(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

「科学」には身体が機械にしか見えない(5/5)

*「科学」を定義する第5回


◆「身体のすり替え」(結論)

 さて、いま、科学がみなさんの左手をどう解するか、見ましたよね。簡単に言うとこういうことでしたね。

  • .科学は左手を、元素のよせ集まったにすぎないもの(「左手機械」)であることにする。
  • .科学は「左手の感覚」を、みなさんの心のなかにある、「左手機械についての情報」であることにする。


 こうした見方を科学は左手に限定せず、身体全体にするわけですよ。いま挙げたAとBの「左手」とあるところを全部、「身体」に置き換えてみてくださいよ。


 まずAからいきますね。科学は、左手のみならず、身体全体を、元素のよせ集まったにすぎないものであることにします。元素のよせ集まったにすぎないものと想定されたその身体を以後、身体機械と呼ぶことにしますね。科学でしばしばもちられる呼び名ですしね。


 つぎにBを見ますね。科学は、「左手の感覚」のみならず、「身体の感覚」全体を、みなさんの心のなかにある、「身体機械についての情報」であることにします。


 まとめると、こうですよ。

  • α身体を、元素のよせ集まったにすぎないもの(「身体機械」)であることにする。
  • β.「身体の感覚」を、みなさんの心のなかにある、「身体機械についての情報」であることにする。


 以上、科学が身体を実際とは別のものにすり替える次第を見てきました。みなさんにとって身体とは、おなじ場所を占めている「身体の感覚」と「身体の物」とを合わせたもののことですけど、「存在のすり替え」と「関係のすり替え」をする科学の手にかかると、身体は機械で、「身体の感覚」は、心のなかにある、「身体機械についての情報」であることになるとのことですよね。


 さあ、このように身体を機械と見なすことによって、科学は、みなさんにとって非常に大事なあるものに着目できなくなりました


 その着目できなくなった非常に大事なものとは何だと、みなさん、思います?


 快さ・苦しさ、ですよ。


 機械は快さや苦しさを感じたりしませんね。したがって、身体を機械と見なすと、つぎのどちらかになります。

  • 快さや苦しさを、見落とすことになる。
  • 機械に認められる何かとして説明しようとし、訳がわからなくなる(快さ・苦しさにどう着目していいか、わからなくなる)。


◆◆◆◆◆◆

そのことはこの全3回のシリーズで確認しました

◆◆◆◆◆◆

 

 でも、みなさんにとって、快さ・苦しさは非常に大事ですよね。みなさんそれを四六時中気にしているし、他人にもみなさんの快さ・苦しさに配慮してほしいと望みますよね。


 特に医療には、ね?


 今回確認したことを振り返りましょう


 最初に、俺、科学をこう定義づけてはどうかと提案しましたね。みなさんがあんパンを見ているとして、そのあんパンの姿を、みなさんの眼前数十センチメートルのところにあるものではなく、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにするものこそが科学である、って。


 科学はそうしてあんパンの姿を、みなさんの心のなかにある映像にすぎないことにしたのをキッカケに、「存在」「関係」「身体」、健康・病気、医学の使命といったありとあらゆるものを、実際とは別のものにすり替えていきます。前々回から今回にかけて、そのなかから、「存在のすり替え」「関係のすり替え」「身体ののすり替え」の3つを見てきました。その「身体のすり替え」の結果、科学には、快さ・苦しさといった、みなさんにとって非常に大事なものにまともに着目することができなくなるということを、いまさっき確認して終わったところですよね。


 そのように快さ・苦しさにまともに着目することができなくなった科学は、健康・病気、医学の使命をそれぞれ、実際とは別のものにすり替えていくわけですが、その詳細を次々作(短編集『統合失調症と精神医学の差別』)で見るつもりにしています。

 

◆◆◆◆◆◆

短編集『統合失調症と精神医学の差別』の予告編

◆◆◆◆◆◆





4/5に戻る←) (完)         

 

 




2024年4月3日に文章を一部訂正しました。


*今回の最初の記事(1/5)はこちら。


*前回(第4回)の記事はこちら。


*それ以前の記事はこちら。

第1回


第2回


第3回


*このシリーズ(全5回)の記事一覧はこちら。