ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

終わりにあたって

2020-10-11 18:37:37 | 日記

 ようやく秋晴れが見られるようになってきたかと思ったらまた台風。雨が多くて寒かったですね。でもこれからはさわやかな季節になる筈です。紅葉も楽しみなのですが…。
 季節はよくなってきましたが、目が見えにくくなるなどの体調の変化が少々つらくなってきました。70歳にもなれば仕方のないことですが、技術的についていけなくなることも多々あります。

 そして何より読み物として楽しんでいただけるものを書いていきたいと思っていたのですが、このところ納得のいくものが書けていません。それほど大層なものを書こうと思っているわけではありませんが、自分自身納得のいかないものをアップしていくのは不本意なのです。何を言っても言い訳になりますし、私自身残念な思いでいっぱいですが、前回の「中秋の名月」の記事をもってブログの更新を中止させていただくことにしました。

 これまで応援してくださった皆様、本当に有難うございました。つたないブログではございますが、過去の約9年間に書いたものはそのまま置いておきますので、歴史に興味のある方はまた見に来てくださいね。「ひとひらの雲」というブログがあったことを、時折思い出していただけるなら幸甚に存じます。

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中秋の名月

2020-09-27 19:05:23 | 日記

 カラッとした秋晴れ少ないですね。そろそろお月見の季節ですけれど、今年の十五夜は十月一日くらいになるのでしょうか。旧暦の八月十五日が「中秋」の名月ですからね。旧暦では一月から三月までが春、四月から六月が夏、七月から九月が秋、十月から十二月が冬というように区切られていました。八月は秋の真ん中なので「仲秋」というのですが、この場合の「仲秋」は八月まるまる一ヶ月を指します。「中秋」というとずばり八月十五日のことを指し、十五夜となるわけです。十五日だからといって必ずしも満月とは限りませんが、おおよそ丸に近い月が見られる筈です。今年の十五夜、天候に恵まれるといいですね。

 お月見はもともと中国から渡ってきた風習で、中国では赤い鶏頭(けいとう)の花を飾ります。そして月見のための御菓子である月餅を食べましたが、それが日本に来てすすきと団子に変わりました。伝わってきた最初の頃、平安時代には上流階級の楽しみでしたが、江戸中期になると庶民生活が豊かになり月見の風習が広がりました。といってもこの場合、マイブログ「江戸の月見」にも書きましたように、月を愛でるというよりは飲んで食べて騒ぐといったお花見のような感じの月見ですね。風流とはほど遠いものだったようです。中国では満月だけを愛でましたが、江戸時代にはいろいろな形の月を愛でています。

 さて名月、芭蕉の句にも「名月や 池をめぐりて 夜もすがら」というのがあります。名月は必ずしも十五夜ではありませんけれど、くっきりと空に浮かぶ美しい月のことです。今のように夜が明るくなかった時代、月の光のあるなしでは随分違ったんですね。「名月や 畳のうへに 松の影(榎本其角)」。中秋の名月が照りわたり、庭にある松の木が座敷の畳に影を落としている。それくらい明るいということです。また月の光は川面を這う川霧の姿をも浮かび上がらせます。「名月や 煙はひ行く 水の上(服部嵐雪)」。名月の夜の川面の情景がよく捉えられています。

 秋の月って、どうしてそんなに人の心を捉えるのでしょうか。空気が澄んではっきりと見えるからでしょうか。そんな中でも特別に美しい時があるようです。「いつとても 月みぬ秋は なきものを わきて今宵の 珍しきかな(藤原雅正)」。いつだって月をみない秋はないのに、とりわけて今宵の月は素晴らしいなあ、というんですね。月を見て感動する心、大切にしたいものです。また感動して、つい踊り出したくなる人もいるようです。「いざ歌へ 我立ち舞はむ ぬば玉の こよひの月に いねらるべしや(良寛)」。さあ歌え、私は立って舞おう。今宵の美しい月に、寝てなどいられようかという良寛さん。やはり変わったお坊さんです。

 

 畳の上に松が影を落としているという句は前述しましたけれど、それほど明るいにも拘わらず、「暗い暗い」といって鳴く虫がいるようです。「松の月 暗し暗しと 轡虫(高浜虚子)」。松にかかる月はとても明るいのに、轡虫(くつわむし)の鳴く音は暗い暗いといっているように聞こえるというんですね。虫の音も聞く人の心次第といったところでしょうか。
 ついこの間まで暑いと思っていたのに、関東は急に涼しくなりましたね。秋の長雨シーズンでもあり、台風シーズンとも重なるので、このところ秋晴れがなかったような気がします。明日からは晴れるという予想ですが、中秋の名月、果たしてどうなりますことか。

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大奥の年中行事

2020-09-13 19:24:48 | 日記

 長い梅雨が明けて猛暑。暑さがまだ落ち着かないうちに台風シーズン到来で、停電にでもなったら死活問題ですよね。本当に生きるって大変。そんな中でも年中行事は結構頑張って行われるようです。例えばこのコロナ禍の猛暑にあっても、お盆のお墓参りをされた方多いのでは? 大奥でも御魂祭(みたままつり)といって七月十三日から十五日まで、御仏間で礼拝がなされました。盂蘭盆会(うらぼんえ)ともいいます。増上寺と寛永寺には毎日御代参が遣わされました。この御代参は御年寄や御中臈など上級女中たちが御台様の代理で参詣するものなのですが、宿下がりの許されない上級女中にとっていい気晴らしになったようです。さらには御代参のあと芝居見物をするのが普通になり、「絵島事件」なども起こりました。

 さてその年中行事、現代でもほぼ同様に行われていますけれど、大奥と比較すると少し違うものもあります。まず元旦の祝いは規模こそ違え、各家庭で行われるものと大差はないようですが、二日には御掃除初め、御書初め、御裁(たち)初めというのがあり、夜は将軍との御寝(ぎょしん)で姫初めとなりました。御書初め以外はあまり聞きませんよね。

 二月には初午(はつうま)というのがありますが、これは御年寄が江戸城の稲荷神社へ御代参をしました。今でも企業などでは行われるところがあるようですが、一般家庭ではあまりしませんね。さてお彼岸、今は一般的に「おはぎ」が供えられていますけれど、大奥では御台様が手ずから丸めた団子を御仏間にお供えしたようです。

 三月の一日から四日までは雛祭り。十二段の雛人形を御座の間と御休息の間に飾り、毎日供物を取り替えました。桜の季節には吹上御苑で花見をし、三月下旬になると、東海道五十三次の宿場に見立てて名物の模擬店が並ぶ五十三次という行事が大奥の御庭で行われました。華やかな行事です。四月八日は花祭り(灌仏会)、この日も大奥の長局(ながつぼね)に露店が並びました。

 五月五日は端午の節句。御三家や御三卿、御簾中(御家門)から粽(ちまき)が献上されました。六月一日には加賀前田家から氷室(ひむろ)の献上があり、七月七日は七夕で、御目見得以上の女中たちはみな歌を作りました。七月十三日から十五日までは御魂祭。八月十五日は中秋で月見を楽しみました。この時御歌合せが催され、秀逸の者には賞品が下されたといいます。何かにつけ歌を詠むところが現代にはない風習です。

 月見の宴

 九月九日は重陽(ちょうよう)の節句、十月一日は炉開きで御茶会が開かれました。これらはみな旧暦でのことなので、季節感が少し違うかもしれません。十一月中旬にはもう冬至のお祝いがありました。御目見得以上の女中に蛤の吸い物・刺身・うどんなどの料理が下されたそうです。十二月一日から十二日までは煤払い。今でいう大掃除ですけれど、主に御三の間の女中たちの仕事だったようで、終わると織物や手拭い、御肴などが下されました。十二月二十八日には注連飾(しめかざり)を飾り、御納戸(おなんど)払いといって御台様の御召物(おめしもの)が女中たちに下げ渡されました。一度も袖を通していないものもあったそうです。最後は大晦日。御目見得以上の女中たちは将軍と御台様に除夜のお祝いを述べました。以上簡単に大奥の年中行事を見てきましたが、他にもまだまだあります。多くの女性たちがそれぞれに役割を持ち、働くことで、これらの行事が遂行されていきました。

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御中臈様のお仕事

2020-08-30 19:10:13 | 日記

 大奥にはたくさんの女性が働いていましたが、それぞれ役目がありました。例えば御右筆(おゆうひつ)なら諸家への書状から日記、記録の作成など一切の文書を担当しますし、表使(おもてづかい)なら大奥で必要な諸品目を御広敷(おひろしき)役人に交渉して買い調(ととの)えさせたり、大奥と表の取り次ぎ役もしました。御年寄(おとしより)クラスになるとほとんど体を動かすこともなく、煙草盆を前にして座ったまま大奥一切の諸事を指図していましたが、大奥女中最下位の職である御末(おすえ)はあらゆる雑役に従事していました。水汲みなどの力仕事から、必要があれば乗物を担ぐ仕事(駕籠かき)までしたといいます。

 他にもいろいろな職制がありますけれど、テレビドラマによく出てくる御中臈の仕事について考えてみましょう。まず御中臈には将軍付と御台所付があります。御台所付の御中臈は七、八人いましたが、二人一組の交代制で、御台様の食事をはじめ、入浴、トイレなどのお世話をします。御台様が起床する前に身支度を整え、朝七時頃には御台様を起こしにいきました。「お目覚め、おめでとうございます」と声をかけるのだそうですが、面白いですね。確かに目覚めなかったら大変ですから、目覚めることはめでたいに違いありません。起きると、うがいの水を差し出します。次に入浴、髪結(かみゆい)、朝食と続きます。

 御台様の朝食は御広敷御膳所(おひろしきごぜんしょ)で十人分を作り、毒味のあと九人分が大奥の御膳所へ運ばれてきます。御次(おつぎ)が運んできた膳部を御中臈が受け取り、御台様に差し出すのがお役目。魚をほぐしたりするのも御中臈のお役目でした。残った料理はどうなるかというと、あとで御年寄や御中臈がいただいたということです。

 御膳を運ぶ御中臈

 朝食が済むと、将軍を迎える御台様の着替えを手伝います。午前十時頃になると将軍が奥入りし、「総触れ」が行われ、御中臈も将軍へ朝の御挨拶をしました。将軍が中奥へ戻ると、御台様は普段着に御召替(おめしか)えをします。御中臈はそれを手伝い、脱いだ御召物をたたんで箪笥にしまったりしました。お昼も御台様のお食事の世話。そして午後二時頃になると再び将軍が奥入りし、御台様と歓談することがあります。この時も御召替の手伝い、同席。他に御台様が楽しむ茶の湯や生花、和歌などの相手も務めました。夕食後ようやく自由時間がもらえますが、夜、御台様が一人でお休みになる時は、当番の御中臈が宿直(とのい)として中年寄(ちゅうどしより)とともに御台様のそばで寝ました。結構忙しかったんですね。

 一方将軍付の御中臈はというと、こちらも食事、入浴からトイレのお供まで、身の回りすべてをお世話することに違いはありませんでした。またこれがお役目といえるかどうかわかりませんけれど、将軍のお目に留まり、御手が付く機会は多かったようです。御手が付けば側室となり、寵愛を受けて男子を産めば「お部屋様」、女子を産めば「お腹様」となります。本人だけでなく、親類縁者も立身出世の栄誉に浴しました。奥女中たちは内々で、御手付の御中臈を「汚(けが)れた方」、御手付がないのを「御清(おきよ)の方」といって揶揄したとか。いかにも羨望と嫉妬が渦巻く大奥ならではの呼び方ですね。

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大奥のペット

2020-08-16 18:46:12 | 日記

 長かった梅雨が明けて猛暑。蝉も鳴きはじめました。夏の音です。ただ蝉はペットにするわけにもいかないので、ご近所の庭木に飛んできて、鳴き声を聞かせてくれるのは嬉しいですね。林の中まで行けば蝉しぐれも聞けますけれど、街路樹などで鳴いているのも結構いいものです。子供の頃、蝉をとってきて虫籠に入れていたことがありますが、すぐに死んでしまうので可哀想。ペットにしてはいけません。今やペットブームで、変わった生き物を飼われている方もいるようですが、基本的にはやはり犬か猫。犬派、猫派に分かれているようです。

 家にいる時間が長くなって、益々ペットの需要が増えているのではないでしょうか。江戸城大奥も外出はままなりませんでしたし、男性と会う機会もほとんどなく、ストレスはたまる一方でしたから癒しが必要でした。当然のこととしてペットブームが巻き起こります。ただペットが飼えるのはランクが上の奥女中に限られていました。犬や猫は勿論、文鳥や鶯などの小鳥も人気があったようです。変わり種の金魚は大人気で、高価なガラスの入れ物に入った金魚が大奥の各部屋で泳いでいたとか。

 徳川氏奥向きの図

 他に鈴虫や松虫も、手軽なペットとしてその鳴き声を楽しみました。季節のものなので、一時的に大量に必要になったりします。鈴虫や松虫を調達したのは大奥に出入りする御用達(ごようたし)商人ではありません。江戸近郊農村の農民たちが数百匹単位で調達することになっていたそうです。農民も大忙しですね。

 犬の中でも狆(ちん)は人気がありました。今でも結構飼われている方も多いのではないでしょうか。大名屋敷の奥向きでも人気があったようで、狆を抱いた大名家の御姫様を描いた錦絵などが散見されます。狆に限ったことではありませんが、ペットは贈り物としても使われました。高価な小動物は、武士や商人たちのポストや利権獲得のために奥女中に贈られたようです。

 狆を抱いた大名家の御姫様

 一方、妊娠すると大騒ぎになるのが猫。飼い主の奥女中の機嫌を取り結びたいという目論見から、生まれる子猫が欲しいという希望者が殺到するのだそうです。子猫が生まれると、飼い主の奥女中は貰い主に対して生活用品一式を贈るの慣例で、何かと物入り。貰い主の方も、誕生日には飼い主の奥女中を接待しなければならないのでこれまた大変なのですが、人脈を得るためでもありますから面倒も何のそのというわけです。行動の自由が束縛されている女の園大奥では、こうした儀式も楽しみのひとつだったのかもしれません。

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