの戦いで、アレルオンの霊感は常に彼らを勝利に導いてきたのだ。何より彼等は若かった。運命に隷属する気など無かった。

しかし、長い旅路の中でアレルオンは疲弊し、彼の霊感は衰えていく。
カモラック王の戦士たちは一人また一人と斃れて行き、最後には、カモラック王とアレルオンの二人だけが残った。人が若い間は、《時》は弱弱しく小さな敵に過ぎない。しかし、彼等は既に老いていた。

“歳月は、われらのそばを巨大な鳥のように飛び去ってゆく。運命と神の掟におどろき脅え、古えの灰色の沼地から飛び立った巨大な鳥のようにな。それらに抗って、いかなる戦士も勝てはせぬ。運命がついにわれらに打ち勝ったのじゃ。”

二人は森の中に消えた。
そうして、彼らはカルカッソーネ伝説の一部となった。それは一見すると悲劇のようでもある。しかし、彼らが空費したように見える歳月はまた、見果てぬ夢、究極の冒険に身を委ねる熱狂と陶酔の時間でもあったのだ。


「ヤン川の舟唄」も、〈夢の国〉への旅物語だが、こちらは冒険譚というより、揺り籠に眠る赤子の様に川の流れに任せた船旅だ。起承転結らしきものはない。全編がダンセイニ卿の夢のエッセンスで紡がれたような、優しく美しい詩情溢れる物語だった。

アイルランド人の私は、予言の通り現れた〈川鳥号〉に乗り、ヤン川を下る。バー・ウル・ヤン、即ち、ヤンの関門と呼ばれる海辺の岸壁までの船旅である。
水夫たちはそれぞれ異なる神に向かって祈りを捧げるが、お互い同士異教の神を謗ることはない。彼らが愛するのは慈悲深き脆き神々だ。彼らの祈りはランタンの間から立ち上り、星空へと広がる。艫にいる舵手が、ヤン川に祈りを捧げる。船長は、彼の小さき神々、麗しのベルズーンドを祝福したもう神々に祈りを捧げる。

水夫たちが寝静まると舵手が舟唄を唄う。
静寂と波の音との間に弱弱しく響くその唄は、彼の故郷の唄だ。彼は雄大な異国の川ヤンに、故郷ダールの町のささやかな物語を聞かせているのだ。

途中、私はマンダルーン、アスタハン、ペリドンダリス等、美しい名の都市に上陸する。
家々の壁面には、ドラゴン、グリフィン、ヒポグリフィン、ガーゴイルといった地球上から既にいなくなった面妖な動物たちが刻まれている。
大理石の舗石。銀の寺院。縞瑪瑙の宮殿。象牙の巨大な門。絹の衣を纏った人々。すべてが古雅で、新しいものは一つもない。私は人々から神託のような言葉を受ける。それらは、ダンセイニ卿の宇宙を構成する鍵のような言葉であった。

“問いを発してはならぬ。町の人々の眠りを醒ますといけないからだ。なぜなら、この町の人々が目醒めるとき、神々が死ぬ。そして神々が死ねば、人間はもう決して夢を見ることができないのだ”

“ここでわれらは〈時〉に手枷を嵌め、足枷をかけているのだ。さもなければ、〈時〉が神々を殺すだろうから”


ダンセイニ卿の物語は、すべて夢みる人の物語だ。
何も問うてはいけない。私たちはただ、聖なる壺の酒を飲み、波の音と舵手の唄う舟唄に包まれながら、醒めない夢を見ていれば良いのだ。
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