ウォーク更家の散歩(東海道・中山道など五街道踏破、首都圏散策)

バスで行く「奥の細道」(その44)「木之本宿」(滋賀県) 2019.10.10

(写真は、「木之本」の宿場町)


前回ご紹介しました様に、「敦賀」の旅籠・出雲屋に到着した

芭蕉と等栽は、直ぐに「金ヶ崎城跡」を見物し、その晩の

うちに「気比神社」に参詣しました。

 

芭蕉が「敦賀」に何日間滞在したかは不明ですが、敦賀まで

迎えに来た弟子の「路通(ろつう)」(注)と一緒に馬に

乗って、敦賀の次の宿場町の近江の「木之本」宿へ向かい

ました。

実は、芭蕉は、曽良と別れた山中温泉から、大垣の弟子に

「15日前後にはそちらに着けるだろう。」と手紙を

出していました。

 

しかし、15日を過ぎても、芭蕉が大垣に到着しないので、

心配した弟子が、この路通を敦賀まで迎えによこした

のでした。

 

(注)「路通」:「奥の細道」の出発にあたり、最初、芭蕉は、

 深川の芭蕉庵の近くに住んでいたこの弟子の「路通」を、

 同行者として予定していました。

 

 しかし、出発直前に、何故か、この「路通」は同行者から

 外され、急遽、「曾良」がピンチヒッターとして起用され

 ました。

 

 「路通」を敦賀まで迎えによこしたのは、出発の直前に

 外された「路通」に、気配りの「曾良」が、芭蕉の旅の

 最後を譲ったから、という説もあります。

 

滋賀県長浜市の「木之本宿」は、かつて「北国街道」と「北国

脇往還」の分岐点にありました。

「北国街道」は、北陸の金沢の城下町と、中山道の鳥居本宿を

結ぶ主要街道でした。

 

(鳥居本宿については、「中山道を歩く・鳥居本」を見てね。)  

 

また「北国脇往還」は、ここ木之本宿から、名古屋・江戸方面

へ向かう旅人が、鳥居本を経ずに、近道として関ヶ原宿へ

向かう街道です。

 

(関ヶ原宿については、「中山道を歩く・関ケ原」を見てね。)

 

木之本の宿場町は、本陣、脇本陣、問屋が一軒ずつ置かれて

いました。

 

旅篭屋、伝馬所、高札場などが点在する宿場町の中央を

柳の木が植えられた小川が流れる、風情ある宿場町でした。

また、”木之本のお地蔵さん”として名高い「木之本地蔵院」

の門前町でもあったので、地蔵院への参拝客でも賑わい

ました。

 

 

我々の「奥の細道」バス旅行は、「木之本宿」の入口の駐車場

で下車して、当時の面影を濃く残す宿場町を散策します。 

 

枡形に作られた宿場の入り口には、写真の「みぎ 

京いせミ(み)ち   ひだり 江戸なごや道」の

道標が建っていました。

 

(札の辻跡)

 

 

 

 

 

切妻屋根の平入りの、伝統的な町家が点在する現在の木之本宿

の町並みには、昔ながらの造り酒屋や醤油醸造場が今も街道筋

に看板を掲げています。

 

写真の本陣だった屋敷(竹内五左衛門邸)は、現在は、薬局

を営業しており、古めかしい木製の薬の看板が掲げられて

いて、昔の面影を彷彿とさせます。

説明板によると、明治26年、22代目の当主が、明治政府

から薬剤師第一号の免状を受けた、とあります。

伊吹山麓に源を発する良水に恵まれた木之本宿では、醸造業も

盛んに行われていました。

 

 

上の写真の「冨田酒造」は、銘酒”七本槍”で知られます。

更に歩くと、写真の「馬宿平四郎家」の角には、「木之本

牛馬市跡・北国街道北ノ町」の標が建っていました。

 

平四郎家は、江戸時代には、藩の保護を受けていました。

そのため、丹波、伊勢、美濃、越前、若狭などから、

数百頭以上も牛馬が集まり、牛馬市は盛況を極めた

そうです。

 

織田・豊臣・徳川の三代に使えた「山内一豊」の妻が、

へそくりで買い求めた名馬もその中の1頭でした。

 

下の写真の平四郎家の前の顔出し看板は、山内一豊では

なくて、その名馬と一豊の妻の方でした・・・

 

木之本宿にある写真の「木ノ本地蔵院」は、眼の地蔵菩薩

として有名で、「木之本のお地蔵さん」として、全国から

参拝客訪れるそうです。

 

豊臣秀吉と柴田勝家が戦った賤ヶ岳の合戦の際は、秀吉が、

この地蔵院に本陣を置いたそうです。

境内には、日本三大地蔵の一つの高さ6メートルの写真の

「地蔵菩薩大銅像」があります。

この大銅像は、本堂の中にある秘仏の本尊の写しだそうです。

 

平成18年にが開かれたという上の写真の「御戒壇巡り」の

入口から中へ入って行きます。

中は、57メートルも続く漆黒の闇で、”錠前?”に触れる

まで、手探りで延々と歩いて行きます。

これは、参拝者が厨子の下を巡るもので、この錠前は、本堂

の中の本尊の地蔵菩薩の手と五色の紐で結ばれているのだ

そうです。

 

 


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コメント一覧

ウォーク更家
奥の細道の道連れは当初は路通の予定だった
http://blog.goo.ne.jp/mrsaraie
そう、当時の道標は、漢字に平仮名、カタカナ混じり、しかもこの例に様に、「いせミち 」(伊勢道)と1つの単語が、平仮名カタカナ混じりでは、「セミ(蝉)」に見えてしまいますよね。

”そらぁ~”((-_-;))、我々の知らない曾良と路通との微妙な関係があったのかも知れませんね。

奥の細道の出発直前に同伴者から外されて面目を失った路通は、ここで旅の最後を飾れて、面目を施したでしょうね。
もののはじめのiina
奥の細道の道連れ 
https://blog.goo.ne.jp/iinna/e/2f80f182c206accafb622e1af242a367
「みぎ 京いせミ(み)ち 」を、芭蕉ですから「セミ(蝉)」を思いました。
奥の細道に同伴した「曾良」が、気をまわして「路通(ろつう)」に旅の最後を譲った説はおもしろいです。
そらぁ~、素人iinaとしては曾良と路通の関係を知りません。


当時のテレビ業界では「30分枠のテレビ番組で80万から100万円の制作費が必要」だったのを10万円で構想したのだそうです。
それでも、われわれは夢中になって見ました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/月光仮面



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