はさみの世界・出張版

三国志(蜀漢中心)の創作小説のブログです。
牧知花&はさみのなかま名義の作品、たっぷりあります(^^♪

生まれ出(いず)る心に 8

2018年07月18日 09時26分06秒 | 生まれ出る心に
偉度は動く彫像のように、のったりとした人々の動きを横目にみながら、しばらく広場や、あちこちの路地を徘徊した。
そうして、まさに唐突に気づいた。
いまは、お勤めをしているので気負っているからだろうか、最初に、この場所に足を踏み入れたときにおぼえた恐ろしさが、いまはない。
荊州にて分かれた兄弟たちの姿を、ここで見つけてしまうことの恐ろしさ。

恐ろしさ、か。

ふと、己の不甲斐なさがおかしくなって、偉度は思わず、自嘲の笑みをこぼす。そうして、天空にあり、黒い群雲のなかに見える、にじんだ月を見上げた。
あのひとならば、こんなことは思うまい。
たとえ見つけてしまったとしても、ひとたび己の手から漏れた水ならば、乾ききってしまわぬうちに、また掬ってみせようと、嘆くことすらせずに、全身全霊を傾けるであろう。
覆水盆に還らず、なんて言葉は通用しないくらい、しつこいというか、ねばり強いのだから。

不意に体じゅうが、ふわりと羽根のように軽くなった心地がして、ああ、わたしは本当に救われていたのだな、と偉度はあらためて思う。
ついさっきまで、自分の過去、その意味を忘れるほどに、黄淵をおびき寄せることに集中していた。
なんの疑問も思うことなく、闇への嫌悪も忘れて。
ほんとうにさっきまでは、黄淵の歪んだ欲望のために、幸福を摘み取られ、人生を狂わされた女たちのために、ただそれだけのために純粋に動いていた。
動くおのれを疑問に思うことすらしていなかった。

もしも十年前の自分がここにいて、いまの姿を見たら嘲笑したことであろう。
そんなことをしてやったって、だれに感謝されるわけじゃなし、こんな命令はだれからも受けちゃいない。
相手は黄家という、成都の豪族のなかでも名門なのだ。面倒をどうして自分から呼び込む真似をするのだ?
偉度は過去のおのれに言い聞かせる。
だから言っただろう、単なる縄張り争いなのだ。
光にねじ込もうとする歪んだ闇を、叩き潰す。それだけのこと。そのために、自分は生かされているのさ。
昔のおまえは、意味も判らず、命じられるまま、人を殺めていた。莫迦な連中の便利な掃除屋がおまえだった。
いまは、意味のある殺しをしているのさ。莫迦よりは、ちょっとマシな程度の連中のための、掃除屋。
そう、立場自体は、変わりはしないのだ。

どこかの店から、気だるげな筝の音が流れてくる。
たしか、これは最近、流行っていた歌だったな。あのひとが、気づいていたかはしらないけれど、口ずさんでいたっけ。どこで覚えたのやら。
偉度は笑いながらも、筝に触発されるようにして、一緒になって唄を口ずさみはじめた。
それは、男の訪問が、ぱたりとなくなったことを嘆く、娘の唄である。
このまま見捨てられるくらいならば、死んだほうがいい、こちらはすっかり婚儀を挙げるつもりでいたのに、兄弟からも身持ちが悪いように思われて、このままどうして生けていけ、というのか…詩経にあった詩を、さらに今風に変えたものである。

ぺたり、ぺたりと石畳を蹴る、自分の足音が響く。
たまに蹲る闇のなかに人影があるのを偉度は見たが、それはどこかの店から放り出された酔客か、あるいは客を取ることが出来ずに、あたりをふわふわと流れている流しの娼妓たちであった。
かれらの人生は、堰の止められた腐った水面に、集って浮かぶ木の葉のようだと思う。
好むとこの好まざるとにかかわらず、そこに流されて、もはやどこに移動することもできず、あとは腐り沈むように死を待つばかり。
彼らが好んでここにいる、というわけではないことは、判っている。
それでも、軽蔑を拭うことができないのは、真剣に人生と向き合って生きた結果の、この末路ではないからだ。
彼らは戦うべきときに戦わずに、逃げ出した。
そのツケを払わされているのであるが、ツケすら、真剣に払おうとしないので、複雑怪奇な運命というものは、利子をどんどん膨らませ、彼らに返済を迫っているのである。
守れなければ…いわずもがな。
大きな悲しみがない代わりに、大きな喜びのない人生が終わる。

彼らの中にあって、闇の中で、もぞもぞと、いつまでも天空にあって、自分について回る月のように、動いている影がある。
偉度がさっきから、巻こう、巻こうとしている、赤頭巾であろう。
おかしな殿様だ、と偉度は思う。
巴蜀の人口だけで約六百万人あまり。
そのなかの、ごくごく一部の悲鳴を聞いて、助けてやって、仁君のフリをしたいのだろうか。
まあ、でも、人を忠誠の美名の元に、むりやりに従わせた、同族のだれかさんよりは、ずっとマシか。
おそらく、偉度があまりに動き回るので、身を隠してついてくのが、やっとにちがいない。
偉度としては、自分の動きについてこられる、というだけで、あの殿さま、やっぱり若い頃から、ぶいぶい言わせてきたのは、伊達じゃないな、と感心するところであるが、齢五十を超えた劉備には、この暗夜行はきつかろう。
ぶつくさ言っているのだろうな、と、その姿を想像しただけでおかしくなり、思わず偉度が声をたてて笑っていると、背後より、声がかかった。
「ご機嫌だね、姐さん」
この界隈には似つかわしくないほど、明瞭で、品のよい発音の、若い男の声であった。
偉度は、ぴたりと足を止める。

こいつ、いま、足音を消して、寄って来た。

声を発さずにすこしだけ顔を振り向かせると、夜闇に、男の輪郭だけが見えた。
すぐそばの家から漏れる明かりのために、男の顔は、逆光になってしまい、見ることが叶わない。
男は、最初は、蕭然とそこに立っていた。
が、偉度の横顔をはっきりと確認するやいなや、男は利き腕をすばやく動かすと、その拳でもって、がつんと偉度を殴りつけてきた。
目に火花が散る、とは、このことであろう。
闇夜に熔けた月と、人家の明かりがぐらりと視界を回っていく。
偉度は地面に叩きつけられ、そのまま倒れた。
男の、足音を殺した気配が近づいてくるのが判った。

つづく……


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