知りたい宮島

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知りたい宮島 4 本殿 屋根 

2024年01月22日 15時54分23秒 | 貴方の知らない宮島
いよいよ国宝の「御本社(本殿・幣殿・拝殿・祓殿)」です。昔は「大宮」と呼んでいました。
厳島神社において、宗像三女人(後述参照)が祭神とされる様になるのは、鎌倉時代以降の事と考えられています。
古代においては、国内最高位に位置する「名神大(みょうじんたいしゃ)」の一つであったが、仁和4年(888年)以降は「大神宝使発遺(だいじんぽうしはつい)」の対象社となり、国内随一の地位を認められたと推定されています。

「*大神宝使とは」、天皇即位後,伊勢神宮以下諸社に神宝・幣帛の奉献のため派遣される使者を言う

御祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、端津姫命(たぎつひめのみこと)
宗像三女人で、アマテラスオオミカミとスサノオの誓(うけい)の結果から生まれたという女神らで宗像大神(むなかたのおおかみ)、道主貴(みちぬしのむち)とも呼ばれ、あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。 市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の3姫神とみなされ、「海の神で竜王の娘」といわれる。

龍神は古来、龍宮に住み、水神や海神として崇められてきました。平氏の財政基盤を担った日宋貿易を推進する為にも、海上交通の安全はまず第一であり
「水神」を信仰する事で海上の平安を守ろうと考えたのではないか?
実際に福原では、たびたび千人の僧侶が法華経を読経する「千僧供養」が行われている。法華経を写経することで、更なる功徳を求めたものと思われる。
「提婆達多品」の中では法華経の修行で、その道を会得した「8歳の龍女」が法華経の功徳により成仏する事が出来たと語られている。
「平家納経」では沙羯羅龍王(しょかつら)の第三の姫宮と伝え、また「愚管抄」にも、竜王の娘とある。

瀬戸内海の要衝であった厳島にとって、女神は平清盛をはじめ、瀬戸内海を航行する船乗りたちの信仰を集めるようになり、「平家物語」は
沙羯羅龍王(しゃかつらりゅうおう)の第三の姫君と伝え、技芸の神、福徳の神としても崇敬される様になる。

相殿神は国常立尊 天照皇太神 素戔鳴尊、その他30数柱の神様が相殿(あいどの)されています。
明治元年以前は、厳島弁才天もお祀りされていましたが、現在は大願寺にお祀りされています。

広さは日本一大きな本殿となっており(純粋な神社の本殿としては日本史上最大です)幅23.8m、奥行き11.6mあります。83.7坪の広さがあります
本殿が国宝指定を受けている神社は23社ありますが、畳を敷くと「165畳」の広さになります。

これは島根県の出雲大社本殿の約2.3倍の大きさとなっています。
神社には皇室の伊勢神宮 藤原氏の春日大社 京都鎮守の賀茂神社等々ありますが、春日大社と比較すると平安末期には厳島神社は社殿総量では約10倍位もの社殿がありました。いかに巨大であったかわかります。
厳島神社社殿

神社建築に用いられる「ヒノキ」は建材としては世界一の樹木である
強度・耐久性に優れ又、木肌が美しく光沢があり、塗装をしていなくても高級感が生まれる。
神社・・・・白木を使う
寺院・・・・彩色を使う

江戸時代後期になると、秀逸な彫刻で満たされる寺院建築が流行ってくる。
ここでは「彫刻の出来栄えを強調」する為に素木造りとされるのが「一般的」となる。

「両流造」
本殿は1168年に建立(仁安3年)、しかし元亀2年(1571年)再建。客殿は永享5年(1433年)再建
本殿。客殿は「両流造」の代表例である。
両流造は身舎の前後に庇を設けた本殿形式である
身舎(もや)とは
寝殿造りで,主要な柱に囲まれた家屋の中心部分。庇はこの部分から四方に差し出される。
家人が日常起居する建物。離れなどに対していう。おもや。ほんや。
棟木と軒桁(のきげた)の間にあって垂木(たるき)を受ける水平材。もやげた。 → 小屋組
正面側にだけ屋根が長く伸びる「流造」に対して、両側に屋根が付くので「両流造」と呼ぶ

厳島神社本殿・客殿が両流造りとなっている。
本社本殿は九間社(鎌倉再建以降は柱一本を省略して八間社)
客神社本殿は五間社の両流造で極めて大規模であり、特に本社本殿は、純粋な本殿としては
史上最大の面積を有している。
身舎(もや)を内陣として、そこに玉殿と言う小型の本殿を本社で六基、客殿で五基並べ正面の庇を祭祀
空間の外陣とし、背面の庇を「神宝庫」とする
本殿内に玉殿を安置するのは、海上に建つ為である。陸上の神社では、春日大社の様な小型の本殿でも
風雨に耐えれるが、海上の風浪では危ういので、小型本殿を玉殿として超大型本殿の中に格納した
ものと考えられる。その結果、史上最大の本殿が誕生した。
気比神社(越前一宮、福井県敦賀市)   気多大社(けた、能登一宮 石川県羽昨市)
宗像大社辺津宮「へつみや」(福岡県玄海町)  太宰府天満宮(福岡県太宰府市)
松尾大社(二十二社 京都市)
と言った著名な大社の本殿のみに応用されている。
背面側の「庇」については、特別に高い社格に基づいて神宝(じんぽう)を朝廷等から奉献される事が
多く、それを納める「神宝庫」としての機能があった。したがって一般的な神社には応用出来ない本殿形式。
なお、内陣に玉殿を安置するのは、海上に建つ「厳島神社」だけである。
庇付きの本殿
厳島神社本殿と客神社本殿は、四面庇本殿の屋根形式になっている。
切妻造りの身舎の正面に庇を付けた本殿形式の代表が「春日造」「流造」である
「春日造」・・・・・・身舎が妻入りのもの、  一間社が正式
「流造」・・・・・・・・身舎が平入りのもの、  三間社が正式
身舎だけなら、階段(木階きざはし)が雨に濡れるが、階段上に被さる「庇」が雨よけとなるので、
極めて実用的な形式で奈良時代に誕生したとされる。
切妻造りの身舎だけでは、硬直で単純な姿にしか見えないが、庇が付くことによって秀麗な造詣の美しさが
生まれた。屋根が桧皮葺(室町時代以降は杮葺も多い)である事も造形美を増している。
身舎(もや)は正式な「円柱」、庇は略式な「角柱」を用いて区別する事が大原則で、
神座である身舎の高い格式を強調
組木や蟇股などの建築装飾は、人目に触れやすい庇のほうに集中し、身舎は相対的に飾り気が少なく、
見えるところを飾るという、日本の伝統的な社寺建築の本質を如実に表している。
向拝(こうはい)・・・・木階(きざはし)に更に庇を付け足したような形
玉殿・・・・・神社本殿内に安置される小型本殿の神体の容れ物を「玉殿」と呼んでいる
厳島神社の仁治2年(1241年)の古文書に「御体玉殿(ぎょくたいぎょくでん)」と在るのが初見。
逗子・・・・・寺院本堂の内陣に安置して秘仏である「本尊」を奉安する容れ物を一般的に逗子と呼ぶ
鎌倉時代後期になって円柱や組物や屋根を供えた建築的な逗子が作られるようになり、
それは「空殿(くうでん)」と呼ばれた
「空殿」では組物は華麗な三手先が標準
「玉殿」では簡素な船肘木や平三斗程度である
寝殿造りの形態の神社は現在日本ではここ厳島神社のみとなっている

対屋(たいのや)形式の建物で、建物の前には祀りごとを行う「庭(平舞台)」があり、
その前には「池(鳥居までの海)」があり向って右側には「川」が流れている建物形式になっている。
また釣殿にあたるのが「客神社」となっている。更に屋根は「桧皮葺」
釣殿・・・・納涼・供宴を行う建物を言う
桧皮葺・・・ヒノキの皮を葺いたものを言う、寿命は約20年から30年

御祭神の三女人は、「海の神」「交通運輸の神」 の信仰対象となっています。
あらゆる「道」の最高神として航海の安全や交通安全などを祈願する神様として崇敬を集めている。

「天照大御神(あまてらすおおみかみ)が素戔嗚尊(すさのうのみこと)の剣をもらい、三つに折って「天真名井(あめのまない)」で洗い清めて、
噛み砕いて、吐き出すと「三柱の女神)が生まれ、(市杵島姫命 田心姫命 湍津姫命)。
「素戔嗚尊が天照大御神の「髪」に巻いた「玉」をもらい受け、噛み砕いて吐き出すと、息の霧から「五柱の男神」が現れる。(天忍穂耳命、天穂日尊
活津彦根命、天津彦根命 熊野櫲樟命)

平清盛
伊勢平氏の棟梁・平忠盛 の長男として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱 で最終的な勝利者となり、武士としては初めて太政大臣に任せられる。清盛(虎寿丸)の母は、召名(めしな)を「鶴羽(つるは)本名は、霞(かすみ)」と言い、元は仙洞御所(せんどうごしょ) に仕える。 仙洞御所・・・退位した天皇(上皇・法皇)の御所を言う 清盛3歳の時に、「鶴羽」がみまかる。 鶴羽の姉が「是非とも猶子に」と申し出る この姉が「祇園女語」である。 白河院第一の寵愛(ちょうあい)をこうむる。院の女房で大変な権勢を持っていた。
正盛・・・・・忠盛(の母は宗子)・・・・・清盛 で正盛を引き立てたのが「祇園女御」である     「清盛」の名前の由来
白河院は皇子(清盛)の事を気にかけていたが、ある時 皇子があまりに夜鳴きが激しいと聞いて次の「歌」を忠盛に送った
「夜なきすと、忠盛たてよ、末の世に、きよくさかふることもこそあれ」(その子が夜泣きをしても、大事に育ててくれ忠盛よ、将来 平家を繁栄させてくれる事もあるかもしれないのだから)
清く 盛ふる(きよくさかふる)この二文字から「清盛」と名付けたと言われている


清盛について

清盛25歳の時、父忠盛が武士として始めて内昇殿(天皇の居所)を許される。武士である忠盛が殿上の間に上がる
事を許されるのは破格の待遇であり、ある貴族は「未曾有の事なり」とある。忠盛の内昇殿も「千体の観音像」を納めた
「得長寿院(とくちょうじゅいん)」の造営の功により許されたもの。後年清盛が後白河上皇の為にと建てた「蓮華王院」
(33間堂)はこの得長寿院にならったもの。
清盛51歳(1167年)に出家して「浄海、静海」と言う法名を持ち、引退後は福原で千層供養を度々している。
清盛にとって尊崇する厳島を華麗に仕上げる事は明神への感謝の念もさることながら、平家の権威を高めるもの
であった。藤原氏の春日大社の様に有力貴族は一族の精神的支柱となる「氏神」を持っている。
「平野神社」があるが、八姓の神社としてであり、平家だけのものではない。平氏にも「氏神」が必要と考えた「清盛」
瀬戸内海を掌握し対外貿易を独占した「海の平氏」の権威の象徴として、それは神々しいまでの美しさをたたえて
いなければならなかった。それが「厳島神社」である 


また、清盛が「平家納経33巻」を奉納するにあたり、こだわったのが以下のとおりと思われます

清盛の「法華経」

清盛が特に「法華経」にこだわったのは、法華経信仰が盛んな時代背景もあるが
「堤婆達多品」に現れる「竜王」「龍女」の説話。 
「観世音菩薩普門品」が説く、観音による海難救助の説話に注目した為と言われる。

福原・厳島で千層供養を行ったのは「法華経の力」によって水神・龍神をなだめ
海の平穏を実現することで瀬戸内海の覇者としての存在を誇示するのが狙い。
特に清盛が重視したのが「堤婆達多品」で、この中には文殊菩薩が法華経を説いて
竜王の娘を「即身成仏」させる話がある。

平家納経の軸は伊都岐島神の象徴である「水晶の五輪塔が使用」され、見返しには
海中から出現した龍女が釈迦の前に「宝珠」を捧げながら進み出たところ、が描かれて
おり、清盛の龍神や龍女に関わる信仰を色濃く反映している。


平家納経が納められた長寛2年(1164年)、徳子(とくし)は堤婆達多品の龍女と同じ8歳
だったとも言われており、清盛が「自身を竜王」に「徳子を龍女」に見立てて将来の
入内への願いを込めたという説もある

 瀬戸内や宋との交易船の航海の安全を祈るため、又「瀬戸内海航路の要衝の地であった厳島」を篤く信仰する。
1177年10月14日には 盛・時子・中宮徳子・重盛ら平家一門が社参し、社殿内・廻廊にて「千層供養」を行う。
平時忠をして「平氏にあらずんば 人にあらず」と言わしめた。

幣殿
本来、幣帛(へいはく)を供える建物ですが、厳島神社では渡り廊下の役目をしています。
幣帛とは、神道の祭祀において神に奉献する物の内、神饌以外のものを言う。
(はく)とは布の意味で古代にあっては貴重であった布帛(ふはく)が神への捧げものの中心であった。

拝殿
参拝者がご祭神と向き合い、お祓い、参拝する施設です
この拝殿は「三棟造(みつむねつくり)」と言い、奈良時代の建築様式を色濃く残しているものです。
天井辺りをよく見ると、お賽銭箱より本殿に向かい2本目の朱塗りの柱まで屋根があり、更にその奥にも屋根があるのが判ります。つまり、拝殿の屋根の更に下側に二つの屋根があるのです。合計三つの屋根があるので、この様に呼んでいます。
清盛の住んだ京都の六波羅泉殿の寝殿も「三棟造」であったと思われます。
更には対岸、外宮にある「地御前神社」の拝殿もこの様な「三棟造」なっています。興味深いですね。

法隆寺の東大門(とうだいもん)も三棟造りとなっています、門を通る時には、上を向いて通って下さい。
祓殿
昔は「舞殿(まいどの)」と呼んでいました。お祓いをする処で、日本三大船神事の一つ「管弦祭」が行われる時には
鳳輦(ほうれん、神輿のようなものうを言う)が置かれる場所であります。
雨天時には「舞楽奉奏」などのも使われます。戦後はしばらくは、2月にここで「米相場」が立っていました。
床板は「楠」で、広島浅野藩の藩船(厳島丸)の材料が寄進さらたと言われています。
記録によると、床板は1.45m × 9.55m の楠を使用、最初の床材は、巾1尺6寸(約50cmくらい)の材が使用されていた。(板敷材 90枚 長さ2丈2尺 弘1尺6寸 厚2寸とある)

本社祓殿
本社 祓殿の広さは、100畳 あり。また平舞台は 660㎡(200坪)ある
お祀りの儀式を行う場所で、ここで祓いの儀を済ませた神官達は拝殿及び幣殿に進み祭典を執り行う
ただ、厳島神社で行う祭事のほとんどは客神社で先祭されるのでまず、客神社祓殿でお祓いの儀式が行
われて、そのまま本社祓殿に向うことになる。
平舞台・高舞台・左右楽房・左右門客神社はこの祓殿の附けたりで、国宝建造物とみなされている。

祓殿の天井
天井が出来るのは、平安朝末期からで、主屋にこの様な天井を張り、廂の間は「化粧屋根裏(垂木の見える天井)」
とし、つなぎ虹梁を掛けて側柱と主柱をつなぐ工法は平安末期から鎌倉初期にかけての工法で、
本社・客社の両祓殿などは典型的なもの。(折上小組格天井と言う)

かつては、絵馬・扁額が長押上にも掲げられており、明治の日誌類から見ると、明治11年(1878年)10月には
「36歌仙」の額が祓殿から降ろされ宝蔵に納められ、明治29年(1896年)2月には「山姥図」が掲げられたが
明治33年(1900年)の台風により全て降ろされた
祓殿では、能楽・謡・独吟などの奉納が祓殿で行われている。

厳島神社の社殿を「神殿造」とすれば、本社拝殿が寝殿になり、祓殿は南庭の部分に相当すると考えられる
ここでは、さまざまな「儀式・踊り(舞)・蹴鞠」が行われている(かつては祭典後の「直会」の場としても使われた
厳島神社では、こうした儀式や踊り(舞楽)などを行う為に恒久的な建物が必然的に生まれてきたと考えられる
床板は、幅1,45m。 長さ 9,55mあり、江戸時代以降の変更で「広島藩主」の寄進によるものである(楠木で出来ている)
檜皮について
桧皮葺の檜皮は寿命が約20-27年(30-35年とも言う)、檜皮は樹齢80年以上のヒノキの皮を剥離して取る。
一度剥ぐと次は10年後に再度剥ぐ、この繰り返し。長さは3m。檜皮は表面が「コルク質」で抗菌・防腐作用
がある。一度剥いだ檜皮は、厚さ1,2-1,5の厚さに削ぐ。これを檜皮として使用する。1駄(だ)、2駄と数える

最初に剥ぐ檜皮は「荒皮(あらかわ)」といい、使用できない。10年後に剥ぐ皮から使用する。この様な事で価格が高くなる
檜皮をずらす間隔は1.2 cmを基本とし、左右の檜皮を6 mmずつ重ねて葺き上げる。檜皮を5枚重ねたら2 cm程度の間隔で竹釘を打ち固定する。こうして葺いた屋根は厚さ10 cm程度になり、30 - 35年程度の耐用年数がある

参考に、大鳥居の屋根の部分は檜皮葺になっています、今回の修理における檜皮の状態は以下の通りです

杮の裏甲(檜皮の下の部分)は枌板(そぎいた)が積んである。
枌板は長さ1メートル、厚さ7センチくらいに重ねてあり、段葺きに葺いてある。
その上に「檜皮」を葺く、檜皮は「竹釘」によって止める、竹釘の長さは4.5センチ。ちなみに杮用の「竹釘」は長さ3.6センチである。
竹釘は"錆びず",”腐らず",50年間耐えることが出来る。しかし現在この竹釘を販売しているのは、兵庫県丹波市の「石塚商店」のみ、
神社で抱えている職人は別で、それぞれの職人がいる。
(竹釘を口に含み、素早く取り出して打ち付ける、口の中が荒れないように表面を滑らかにする技が重要で、職人になるには最低10年
  かかると言われている)
竹釘を職人が手に取って今から檜皮を葺く所です

現在日本には約4700棟の 国宝、重要文化財があると言われているが、その1/4を「檜皮葺き」「杮葺き」が占めている。
軒釘は、2500本/坪、平葺は4000本/坪 必要とされている。

日本の檜皮葺建物は、16ヶ所しかない
①仁科神明宮 本殿 中門 (国宝) ➁ 大善寺 本堂(国宝) ③出雲大社 本殿(国宝) ④厳島神社 本園 祓殿 摂社客 摂社客神社祓殿
廻廊東廻廊 廻廊西廻廊(国宝) ➄北野天満宮 本殿 石の間 拝殿 楽の間(国宝) ➅賀茂別雷神社 本殿 権電(国宝) ➆賀茂御祖神社
東本殿 西本殿(国宝) ➇石上神社 拝殿 摂社出雲建雄神社 拝殿(国宝) ⑨吉備津神社 本殿 拝殿 (国宝) ⑩清水寺 本堂(国宝)
⑪金峰山寺 本堂 仁王門 (国宝) ⑫善光寺 本堂 (国宝) ⑬大報恩寺 本堂 (国宝) ⑭室生寺 金堂 本堂 五重塔 (国宝)
⑮京都御所 紫宸殿 清涼殿 ⑯八坂神社 諸殿

正面の軒(もこし
正面の軒の中央部分を切り離して、一段上げる、面倒な工法がとられている。平安時代の建物にはしばしば
見られるが、その後はほとんど構えられなくなった。誠に美しい軒で、「平等院鳳凰堂(宇治市国宝)」
「日野法界寺阿弥陀堂(京都市伏見区・国宝)」などがその典型的な例として挙げられる。

二重虹梁・蟇股
祓殿の拝殿側の妻は「二重虹梁・蟇股」になっている。大虹梁、二重虹梁と二重に架け、「その間に3個
の蟇股を用いたもので、奈良時代以来多く使われた形式で雄大豪壮な感じがする。
虹梁は、下の長大なのを「大虹梁」、上の短い方を「二重虹梁」と言う。誠に巧妙な構架法である。

蟇股
平安形式で輪郭の曲線は、宇治上神社(京都市・国宝)のそれと、同じである
拝殿・祓殿(舞殿)、は鎌倉時代の仁治2年(1241年)の再建で全国最古の建物です。
** 「影弘解文」と通称される、仁安3年(1168年)11月の
「伊都岐島社神主佐伯景弘解」と
「伊都岐島社千層供養日記」は、平安末期の厳島社の社殿の様相を示し、かつ
それぞれの建物が当時の祭祀の中でどの様に使われたかを示す唯一の資料である
  以下この資料に基づき、記述をする。

「影弘文書」によれば、厳島社の建立は推古天皇の時代の事である、この時従来の板葺きを全て桧皮葺に改め
更に金銅により荘厳華麗を施したと、述べている
仁平2年(1152年)に平清盛が再興、但し現在の社殿は貞応元年(1222年)から建立を始めて
寛喜2年(1230年)に遷宮したと報告あり(厳島野坂文書1896)
大宮御殿は将軍・足利義昭から毛利輝元に命じて中興し、元亀3年(1572年)に遷宮した。

この造営による厳島社の建物規模は、本宮37宇、間数300間。外宮19宇、間数77間となっており、
従来より「厳島社」の祭祀を司っていた「佐伯氏」は島内外にこうした大規模な社殿を造営する事で安芸国内
での地位を強固なものとし、中央政府との繋がりを深めていったものと考えられる。
以後の修理・造営に関する費用は「国司の重任の功」をもって充て、神主職は「佐伯氏」が継承する事も
「影弘文書」には述べられている。

** 社殿の構成については
本社(大宮)本殿、屋根は桧皮葺で「宝殿」と称される、又 拝殿(三棟造)で「影弘解文」には「二棟」とあり、
火災の後の再建で「三棟」に変更されたのかも知れない。
幣殿にあたるものは無く、祓殿にあたるものは、現在の客神社祓殿と共に「舞殿」と記されている。
これらの「宝殿」「拝殿」「舞殿」が現在の本社・客神社のそれらと同じ位置にあり、その他付属する建物との間
を113間の回廊が結んでいたものと考えられる。
この様な厳島の海上社殿に
① 承安4年(1174年)3月に後白河法皇。 10月には「一切経」の法会がおこなわれた
② 更に治承元年(1177年)10月には、清盛ら平家一門により「千層供養」が開催され「行道会」が行われた
③ 治承4年(1180年)3月。9月と高倉上皇が参詣する。
この時の供は、入道大相国(平清盛)、前右大将宗盛、大納言邦綱、藤大納言実国、源宰相中将通親、
頭左中将重衡、宮内少輔宗範、安芸守在経、らであった.(源平盛衰記、巻23)
蟇股(かえるまた)について
祓殿の「蟇股」は平安時代末期のもので、特徴は左右が別々に作られている事です(二木造)合掌造とも言う。
蟇股(二木造)
蟇股について更に詳しく触れておきましょう
二木造りは珍しくなかなか見ることが出来ないと言われますが、京都の宇治上神社と厳島神社は約1168年頃に作られた物と言われていますが、一乗寺三重塔・醍醐寺本堂・中尊寺金色堂に見られる二木造りの蟇股は、時代が更に100年古く、約1065年位に作られた物と言われています。又見て比較するとよく解りますが、時代の古い蟇股は高さが新しい蟇股に比較して大分高い物になっています。
高さの高い蟇股は時代が古
高さの低い蟇股は時代が少し下がり、100年位あたらしくなります
又、刳り貫きのない 「板蟇股」と刳り貫きのある 「本蟇股」があります

寝殿造りについて触れると、
寝殿造りは社殿と中心に鳥が翼を広げたような形に、「渡り廊下」でつないで「対屋(たいのや)」を配し、前面には祭礼の場である「庭」、更に南には「池」を配する建築様式を言う

屋根は「桧皮葺(ひわだぶき)」
ここ厳島神社の屋根は全国でも珍しい、桧皮葺きに瓦を積んだ「化粧棟」となっています。
また、ツルが飛んでいるような優美な曲線を描いています。

本社本殿・客殿などは 五色の色が塗られています。これは中国の「陰陽五行説」に由来するもので
赤は 柱・梁・垂木                                                                白は 壁などの板材(神社では漆喰は使用禁止です、お寺は漆喰の白い壁をしよう)
青は 窓や格子戸・連子窓(緑青に塗られていた)         黄色は 材木の木口                                                                    黒は 蔀(しとみ)・破風板の上の部材


本社の拝殿(皆様がご祈祷・結婚式等を行う所)の横には、ご祈祷を待つ待合室があります。
この中に入られた方はわかりますが(一応断れば誰でも入れます、鍵はかかっていません)、入って真正面にとその左横に大きな
扁額は掛かっています。
真正面の扁額には、「従一位 源 長勲  俊 徳 」と書いてあります。 この源 長勲こそが「広島藩 最後の 第12代藩主 浅野長勲」です。
浅野家は清和源氏頼光流土岐氏の庶流で土岐光衡の次男・土岐光時が土岐郡浅野で「浅野氏」を名乗り光時に始まる土岐氏草創期の一族
であるとされている。本性が「源氏」で苗字が「浅野」であるから「源 長勲(ながこと)」と署名してある。
日本の江戸時代末から昭和初期の大名 政治家 外交官 実業家 社会事業家

左の扁額には「元 昭  明 光」とあります
これは毛利元就の子孫で「毛利宗家 29代当主 毛利 元昭」です
元昭(もとあき)は長州藩最後の藩主で、毛利元徳の長男である


祓殿で行われていた祭典は以下のようであった
当初は「直会(なおらい)」の場として使用されていた。
明治10年 「36歌仙板絵」 
明治29年 「長沢蘆雪の山姥図」他、多くの絵馬が「廻廊」「祓殿」にが掲げられていた、しかし明治33年に大きな高潮が発生、絵馬が流出する事となる、その為現在は「千畳閣」に一部を掲げ、残りは保管(170枚の絵馬を保有・これは日本一の数です)
明治13年 厳島学校生徒の社篭(しゃろう)が行われ、ここで昼食を取る
明治24年9月 29年6月 宮島で「海軍兵学校の運動会」が行われ、ここで昼食を取る
明治29年2月(旧暦)晦日に「相立場」が行われた、これは従来大晦日に行われていた「年越相場」にならって始めたと言われ、その後は「米取引」の形を取り入れた。「宮島相場」と言う、催しとし戦後はしばらく続いた。
明治29年10月 厳島町の各町内が社篭として、祓殿・楽房で酒宴を催した
明治32年10月 ここでの飲食の禁止、廻廊内を喫煙したままでの徘徊を禁止となる。
厳島小学校の「書道大会」も開かれ、
現在では「御衣献上式」や「市立祭」のお祓いなどの他に、諸芸能の奉納の場として使用される

明治4年には、千木・勝男木がつけられていた。
この年明治4年に明治政府より、神社のお参りには「二礼二拍手一礼」が始まり、昭和21年には廃止。現在はどの様な方法でもOK
明治34年に「古社寺保存法」により、千木・勝男木が下ろされる
明治34年1月28日から大正8年7月までは、俗に言う「明治・大正の大修理」がおこなわれる(20年かかる)

高舞台(国宝)
舞楽が舞われる所です。桃花祭・菊花祭などで舞楽奉奏が演奏されます
舞楽とは、管弦による舞踏のことで、振鉾・陵王・納曽利・万歳楽・延喜楽・太平楽・抜頭など二十数曲が今なお厳島神社に伝承されています。(舞楽の演目は三十六曲ある)
この舞台の擬宝珠には、1546年(天文15年)棚守佐伯房顕(たなもりさえきふさあき)の銘があり、奉納した事が判ります。(約468年前、本殿に近い方の一番左右の二つの擬宝珠に書いてあります)
ちなみに、この擬宝珠を造ったのは、廿日市の鋳物師で「久枝綱家」の作、五重塔の擬宝珠も同様です。
以下の文字が刻印されています。
「木帽子(擬宝珠)鋳奉檀那當棚守左近蒋監房顕天文十五年丙午六月」
きぼうし いたてまつる だんなとう たなもりさこんしょうげんふさあき てんぶんじゅうごねん ひのえうまろくがつ
檀那(だんな)・・・・・・施主のことをあらわしている。
左近将監(さこんしょうげん)・・・・・棚守代々の官職名
房顕(ふさあき)・・・・・・毛利元就時代の有名な棚守(現在の野坂宮司の先祖)

日本三舞台の内の一つで、大坂四天王寺の石舞台・住吉大社の石舞台を日本三舞台と云う。

舞楽を舞う人が「舞楽を舞うのにこれ以上舞台が小さいと舞えない」と呟くのを耳にします、
これは以下の様な考えのようです。
「高舞台正面の幅はほぼ本社祓殿の中央柱間と同じ大きさである、本社祓殿の原形は仁安の造営(1241年)の「舞殿」
であった。
この舞殿の前に置かれた舞台(高舞台)を使って治承元年の千層供養の時には舞楽が行われた様である。
舞殿(現在の祓殿)の中には蓋高座が設けられた、この蓋高座を使って千層供養時には舞楽が行われた
この蓋高座を高舞台の元祖と考えると、舞殿(祓殿)の中に設置しても使用できる大きさでなければならない事になる、
すると、おのずと舞台の大きさも限られて小さな舞台になってのではないかと思われます。

旧暦の6月17日には「管弦祭」が行われると先に言いましたが、旧暦では6月が二度訪れる年があります。
この時は「居管弦祭」と言う、管弦祭が催しされます。
居管弦祭(いかんげんさい)」とは、居ながら行う管弦祭の事で、御座舟は使用しません、高舞台を利用して、平舞台の上で行います。
高舞台の前に船の帆先を付けて祀ります(高舞台が御座舟の代わりをします)。
屋形と高舞台の間に12ヶ月の造花つけて飾る。
1月は松 2月は梅 3月は桜 4月は山吹 5月は花菖蒲 6月は若竹 7月は萩 8月は朝顔 9月は桔梗 10月は菊
11月は紅葉 12月は水仙 の花を飾る 。

この時は「鳳蓮」は移動しない(昭和5年・16年・35年・54年・62年に居管弦祭が実施されている.)

なお、この高舞台は平舞台の上に置いてある様に見えるが、実際は平舞台とは関係なく、海底から花崗岩の柱を建ててその上に高舞台を造っているものです。
高舞台
四隅の親柱の外側に直径4分(約5センチ)の穴が付いている。
これは「幡飾り付きの鉾」を立てるときに使ったものと思われる。こうした金具の取り付けは、
他の舞楽舞台には見られない装飾である
右楽房・左楽房(国宝)
舞楽の時に管弦を奏するところです。左右ありますが「舞楽」を舞う時には二つの流れがあります。
左の舞、・・・・インド・唐(中国)から伝わった舞を言い、左舞を舞う時は左楽房で奏します(これを唐楽及び林邑楽と云う)
右の舞、・・・・朝鮮半島から伝わった舞を言い、右舞を舞う時は右楽房で奏します(高麗楽及び渤海楽)

衣装については
右舞・・・・・青色(緑色)衣装で金具は銀色で、メロデイで舞うと云われています
左舞・・・・・赤系の衣装で金具は金色で、リズムで舞うと云われています

平舞(ひらまい)・・・・優美な装束を着て4人以上で演じるゆったりした舞い
走舞(はしりまい)・・・華燭な装束を着て1人、又は2人で演じる
番舞(つがいまい)・・一つの演目に対して割り当ての演目が決まっている舞い
             例:蘭陵王の舞と納曽利、 延喜楽と万歳楽 の様に

舞楽面も厳島神社に伝わっており、平清盛が大坂の「四天王寺」から舞楽を移した時には、「舞楽面」が9面伝えられた
その内7面は平氏の寄進によるのものである。
千層供養時には舞楽は24曲あり、その内12曲が現在も厳島神社で舞われている。

「舞楽」は平清盛によって、大坂四天王寺(聖徳太子が開く)から約820年前に伝えられたものが現在も神職によって伝承されています。
左右楽房・左右門客神社は、清盛が神社を建立した時にはまだ存在しておらず、当時は簡単な建物を立てテントで覆うて
、使用していたようです。(是を幄舎(あくしゃ)とも幄(あく)の屋と呼んでいた。
幄屋(あくのや)・幄舎(あくしゃ)・・・・・・五色の布で出来た一種のテントで祭礼日に臨時に張られた  

火焼前(ひたさき
廊嘴(したさき)とも言い、平舞台から突き出た部分をいいます。名前の由来は諸説あるようですが、昔管弦祭の時、御座舟が厳島神社に帰ってくる時に、ここに篝火を焚いて、是を目安に御座舟が入ってきた為とか、空から見ると回廊がうねうねとまるで「龍」がうねっている様に見え、その口先(舌先)の様に見えるので、火焼前・廊嘴と言ったと言われている。
大鳥居からの距離は「88間」あります
ちなみに、表参道商店街の出口付近の「注連柱」の左側(山側)には「回廊蘸影現龍姿(かいろうさんえいげんりゅうし)」と書いてあります。回廊の下に写る影がまるで龍の姿に見える。「芸藩通史」によれば、厳島神社は南北朝時代の後半において既に、龍王もしくはその娘龍女の館と考えられていた。また、「臥雲日件録」の厳島縁起に見られるところによれば、神社の回廊は室町時代の前期になると、大蛇が「とぐろ」を巻いている姿と考えられていた。
「明神の縁起をほぼ知る、昔推古天王の御字、一美人船に乗りて来る(中略)婦人遂に化して大蛇と成る」
厳島神社の祭神「市杵島姫命は娑迦羅龍王(さからりゅうおう)の娘
安芸厳島の「三箇秘事」として、「それ厳島大明神は娑迦羅龍王第二女なり・・・」とあり平安時代末期以来の理解がそのまま踏襲されている。

先端には、寛文10年(1670年)の銘のある青銅製の燈篭が、寛政9年(1797年)の築かれた石の台上にある、
左右門客神社の脇には、天明5年(1785年)銘の青銅製燈篭が二基並んでいる。
管弦祭の時にはここから、祖祭神を遷した鳳輦が浜に降りて、大鳥居沖に待っている御座船に乗せます、

平舞台らな屋根の無い部分を「平舞台」といいます。神殿造りの場合、前面に祀り事を行う庭があり、その前には池があり、池には右側から小川が注いでいないといけない、と云う決まりごとがあり、その庭に当たる所は平舞台です、前の大鳥居までの海を「池」に見立てています(玉御池と云う)。
束石は「赤間石」で毛利元就が寄進したといわれています。元亀2年(1571年)の「元亀の遷宮」に際しての元就の寄進
広さは「187坪」もあり、この平舞台は「束石」の上に載せてあるだけなので、台風などの高潮時には浮き上がり、その後は又元に戻ります。 束石は全部で218基ありました。
赤間石(安山岩です)・・・山口県宇部市辺りで産出する石で、高級すずり を造る材料です。
平舞台は清盛の頃よりあり、その時は廻廊と同じ朱塗りの高欄が設けてありました.
1177年10月14日の千層供養では大勢の人々が極楽浄土の仮装をして行列を組み境内を歩く「大行道会(だいどうぎょうえ)」の行事があり、その出発点が「平舞台」であった。

「元亀の遷宮」について
元亀2年(1571年)の本殿を遷宮している。本殿は3度建て替えていると、先に言いましたが、
1207年 本殿焼失8年後に遷宮                                                                 1223年 本殿焼失 遷宮は20年かかりました                                                                  1568年 和知兄弟の謀反(元就の長男・毛利隆元を毒殺したと言う、疑いのかかった兄弟が12月に本殿に逃げ込み                                       69年1月に本殿にて自刃する。)本殿が「血」で穢れたといい、建て替える。是を「「元亀の遷宮」と呼んでいる
1571年 本殿遷宮終わる

この時の遷宮における「お金」は現在世界文化遺産に指定されている「石見銀山」からのものです。
銀の供給を受け(銭に換算して約26万両とも言われています)。
この時の石見銀山奉行は「平佐就之(ひらさなりゆき)」で後に(1584年)銀山の狛犬を寄進している。
この狛犬が大変珍しく、薄い銀の板数枚を繫ぎ合わせて作ってあります、大変小さな狛犬ですが、大きな目をした愛くるしい顔をしています、切手にもなっています。
かつて、神社の廻廊には多額の寄付をした、檀那の名を記した「棟札(寄進札)」が掲げられていました。
主に戦国時代 114枚の棟札が記録されていましたが、その内23枚(約20%)は石見銀山の住人によるものでした。
時は「菊花祭」の時におおく参詣しています。

石見銀山は、当時山口 北九州 遠くは備前辺りまで支配下にあった「大内義興」の武力下にあり、大永6年(1526年)
3月には、筑前博多の豪商「神屋寿貞」によって始められ、鷺銅山(さぎどうざん)の門」とそ銅主「三島清右衛の弟子
や「堀子」たちを連れて入山する。
1533年8月には「神屋寿貞」は南朝鮮から「慶寿」と言う銀吹師(かねふきし)を招き「灰吹精錬(はいふきせいれん)」
と云う新しい技術による精錬法式を伝える。
この事により、銀山は目覚しい量産に入る(銀算出の歩留まりが大変高くなった)

灰吹き法による著しい銀の産出情報が伝わると、近隣の武将たちが狙い始めた。
銀山を目指して「大内氏」「尼子氏」が対立、大内氏が滅びると、銀山を巡る抗争は「毛利」「尼子」の熾烈な戦いとなる。
元就が完全占領するまで30年余り、激戦は8回にも及んでいる。

左右門客神社
清盛が厳島神社を造営した当初はありませんでした
鎌倉時代に新設され、室町時代に再々造られたものです。 門(もん)を司る神様で左右にあります。
厳島神社のご祭神をお守りする神様がいる所で、
右門客神社には、櫛磐窓神(くしいわまどのかみ)、 左門客神社には、豊磐窓神(とよいわまどのかみ)がお祀りされています。
中の玉殿は「見世棚構(みせだなかまえ)」の一間社流造(いっけんしゃながれつくり)になっており、
古くは戎社(えびすしゃ)と云う名で呼ばれていました。
玉殿を良く見ると、細部にわたり違いが有ります、意匠・木鼻、等々
流れ造り・・・・・屋根の軒の長さが、手前と奥川で違います、手前が長い作りをいいます。
玉殿の屋根は栃葺きとなっています。

屋根の葺き方
杮葺き(こけらぶき)・・・・・・最も薄い板を使用する(2~3ミリ)
木賊葺き(とくさぶき)・・・・・杮葺きよりも厚い板を使用する(4~7ミリ)
橡葺き(とちぶき)・・・・・・・・最も厚い板を使用する(1cm~3cm)、大和葺き(やまと)とも呼ばれるが

大国神社
厳島神社の摂社にあたり、ご祭神は「大国主命」がお祀りされています。
大国主命は、「国造りの神・農業神・商業神・医療神・縁結びの神」です
一段高い幣殿の右側が、昔 「神饌(しんせん)」の仮案所」で御本社裏の御供所から運ばれて来た神饌をここに置き
ここから先は「内侍」が運び本殿にお供えしました。
黒塗りの格子戸がありますが、これにまつわる面白い話があります
一説によると、大黒様は耳が不自由だったので、願掛けをする際には、この格子戸「コト・コト」と動かして、音を立ててから
お願いしないと願が通じないとも言われ、「コト、コト 大国様」とも呼ばれています。
なおこの神社は、「二礼四拍手一礼」となっています、神社本殿は二礼二拍手一礼、です。
四回も拍手を打つのは、お耳が遠いからと言われています。(ちなみに伊勢神宮は八拍手です)

4拍手の神社は全国で4か所となっています
1 弥彦神社(新潟県)
2 出雲大社(島根県)
3 祐徳稲荷(佐賀県)
4 宇佐神宮(大分県)

二拝二拍手一拝
拝礼を行う前後に、一般の会釈にあたる「揖(ゆう)」を行う。
「揖」には、「深揖(しんゆう)」と「小揖(しょうゆう)」があり、神前では深揖(45度身体を折る)を行う
「拍手」は神道では「かしわで」と言う。
伊勢神宮については
「八度拝・八開手(はちどはい、やひらで)と称し、起拝を5回行い、拍手を8回打つ」
八度拝・八開手は祭祀の際に神職が行うものとされていますので、一般的には「二拝二拍手一拝」でよいです。

なお、手を打つ仕草があるのは 日本 だけです
明治4年時の政府により二礼二拍手一礼は強制されましたが、昭和21年解除されました。
この時の名残が現在も残っています。本来何拍手でも良いようです。

長橋(国の重要文化財)
長さ33m、幅3m、橋脚には「赤間石(安山岩)」が使用されている。以前は「平橋(ひらはし)」と呼んでいましたが明治11年に
長橋」と云う名前になっています。

橋を渡りきったところに、「石柱」があります
明治の探検家、「松浦武四郎(1818-1888年)」は天神信仰に篤く、全国の「天神社」25箇所を参拝し、
明治17年10月に「聖跡25拝の石柱」を寄進しています。
北海道を命名した人。
以下、武四郎 について、簡単に触れておきます

松浦武四郎(1818-1888) 江戸時代の探検家 70歳没
三重県出身、 28歳の時に蝦夷地(えぞち)と呼ばれていた、
今の北海道に初めて渡る

アイヌ民族と寝食を共にし、協力してもらいながら13年間で6回の旅をし、
従来よりも詳しい地図や記録を残した。

明治の時代になり、蝦夷地の名を変える際に、
政府の役人となっていた「武四郎」が、
「北加伊道(ほっかいどう)」と言う名前から、
現在の「北海道」に決まる(1869年明治2年、8月15日)
「武四郎」はアイヌ民族の長老から、
「ここに生まれた人を、カイ、と呼ぶ」と教わり
「北にアイヌの人々が暮らす大地」の意味を込めて命名した
アイヌ民族との親交がうかがえる。

札幌、富良野、など現在179ある市町村名の約8割が、
アイヌ語が由来になっているそうだ。
2018年は150年目の節目になる。2020年の東京オリンピックの年には
南部白老町(しらおい)にアイヌ文化の発信拠点となる
国立の施設が完成する予定。


天神社
弘治2年(1556年)毛利隆就により建立されています。
この時は「天満宮」として建立しましたが、後に「天神社」と記しています。全国には約12.000社あると言われています。
御祭神は「菅原道真」がお祀りされています、学問・受験の神様です
ちなみに、道真の起源は「天神社の祭神の内の一人、天穂日命」であります
京都から博多までの間に、特に菅原道真にゆかりの深い社を「聖跡25拝」と言っています。

菅原道真・・・・・「菅原家」は「天穂日命」に起源を持ち、曾祖父古人(ふるひと)の時代に学問をもって朝廷に仕える家柄となる。
祖父「清公(きよきみ)」は私塾を設け、同所から朝廷の要職に数々の官人を出し、菅原家は一大学閥となる
宇多天皇のときには大変重用される。(道真は正論を掲げ、天皇であっても遠慮なしに進言していた、これが
宇多天皇に重用されるもととなった、一つには香川県・讃岐国に栘封されて世の中の見方が変わったとも言われている、しかし九州の
太宰府に送られての2年間(59歳で亡くなる)は、一切の恨み言は言わなかったと言われる。  醍醍醐天皇の時には右大臣(律令制においてはナンバー2)にまで上り詰める。
江戸時代の年号は、ほとんど道真の子孫により名が付けられた、幕末の「慶応」はもともとは「平成」の元号になるはずであった。
* 60代 醍醐天皇の時、藤原時平の陰謀によりに讒訴(ざんそ)され大宰府へ送られる。 
讒訴(ざんそ)・・・虚位の告発を行って貶(おとしめる)める事を言う
素木(しらき)造り・桧皮葺きの入り母屋の造りとなっています。
明治の中ごろまでは、ここで「連歌の会」が開催されており、別名「連歌堂」と呼んでいます。
ここで行われる「連歌」は100の連歌と繫げる「100韻連歌」が行われていました。
上の句「五・七・五」 下の句「七・七」と繫いで歌うので、100韻連歌とよんでいました。

連歌の楽しみは、人が一つのサランに集まると言う楽しみでもある。 公家や武家・貴族たちが、物好きの僧を交え、
毘沙門堂などに何日も篭って「百韻の連歌」のどを完成する。この様な時のサロンの楽しみは連歌が流行する以前
の人が想像する事の出来なかったものであったと言う。また、連歌の世界も下克上となろ、辺りの百姓や職人、
時には野党のたぐいまでが、それぞれサロンを組んで連歌の興行をするのである。これを「地下連歌(じげ)」と言った
地下の連中は公家や大名とは違い金や物を賭けて勝負を争うのである、その様な連歌のグループが方々に出来ていた
自然「天者(てんじゃ)」は手が足りぬほど忙しい、「天者にならぬ人ぞなき」と言う落書きが二条川原に建武2年の頃でたと言う。

神社本殿にあるまじき作りの、土壁(漆喰塗り)が使用されている、これはあるまじき事で社殿建築
には壁土は使わない(板塀を使用、本殿祓殿を見ると良く理解できる)、本殿との時代差は388年
三方に蔀(しとみ)があって開放的(枕草子などには「御格子(みごうし)」と記されている
(雨風を防ぐ戸は「蔀(しとみ)」形式で戦国時代の建築様式が用いられている。)
漆喰が塗られた室町時代の「武者造り」と呼ばれる建造物。桁行3間、梁間3間の真四角な建物である

能舞台
室町時代末期に出来た比較的歴史の新しい社殿、2001年(平成13年)には世界無形遺産になる。
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永禄11年(1568年)、毛利氏は観世太夫宗節(かんぜだゆうそうせつ)を招き仮の能舞台を海中に設けさせ、「能」を奉納する。
後に広島藩主となる、福島正則が慶長10年(1605年)に能舞台を寄進する、現在のものは宝暦8年(1680年)第四代広島藩主の浅野綱長により、舞台と能楽屋、橋掛かりが造立されたものです。
特徴としては、日本で唯一海中に建立されていることで、切妻造りである
笛柱が独立しているのも特徴の一つです。
海中にある為、本来床下にあるはずの共鳴音を出す為に置かれている「甕」がありません、代わりに床下の根太が
三角形でその上に床板を張り、大きく響く様に工夫してあります。
ここで、能が舞われる日にちは決まっており、毎年4月16・17・18日の三日間行われます、
桃花祭神能といいます、当日は廻廊と同じ高さで、「海中」に桟敷が作られ、そこで能を見ることとなります。
能を見る「料金」は別に無く、厳島神社への拝観料として「300円」支払いますが、これで「能」を見ることが出来ます。
初日と二日目は始めに「翁」が舞われ、三日間とも五番立てで、間に「狂言」が入り、江戸時代から続く本式な能を見ることが出来ます。
重要文化財の指定を受けている、六舞台の内の一つです。能楽屋と共に指定を受けている能舞台はここだけです。

能の起こり
毛利元就によって、永禄6年(1563年)を始めにして度々奉納されている
永禄11年(1568年)には観世太夫が下向した際に、
「前略、江の中に舞台を張らせて九番の演能あり、その後、棚守房顕の屋敷で舞台を張らせて十一番を演じた」
と「棚守房顕記」に記されている。
毛利元就に替わり福島正則が芸州の藩主となり、その後は紀州より浅野氏の支配下になった頃から
厳島は藩直属の「宮島奉行」「宮島元締役」「宮島帳元」が置かれ、また交通機関の発達と共に、
神社を中心とした「観光地」の性格を帯びるようになった。
春・夏・秋 の三期の市も立ち、「福島」「浅野」の時代を通して演能が行われ、宮島は次第に賑やかさを増す。

明治時代になり祭典が「新暦」となり、春の大祭を「桃花祭」とし、従来の3月15日を一ヶ月遅れの
4月15日にして、16日から3日間を「桃花祭神能」とする。

16日(初日) 喜多流 *
17日(2日目) 観世流 *
18日(3日目) 喜多流 *


初日と2日目は最初に、天下泰平、五穀豊穣を願う「翁」が演じられ、3日間とも「5番能」が演能される
(時には他派が演じることもある)





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