ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

平安朝のもて女

2018-07-08 19:38:31 | 日記
 梅雨が明けたと思ったら西日本各地に大雨被害。亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

 関東の雨はたいしたことありませんでしたけれど、それでもかなりの強風が吹き荒れました。野分(のわき)の季節かと思うような一週間でしたが、まだまだこれからが夏本番。気を引き締めて頑張りましょう。


 そんな夏の暑さを考える時いつも思うのですが、平安時代の、特に貴族女性たちはどのように過ごしていたのでしょうか。夏物とはいえあの仰々しい形(なり)ですし、髪も長く伸ばしていたわけですから、さぞかし熱中症続出だったのでは…。庶民なら肌着一枚にもなれましょうが、貴族女性のそんな図は見たことがありません。身だしなみを整えるのが一種の仕事みたいなものでしたから。何といっても男性にもてないと、生活に困ってしまうことが多かったんです。平安文学には男が通って来なくなった姫君たちの悲劇的末路がたくさん描かれています。

 「源氏物語図屏風」より


 それでは、もて女は生活に困らなかったのでしょうか。「世界三大美女」に数えられる小野小町。彼女は深草少将(ふかくさのしょうしょう)の「百夜(ももよ)通い」(少将が九十九夜通いつめて求愛し、精根尽きて亡くなってしまう話)で有名ですけれど、残されている歌はどれも哀感に満ちています。
 思ひつつ 寝(ぬ)ればや 人の見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを
 いとせめて 恋しきときは むばたまの 夜の衣を 返してぞ着る
 衣を裏返して着て寝ると、夢で逢えると思われていたんですね。男の訪れを待ちわびるせつない女心が伝わってきます。また、かの有名な、
 花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに

 などはその美貌の衰えを嘆く女心が胸を打ちます。一夫多妻の時代、男には風流な遊びであっても、女にとって恋は命でした。

 卒都婆小町(そとばこまち)という謡曲があります。能の演目のひとつですが、そこには卒都婆に腰掛ける乞食の老婆が登場します。それは小野小町のなれの果てなんですね。。彼女の末路もまた哀れなものだったようです。


 小町に比べると格段幸せと思えるもて女がいます。それはあの菅原道真を左遷した時の左大臣藤原時平の娘褒子(ほうし)。京極御息所(きょうごくのみやすどころ)と呼ばれた彼女は最初醍醐(だいご)天皇に入内(じゅだい)する予定だったんです。それを醍醐天皇の父である宇多上皇がひと目惚れして自分のものにしてしまうんですね。ひどい父親だとは思いますけれど、玄宗皇帝も同じようなことをしています(息子から楊貴妃を取りあげました)から、権力者にはありがちなことなのかもしれません。
 で、その彼女に元良親王(もとよししんのう)が通ってくるという不倫騒ぎ。発覚した時に元良親王が開き直りともとれる歌を詠んでいます。
 侘びぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ

 どうせバレちゃったんだから身を滅ぼしてでもあなたに逢おうと思うというこの和歌は、百人一首に入っているんですよ。面白いですね。結局元良親王は謹慎させられてしまいますが、褒子の方は宇多院の晩年、その寵愛を独り占めにしたようです。


 もう一人、もて女として藤原薬子を挙げておきましょう。何しろ彼女は娘の入内に付き添って宮中へ入り、娘の相手である平城天皇(当時は太子)に見初められてしまうのですから。しかし彼女の人生は、それほど楽なものではなかったようです。

 「もて女」イコール「幸せ」とは限りませんけれど、今のように女が自立できる時代ではありませんでしたから、恋に命をかけたんですね。


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