韓流時代小説　寵愛【承恩】

～隻眼の王の華嫁は二度、恋をする～

　第四話　夢うつつの蝶

 

「そう、今だけは、王と町娘ではなく、ただの男と女でいたい。せめて今だけは、ただのセリョンとムミョンでいられるこの大切な時間に浸りたい」
～遊廓の女将の娘が王様を好きになっても良いの？～

とある国王の御世、都漢陽では旅の一座が上演する仮面劇「王宮の陰謀」が大流行。
翠翠楼の一人娘、セリョンは念願叶って「王宮の陰謀」を見た帰り道、大怪我をして行き倒れていた美しい青年を助けるが－。

人物紹介　　
チョン・セリョン（鄭世鈴）－後の貞慧王后
妓房（遊廓）の看板娘。まだ幼い頃からセリョンを水揚げさせて欲しいと願う客が殺到するほどの美少女。外見を裏切るお転婆娘。明るく、落ち込んでも立ち直りの早い憎めない性格。　

ムミョン（無名）－王世子（世弟）・後の国王英宗
自らを「無名」（名無し）と名乗る謎の男。雪の降る冬の夜、深手を負っていた彼をセリョンが助ける陰のある美男なところから、翠翠楼の妓生（遊女）たちに絶大な人気を集める。隻眼ということになっているも、実は碧眼と黒目のふた色の瞳を持つ。

☆貞順大王大妃（シン・チェスン）－韓流時代小説「後宮秘帖～逃げた花嫁と王執着愛」主人公。
三代前の国王知宗の正室。王室の最長老であり、後宮の最高権力

者。

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　翠翠楼の女将ウォルヒャンはセリョンの実母ではない。実の母ではないからこそ、セリョンは余計に母を大切だと思っている。
　捨て子だったセリョンを大切に育ててくれ、妓生にもせず今まで守り続けてくれた。
　翠翠楼は母にとっては、もしかしたら生命よりも大切なものかもしれない。大切な翠翠楼を守り抜くためなら、セリョンは何だってできるはずだ。
　それでも、心が邪魔をする。
　ムミョン以外の男には触れられたくない、抱かれたくないと心が泣いていた。
　〝六〟は引き取りにきた酒場の女将の懐に収まり、哀しげに啼いていた。女将は元は翠翠楼で働いていた妓生だ。無類の猫好きだから、今回も犬猫たちの里親に一番早く名乗り出てくれたほどだ。きっと可愛がって貰えるだろう。そう思っても、涙は止まらなかった。
　今でも〝六〟の啼き声が耳に残って離れない。
　今、セリョンは彼女だけの秘密の場所―大手鞠の野原にいた。
　今日も空の色をそのまま写し取ったかのような露草が群生する中、所々に寄り添い合うように大手鞠が点在する。
　露草は花開いても、昼過ぎには萎んでしまう。可憐な見かけどおり、とても儚い花だ。
　セリョンは自嘲気味に考える。
　自分とムミョンの恋も、露草に似ているのかもしれない。たとえ、どれだけ彼を好きになっても、けして報われない、見込みのない恋。
　セリョンはとある大手鞠の樹の下に寝っ転がっていた。
―ムミョン、好きよ、大好きよ。
　彼の顔を思い出しただけで、涙が溢れて止まらない。セリョンは彼の左右で違うふた色の瞳が大好きだ。ムミョンの左眼は異様人のように蒼い。深い海を思わせる蒼玉（ブルーサファイア）のような瞳は見ているだけで、魂ごと絡め取られてしまいそうだ。
　黒目が当たり前のこの国の王が異様人のような碧眼と知れるわけにはゆかず、普段の彼は眼帯をかけている。そのため、英宗は民思いの善政を敷く聖君として知られていると共にまた〝隻眼の王〟の別名も持っていた。
　本当は両眼ともちゃんと見えるし、片眼が不自由などではないのに、人心を乱れさせてはならない、ただそれだけの理由で、彼は物心ついたときからずっと青い眼を隠して生きてきた。そのせいで、義母や異母兄からは〝化け物〟と蔑まれ、随分と虐げられたらしい。
　願わくば、いつか彼のお嫁さんになるどこかのお嬢さまだけは彼の左眼を見ても奇異なものでも見るかのように見ないで欲しい。セリョンの愛した大好きな蒼く美しい瞳を、彼と共に生涯を歩む女性にも綺麗だと思い、好きになって貰いたかった。
　もし妻になる女性が義母や異母兄のように青い眼を嫌えば、彼はまた孤独の闇に取り込まれてしまうかもしれない。
　大手鞠は長く生育するものは、かなりの高さになる。この樹も初夏の陽差しを遮るほどには十分大きい。涼やかな風が野原を渡る度に、頭上の葉がそよそよと優しい音を子守歌のように奏でた。
　大手鞠の花は紫陽花によく似ている。五月から咲き始めるが、最初は緑色なのが次第に純白にうつろってゆくのが興味深く美しい。
　六月に入り、手鞠の形をした愛らしい花は、ほぼ雪のように白く染まった。セリョンはゆっくりと上半身を起こした―その時。
　突然、背後から分厚い手で眼隠しをされた。
「誰だ？」
　聞き慣れた声ばかりか、彼が好んで身につける爽やかな樹木を思わせる香のかおりがフワリと漂う。これでは目隠しをする意味もあまりないだろうと、セリョンは微笑する。
「ムミョンでしょ」
「よく判ったな」
　目隠しはすぐ外れた。彼もまた笑いながら、セリョンの隣に座る。ふと彼の整った面が翳った。
「泣いていたのか？」
「別に」
　指摘され、不覚にもまた滲んできた涙をまたたきで散らす。セリョンは無理に微笑んでムミョンを見つめた。
「俺の手が濡れている。嘘をついても丸分かりだぞ」
　彼の大きな手のひらがセリョンの黒髪をくしゃっと撫でた。彼はしばしばセリョンの髪をかき回す。一見、兄が妹にするような態度が実は、彼がセリョンへの募る想いと迸る情熱に耐えかねてのものだとセリョンが知ることはない。
「よくここが判ったわね」
　この秘密の場所はセリョンだけのもので、翠翠楼では用心棒のキョンボクしか知らない。
　ムミョンが悪戯っ子のように笑った。
「キョンボクに聞いたんだ」
　少年めいた表情を見せると、時に古参の老臣たちをも朝議で震え上がらせるといわれるほどの冷徹な王にはとても見えない。二十一歳という年相応の若者らしい屈託ない素顔が覗いた。
「キョンボクはお喋りね」
　セリョンが眉をしかめるのに、ムミョンが首を振る。
「あいつを叱らないでやってくれ。俺が渋るあいつから無理に聞き出したんだから」
「喋る方も喋る方なら、聞き出す方も聞き出す方ね」
　その後は、何故か空疎な沈黙がひろがった。沈黙をひたすら守り続けるセリョンに対して、ムミョンは一体どういう言葉で話を切り出そうかと思案しているかのようである。
　意外にも沈黙を終わらせたのはセリョンの方だった。あまりにも重すぎる空気に耐えられなくなったのだ。
「何か言いたいことがありそうに見えるわ」
「そなたこそ、俺に何か言いたいことがあるのではないか？」
「別に、何もないわ」
　顔を背けたセリョンに、彼がやや声を高くした。
「何故、俺から眼をそらす？　チョン・セリョン、俺の顔を見ろ、ちゃんと視線を合わせて応えるんだ」
　それでも、セリョンは彼を見ない。焦れた彼がセリョンの肩に手をかけ引き寄せた。人差し指で顎を掬われ、無理に上を向かせられる。
　眼帯に覆われた左眼と漆黒の右眼がセリョンをひたすら見据えている。隠れていない方の瞳がセリョンの心の底まで見通すかのようだ。
「水臭いじゃないか」
　唐突すぎる言葉の意味も、セリョンは理解できた。
「姐さんが話したのね」
　セリョンは呟き、笑った。
「うちはお喋りな人が多いみたい。ファオル姐さんもキョンボクも皆、余計なことをあなたに話すんだから」
　セリョンの眼から澄んだ滴が溢れ出し、すべらかな頬をつたった。
　ムミョンはハッと胸をつかれたような顔になった。
「何故、泣くほど辛いのに、俺を頼ってくれないんだ？　セリョン、今回のことで俺は自信を失ったよ。俺はそなたにとって何なんだ？　大切な女が泣いている時、困ってる時、頼りにもして貰えないような不甲斐ない男なのか？」
　やるせなさそうな、声。大好きな男の声に、セリョンの心はこんなときでさえ嬉しさに震える。そんな自分の弱さが嫌だった。
「あなたに話して、どうなるの？」
　セリョンはわざと素っ気なく断じた。
「話したところで、何も変わりはしない」
　すかさずムミョンが言った。
「俺が嫁に貰ってやる。そうすれば、すべて解決だ」
　セリョンがキッとなった。
「何ですって、冗談―」
「冗談じゃない！」
　彼がきっぱりと言った。見せつけるように、左手に填った月長石の指輪を指し示す。
「俺たちは対の指輪を持つ者だ。そなたも、いずれ俺の妻になることは承知していたろう？」
「私は両班のお嬢さまじゃない。そんな私が国王さまに嫁ぐなんて、できるわけがないでしょう」
「それでも、そなたは俺の嫁になると約束した！」
「確かに一時はあなたの側に立てるかもしれないと夢見たこともあったわ。でも、それは所詮、都合の良すぎる夢だと気づいたの。たとえ零落していても両班の娘なら、まだしも望みはあったでしょうけど、私は遊廓で生まれ育った賤しい身分だわ。間違っても王さまの伴侶になれるはずがないの！」
「身分を心配しているなら、何とでもなる。それは俺が保証する」
　セリョンは、それでもなお頑なに首を振った。
「それでも駄目、私には無理よ」
「何が無理なんだ？　俺がそなたを好きで、そなたも俺を好きだと言う。互いに好きなら、何の問題もないはずではないか？　愛し合っている者同士が結ばれるのは自然なことだろう」
　かき口説くムミョンに、セリョンは儚い笑みを浮かべた。
「それが一対一ならね」
「それは、どういうことだ？」
　彼は真顔で訊いてくる。セリョンは微笑んだ。
「良人は一人しか妻を持たない、そういう関係なら筋は通るけれど、良人がたくさんの妻を持つ王さまの後宮では愛し愛されての純愛なんて存在しないわ」
　ふいに強い夕刻の風が樹下を吹き抜けた。風はセリョンの額にかかった前髪を嬲る。
　彼女は心もち眼を細め、遠い瞳を彼方に向けていた。
「ムミョン、妓房では愛だとか約束という言葉に何の意味も持たないの。遊廓で咲く恋の花はどんなに美しく花開いたとしても、一夜で儚く散ってしまう。私は妓房で育ったから、余計に純愛に憧れるの。良人は妻一人を愛し、共に尊敬し合って生涯を送りたいわ」
「それがどうした？」
　彼は事もなげに言い放つ。
　セリョンの瞳に強い光が閃いた。
「判らない男(ひと)ね、あなたがたくさんのお妃に囲まれて鼻の下を伸ばしているのなんて見たくない」
「いつ、俺がたくさんの妃を持つと言った？　生涯側室は持たぬ、妃はそなた一人と繰り返して言ってきたはずだ」