人って、人を人と思わなくなったとき、
人を人として扱わなくなったとき、
その人の人間性もひとつ死んでゆくんだと思う。

きれい事とか、思いやりだけではなく、
自分のためにもできる限り、
自分と立場の違う人や、
自分より目下(って言い方は好きではないが)の人や、
自分と利害の対立する人のことも、
人として想い、人として扱いたい。

性別や国籍、民族の異なる人を
「あいつら人間じゃない」
と言う人もいる。
障害の有無とか、
社会的立場の違い、
宗教の違い、
政治的立場の違い…。

違う人を敵と見做したり、
異物として排除したり、
見下して嘲笑することに何の意味があるのだろう。

最初は確かに善良で、他人思いで、素敵な人だったのに、
だんだん歪んで平然と冷淡なことや残酷なことをするようになる人って
おそらく、
(その人にとって)都合の悪い人を人として想わなくなったから
というのが一因だと考える。

虐殺やイジメ、虐待だって、
犯人は最初から悪鬼だったわけではなく、
被害者を人と思わなくなったところからタガが外れはじめる。
(ネットの有名人イジメなんかも嫌いです
罪のない小さい子まで罵っていたりしてびっくりする
有名人であっても傷つく心を持つ人間だろうに)

かく言う私も知らず知らずのうちに偏見というものはあって、
気がつくと
「あ、いけない!」
なんてことはしょっちゅうで。

あるとき娘を公園で遊ばせていたら、
娘が泣いて、
保護者の方が
「ごめんなさい、この子(叩いた子)は障害があって
お宅の娘さんを叩いちゃって。
せっかく楽しく遊んでたのに…。
ごめんなさい。」
見たかんじ、知的障害の方かな?
そのときカチンと来ちゃったのね。
いいです、いいですと言いながら内心、
(何だよ、障害があるからって
小さい子をいきなり叩くなんて)
と思ってしまい…。
しかし、後からよく考えると、
叩いた子が健常児だったらどうだろう?
公園で遊んでて、
健常児同士が遊具の取り合いとか出会い頭に叩かれるってまあ普通に
小さい子の遊ぶ風景ではありますよね?
そんなとき、相手のお母様に謝られることもあるけど、
そういうの幼児ではお互い様で成長の過程だから、
心から
いいです、いいです、気にしないで照れ
って言ってる。
それなのに、
障害児だから言い訳と捉えてカチンと来るとか、
怖いと思ってしまうのって、
私の嫌いな差別や偏見ではないか!
と反省しました。
次からは心から、
いいです、お互い様だから気にしないでおねがい
と言えるようになろう。

このように、内面化された偏見や差別って
自然に起きうるものだから、
自分自身、気を付けてしないようにする、
気付いたらこまめに正さないといけない。

私は狭量だし、
疲れやすいのでキレやすいし、
(これ本当治したい、すぐ癇癪が起きる
疲れないように休み休みやれば通常時は穏やかな方で癇癪は起きないんだけど
それだとやるべきことがとても終わらないし
なかなか解決の糸口が見つからない)
偉そうなこと言える人間じゃないです。

でも、人は人として、立場や利害が違っても尊重したい。
私は相貌失認のせいか、
タイムスリップ現象のせいか、
他人様をなかなかひとりひとり認識することが難しい。
だから、
お前が一番人を馬鹿にしている、
お前が一番人をリスペクトしていないとよく言われる。
それはとても悲しいことで、
そう言われるとそのとおりだし、
何も言い返す言葉はない。
しかも、
言語外コミュニケーションは苦手だし、
人の気持ちや空気もイマイチわからない。
(40代なので、暗記的にある程度はわかる
このときはコレ、みたいな)
だから本当にとても難しいのだけど、
できるだけ、
相手にはその人の生き様や過去、考えがあるのだろうと思いやり、
その人その人の人格を尊重したい。

私はどうしてアスペルガー症候群なのに
一番不向きなことに心惹かれるのだろう?