*科学するほど人間理解から遠ざかる第22回
快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しんでいるというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということですけれども、西洋学問では、事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」というふたつの不適切な操作を立てつづけになすことによって、快さや苦しさが何であるか理解する道をみずから閉ざしてしまうとのことでした。
では、快さや苦しさを西洋学問ではどういったものと誤解するのか。それをいま、この文章を閉じるまえに見ようとしているところです。
西洋学問では、「絵の存在否定」と「存在の客観化」という不適切な操作をなし、
- Ⅰ.俺が現に目の当たりにする物の姿、現に聞く音、現に嗅ぐ匂い、現に味わう味、現に感じる「身体の感覚(部分)」など、俺が体験するもの一切を、俺の心のなかにある像であることにし、
- Ⅱ.俺の心の外には、ただ「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素」だけが実在する
ということにします。
そうして身体をただの元素の集まりにすぎないものと解して機械(身体機械)と見、「身体の感覚(部分)」を、心のなかにある、「身体機械についての情報」とするとのことでした。
こうした「身体の感覚(部分)」の解し方をもうすこし詳しく見てみます。
俺が自分の目のまえに左手をかざしているある一瞬をお考えください。身体とはみなさんにとって、おなじ場所を占めている「身体の感覚部分」と「身体の物部分」とを合わせたもののことであるとずっとまえのほう*1で確認しました。みなさんにとって左手とは、言ってみれば、おなじ場所を占めている「左手の感覚部分」と「左手の物部分」とを合わせたもののことと申せます。
この例の瞬間に俺が目の当たりにしている自分の「左手の物部分」の姿は、俺の眼前数十センチメートルのところにあります。また、そのとき俺の「左手の感覚部分」もそれとおなじ場所を占めています。
ところが、ちょうど先ほど見ましたように、西洋学問では、
- Ⅰ.俺が体験するもの一切を、俺の心のなかにある像であることにし、
- Ⅱ.俺の心の外には、ただ元素しか実在しない
ということにします。そんな西洋学問の手にかかると、俺がこのときに目の当たりにしている自分の「左手の物部分」の姿と、そのときの俺の「左手の感覚部分」とは共に、俺の眼前数十センチメトールのところにあるものではなく、俺の心のなかにある映像と感覚であることになります。そして、俺の眼前数十センチメートルのその場所には、単なる元素*2の集まりでしかない左手が実在していることになります。
左手には「左手の感覚部分」が含まれないことになります。
科学が左手と考えるこの元素の集まりでしかないものを、左手機械とよぶことにしましょう。
「この左手機械についての情報」が、「左手機械」の各所から、電気信号のかたちで神経を伝って脳にいき、そこで映像と感覚に変換されて心のなかに認められたのが、その瞬間に俺が現に目の当たりにしている「左手の物部分」の姿と、その瞬間の俺の「左手の感覚部分」であると西洋学問では考えるわけです。このように西洋学問では、「左手の感覚部分」を、心のなかにある「左手機械についての情報」であることにします。
西洋学問では、左手を「左手機械」、いっぽう「左手の感覚部分」を心のなかにある、「左手機械についての情報」とするこの要領で、
- A.身体を「身体機械」とし、
- B.「身体の感覚部分」を、心のなかにある、「身体機械についての情報」であることにする
といった次第です。
西洋学問では、こうした身体の見方にもとづいて、快さや苦しさを定義づけます。
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