(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

快さとは何か、苦しさとは何か①

*科学するほど人間理解から遠ざかる第6回


 冒頭でいきなり、快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると申し上げ、みなさんにマメ鉄砲を喰らわしてしまったあと、汚名返上(?)とばかりにその補足解説に努めているところです。


 先ほどこういったことを確認しました(以下、「」というひと言で、「今という一瞬」を表現しているものと、引きつづきお考えください)。みなさんは生きておられるあいだどの瞬間でも、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに、身をもってお答えになる。そうして身をもって「今」を出来事の最中とする堅固さが強ければ、快さを感じていると言い、身をもって「今」を出来事の最中とする堅固さが弱ければ、苦しさを感じていると言うのである、と。


 これを、もっとくだけた表現に言い直してみます


 みなさんが生きておられるあいだどの瞬間でも身をもってお答えになる問いを、「今をどういった出来事の最中とするか」と表現してきました。まずこれを意味はそのままで言い換えます。


 先刻みなさんにこう申しました。ご自身のいまこの瞬間の状態を俺にご教示くださいとお願いしますと、みなさんはきっと、会話中である、食事中である、「おたくの話を聞いている最中ですよ」といったように「〜中」とお答えになるか、会話をしている、食事をしている、「安心してください、おたくの話、聞いていますよ」といったように「〜している」とお答えになるのではないでしょうか。またみなさんの過去のある一瞬の状態についてお尋ねしても、やはり「〜中」もしくは「〜していた」といった表現をもちいてお答えくださるのではないでしょうか、と。


 しかしひょっとすると、そのように「会話中である」とか「会話をしている」とお答えくださる代わりに、「相手と和解しようとしている」とお答えになったり、「食事中だった」とか「食事をしていた」とお答えくださる代わりに、「通学・通勤しようとしていた」とお答えになる、もしくは、「おたくの話を聞いている最中ですよ」とか「おたくの話、聞いていますよ」とお答えくださる代わりに、「おたくをねウフフ完膚なきまでに叩きツブそうとしているんですよ」とお答えになったりする、といったようにみなさん、「〜しようとしている/〜しようとしていた」といった文末表現をもちいてお答えくださったかもしれません。


 これはどういうことでしょうか。


 みなさんは生きておられるあいだどの瞬間の状態を俺にご教示くださるときにも、「会話中」であるとか「食事をしていた」とか「話を聞いている」といったように、渦中におられる(おられた)出来事(会話、食事、聴取)に着目して「〜中」もしくは「〜している/していた」と表現なさることもおできになるが、渦中におられる(おられた)出来事の行き着く先(和解、登校・出社、全否定)に着目して「〜しようとしている/しようとしていた」といったふうにおっしゃることもできる、ということです。


 たとえば「会話中(会話している)」というのは、渦中にある会話という出来事の行き着く先である相手との和解を表現のなかに入れ、「相手と和解しようとしている」といったふうにもおっしゃれますし、「食事中(食事をしていた)」というのも、渦中にある食事という出来事の行き着く先である登校・出社を表現に反映して、「通学・通勤しようとしている」とおっしゃれます。「おたく(俺のこと)の拙い話を聞いている最中(聞いている)」というのも、渦中におられる聴取という出来事の行き着く先である俺にたいする全否定に着目して、「おたくを完膚なきまでにブチのめそうとしている」と表現なさることもおできになるというわけです。


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