韓流時代小説 後宮秘帖
~逃げた花嫁と王の執着愛~
第三話 Temptation(誘惑)・前編
~こんな私があなたの側にいても良いのですか~
-それは「ひとめ惚れ」から始まった初恋だった-
二人が出会ったのは11歳。
王になるべくして生まれた少年と、謀略によってすべてを失い、苛酷な宿命を背負った少女。
孤独な魂を持つ二人は運命に導かれるようにして、出会った。
様々な試練や障害を前にしながら、互いを想い合うがゆえに、すれ違い傷つき合う若い二人。
果たして、二人は幼い日に芽生えた初恋を実らせることができるのか?
登場人物
イ・ソン(李誠)-後の国王・知宗
シン・チェスン(申彩順)-後の貞順王后(チョンスンワンフ)
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うつらうつらしていた崔尚宮はハッと、浅い眠りから引き戻された。不覚にも、淑媛の看病をしていて、居眠りをしてしまったようである。
淑媛―チェスンは深い眠りに落ちているようで、倒れてからいまだ意識は回復していない。無理もない、半月ほど前に一度、倒れてやっと癒えたばかりの身体だったのだ。なのに、チェスンは崔尚宮が止めるのもきかず、席藁罪待をこの寒さの中、行った。
つくづく数奇な宿命を背負った方だと思わずにはいられない。男として生まれながら、性別を偽り、女として生きてこなければならなかった。その背後に、どのような事情があるのかは知らない。崔尚宮はチェスンの父がかつて礼曹正郎を務めていたソン・ソンジュンであると知らなかった。
チェスンが男であるという以外、その氏素性も何も他には知らなかったのである。それでも、チェスンは健気に運命を受け止めて、前向きに生きようとしていた。王を愛し、またチェスンも王に深く愛され、崔尚宮は何度も悔やんだものだ。
何故、天はこのように美しい淑媛さまを女ではなく男として、この世に誕生させてしまったのか。
チェスンが女であれば、何の問題もなかった。チェスンがここまで王の側にいることについて罪深さを感じ、思い惑う必要はなく、二人は天に祝福された恋人同士となれただろう。
崔尚宮から見れば、チェスンの性別は些細なこと―とまでは言えないが、あまり重要ではないように思われた。秘密を知る者は限られており、何より国王自身がチェスンを強く望んでいるのだ。世継ぎを産める妃より、男であってもチェスン一人を側に置きたいと王が望むなら、さほど問題はないのではと考える。
けれども、当のチェスン自身の懊悩は深い。チェスンは若い王を心から愛している。愛しているがゆえに、大切に思い、王のために自分は身を引こうと決めた。その悲愴な想いも、崔尚宮は理解できた。
王の寵愛にいささかも奢ることなく、控えめなチェスンの人柄を慕う女官は多い。短い間で、チェスンは間違いなく後宮の女官たちの心と共感を得ることに成功した。もちろん、崔尚宮もその一人だ。おこがましい言い方だが、チェスンの秘密を知る数少ない者としてだけでなく、お付きの筆頭尚宮として側近く仕える中に、次第にチェスンに母のような想いで接するようになった。
またチェスンの方も崔尚宮を心から信頼し、母のように慕ってくれるのを感じていた。
崔尚宮は後宮生活も長く、たくさんの王の女たちを見てきた。しかし、その中の誰一人として、チェスンほど中殿にふさわしい人物はいなかった。
王妃としての徳目をすべて備え、また王にも深く愛された人が女ではなく、男であったというのは運命の皮肉としか言いようがない。
チェスンが入る前、この殿舎に暮らしていた妃は、先代の側室の一人であった。崔尚宮とほぼ同じ時期に女官見習いとして入宮し、年も同じであった。特に仲が良いというわけではなかったけれど、後宮内ですれ違えば笑顔で挨拶を交わす程度の仲ではあった。
チェスンとは対照的な性格で、自分の思うがままに生きた女性だ。大胆にも後宮から抜け出し、惚れた男の妻となり女の幸せを得た。
一度でも王のお手が付いて側室となれば、生涯自由の身にはなれない。だからこそ、彼女は自らの意思で後宮を脱走したのだ。大人しい崔尚宮には到底、考えられもしない人生の選択でも、結果、彼女は女としての幸せを手に入れた。
あのまま後宮にいれば、彼女は籠の鳥として飼い殺しにされ、あたら女の盛りを後宮で無為に過ごすしかなかった。
チェスンは相変わらず懇々と眠り続けている。熱が高いのか、額に汗が浮かび乱れた髪が張り付いている。崔尚宮は盥の水で冷たく冷やした手拭いを絞り、チェスンの額の汗を甲斐甲斐しく拭いた。
―あなたさまに以前、この同じ殿舎に住んでいた方ほどのしたたかさがあればよろしいのに。
恐らく、チェスンには真似のできない生き方に違いなかった。自分の幸せより、他人の幸せをより強く望む優しいチェスンなのだ。
それでも、崔尚宮はチェスンの幸せを願わずにはいられなかった。あのお妃のように、愛し愛される幸せをこの優しい方が摑むことができますように。
祈るような想いでチェスンの寝顔を見つめていたその時。
室の扉がカタリとかすかな物音を立てて開いた。崔尚宮は振り向こうとして、慌てて居住まいを正し立ち上がった。
「国王殿下」
深々と腰を折り、王への敬意を示す。若き国王はシッと人差し指を口に当てた。暗に騒ぐなと言っているのだ。
「淑媛は、どうしている?」
やはり、大殿に戻っても愛妃のことが気がかりでならなかったのだろう。
王の問いに、崔尚宮は小声で言上した。
「熱が下がりません」
その返答に、王の秀麗な顔が曇った。
「さもあろう。先の病がまだ癒えきっていなかったのだ。そのような身でこの寒さの中、丸一日戸外で直訴するとは、無謀なことをする」
「申し訳ございません、お側におりながら、淑媛さまをお止めすることができませんでした」
崔尚宮の謝罪に、王は笑った。
「この者の強情さは朕がよく知っている。見かけは可憐で虫も殺さぬ風情だが、なかなかどうして頑固なヤツだ。そなたも手を焼いておろう」
口調とは裏腹に、王がチェスンを見つめるまなざしには崔尚宮でさえ判るほど、愛しさが溢れている。
「私、盥の水を換えて参ります」
崔尚宮が言うと、王は頷いた。
「淑媛の側には朕がついておるゆえ、そなたはしばらく寝んできなさい」
淑媛と二人きりになりたかったのも本音ではあろうが、王の口調には上辺だけではない、心底から崔尚宮を気遣う響きがある。これが、この若い王が早くも聖君だと民たちから慕われるゆえんなのだろう。
崔尚宮はありがたく頭を下げた。
「ありがとうございます、殿下」
崔尚宮はどこかいそいそとした足取りで、若い二人を残して室を後にしたのだった。
いかほどの刻が流れたのか。ソンはずっと飽きもせず、チェスンの寝顔を見つめていた。想い人の顔をこうして見ているだけで、彼は心がこの上なく満たされるのだ。
と、チェスンが何か呟いた。夢でも見ているのだろうか。あまり愉しい夢ではなさそうだが、無理に起こすのも躊躇われる。
様子を見守っていると、チェスンの眼に透明な滴が溢れ、白い頬をころがり落ちた。
「―」
ソンの衝撃は計り知れなかった。眠りながら泣くなど、一体、どんな哀しい夢を見ているのだろう。
チェスンの愛らしい唇がまた動いた。ソンが耳をチェスンの口許に近づけたその時。
彼は確かに聞いたのだ。
「―殿下」
ソンはハッとして、チェスンを見た。チェスンの瞳は閉じたままになのに、涙は次々と溢れ出している。
「チェスン」
ソンは想い人の名を呼んだきり、何も言えなくなった。
一体、自分はどこまで彼を追い詰めたのか。眠りながら泣くほど哀しませていたのか。
刹那、ソンの耳奥でチェスンの声がまざまざと甦った。
―宮殿に来て、疲れました。良い加減に楽に生きたいと願うようになったのです。
今宵、席藁待罪をしていたチェスンから聞いたばかりの科白だった。あの時、降り始めた雪がチェスンの黒檀の髪に薄く降り積もっていた。
雪に濡れながら厳寒を物ともせず端座しているチェスンは、さながら雪の中に凛として咲く気高い花のようでえあった。このようなときなのに、ソンは改めてチェスンの美しさに眼を奪われたのだ。
フッ、ソンは危うく声を上げて泣きそうになり、唇を嚼んだ。
俺がそなたを愛したことがここまでそなたを追い詰めたとは、チェスン、許してくれ。
十二年前、初めて出逢った幼いときから、ひとめで魅了され、忘れられなくなった。ずっと逢いたいと願って奇跡のような再会を果たし、後はひたすら彼を手に入れたいと願い続けた。
互いの父親同士が仇であるという宿命さえ乗り越え、二人は愛し合い共に生きると誓った。初恋を実らせた自分は有頂天で、幸福の絶頂にいた。けれど、チェスンはどうだったのか。
ソンの執拗な愛がいつしかチェスンには重すぎるようになっていたのかもしれない。チェスンを烈しく愛し過ぎるあまり、ソンはチェスンを自分の腕の中に閉じ込めようとばかりした。彼がそれを疎ましく思ったとしても、責められはしない。
俺はそなたが欲しいと焦るあまり、何も周囲が見えなくなっていたんだな。愛する者を信用しようとせず、疑ってばかりで、あまつさえ縛り付けて身体の自由を奪ってまで陵辱した。
もう、良い。この辺りで自由にしてやろう、チェスンの手を放してやるのだ。
ソンは自らも涙を流しながら、想い人に向かって手を伸ばした。そっと艶やかな髪を撫でる。
「俺の愛がそなたに不幸と哀しみにしかもたらさないというなら、俺はここらで諦める」
俺が今、そなたにしてやれることといったら、それくらいしかないから。
「幸せになれ。俺のような、そなたを拘束するだけの男なんかじゃなく、そなたを大切にしてくれる優しい男に出逢ってくれ」
ソンは眠っているチェスンの額に唇を軽く落とした。次いで立ち上がり、室の扉を開ける。振り向きたい想いと必死に闘い、外に出て扉を後ろ手に閉める。後は未練を断ち切るかのように、早足で隣室の控えの間を横切り、廊下に出た。
廊下には、伴をしてきた内官が待っていた。その他にも不寝番を務める女官が数人控えている。ソンが軽く頷いただけで、女官によって両開きの扉が開けられる。
ソンは逃げるかのように扉が開いた隙間に身をすべらせ、内官が後に続いた。
淑媛申氏に対し廃位の上、後宮追放の王命が下ったのは、その数日後である。
王命を賜ればすぐに出てゆかねばならないところではあるが、チェスンが実際に出宮したのは王命が出て半月後だった。
雪の中、席藁待罪を続けて倒れたチェスンは、一時は生死の境をさまよった。生命の危機すら、危ぶまれたのだ。しかし、御医たちの懸命の治療と崔尚宮以下、女官たちの献身的な看病によって奇跡的に一命を取り留めた。
王命が発せられたのは丁度、チェスンが深刻な危機を乗り越えた時期であった。
チェスンが元の体調に戻るまで、出宮は見送られ、漸く御医の許可が出たこの日、チェスンは後宮を出ることになった。
廃位された妃は廃庶人となり、一切のこれまでの身分も待遇も失う。チェスンは白い簡素なチマチョゴリに結い上げた髪には飾り気のない簪を挿しただけの姿になる。
殿舎から出て階を降り庭を横切る時、片隅の紅梅が満開なのが見えた。既に山茶花はもう花はなく、早春の今は可憐な梅が今を盛りと咲いている。
チェスンは改めて背後を振り返った。ここで暮らしたのは一年にも満たなかったけれど、大好きな男に愛された幸せな想い出がたくさんある。けれど、今日、その想い出はここに置いてゆこう。