知りたい宮島

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知りたい宮島 詳細編 9

2023年03月25日 17時56分49秒 | 貴方の知らない宮島
秀吉の造った経済都市
秀吉の行った最大の事業は、貨幣経済(又は流通経済)について徹底的な合理化を行った事
国内の重要な商品(米・木材)の市を「大阪」に置いた。あらゆる重要商品の取引は大阪で行わなければならなかった。
大阪せ「相場」が立ち、それが全国の値段になった。 日本最南端の米も、最北端の米も「大阪」に運ばれ相場が立ち
再び全国に配られた。その為「海運業」が発展した。
この様に、秀吉は全国経済の唯一つの「核」を大阪に沖事によって日本中を支配した。

例として、九州「島津」をあげると、
九州全州を支配していた「島津」を秀吉は全力を挙げて討つ。
やり方は相手の息の根を止めるのではなく、あくまで「戦争」を外交の手段として使い、相手に致命傷をおわせる事無く
戦争終結させる「名人」であった。
島津を元の領地(鹿児島)に閉じ込めてしまうが、島津は秀吉を恨まなかった。なぜか
島津は実は経済的に困っていた、大きく膨張した家臣団たちを、鹿児島一つで、養うのは無理であった為。
秀吉の、奉行の一人「石田三成」が島津に対する事務的な終戦処理をおこなった。
内容は「財政思想を転換すれば、小さな領土でもやっていけます」と言って、大きな方法と、小さな方法を教える。
大きな方法
   米等の重要な商品は、領内での消費分を除くすべてを、大阪の市場に運んで現金化する

小さな方法
   帳簿の作り方。近代的な簿記の様に精密なものではなかったが、その祖形とも言うべき帳簿思想を島津に教える

秀吉の城造りにおいて、完成後にはそこには、城下町が出来ていた。
作事人には、当時としては珍しい、「銭」によって労働の対価を支払った。すると、そこには店が出来、店が出来ると
更に人が集まり、商人が集まり、町が出来上がっていた。

城の構造の基礎は「石垣」であり、石垣をさまざまにめぐらす事で外郭を作り出す。
この外郭は当時(1600年代秀吉の時代)の建築用語で「惣構(そうがまえ)」と呼ばれた
当時は、土木の事を「普請(ふしん)」と言い、建築の事を「作事(さくじ)」と言った。
土木技術の方が建築よりも高度とされた。
当時の秀吉は「土木家」と言われて良いほどに十分な経験を持っていた。
「大阪城」のマスタープランは「秀吉」が作った。なお秀吉の政権が誕生したのは1582年である。

縦引き鋸は室町時代(1336-1573)、大陸や朝鮮半島から 二人挽きの大型縦挽き鋸(大鋸 おが)が伝来する。
江戸時代になると、鋸「前挽き」や細工用の鋸など、各用途に適した鋸が出来る

出雲大社は昔は高さ96メートルあったと言う、現在は24メートルである。
注連縄は左本右末で厳島神社本殿と同じ

 古くから千畳閣の呼び名で親しまれた豊国神社は、近年屋根瓦の老朽化が進み
野地板等の傷みが放置できない状態になったため、昭和60年(1985年)
7月からその保存修理の調査及び工事を開始しました。(34年前)
 瓦は奈良瓦を使用し、その総数54,529枚の62.5%にあたる34,071枚を取り替えました。
本瓦葺で、平瓦は筋葺、箕甲は破風への重量軽減のため空葺とし、
平成元年(1989年)3月、45ヶ月の工期を経て完成しました。

大元公園 モミの原生林  弥山の登山コース  厳島八景の一つ  大元桜花

大元神社
重要文化財 ・摂社 ・三間社流れ造り ・板葺、
本殿の玉殿は嘉吉3年(1443)の造立、本殿は大永3年(1523年)の再建
ご祭神は、国常立尊、大山祗尊、保食神(うけもちのかみ)などで3神で、厳島神社よりも一番古くからお祀り
している神社。(地主神と言われている)。屋根は杮葺(こけらぶき)で大変珍しい、六枚重三段葺「大元葺」
と呼ばれている。壇葺・・・杮板の屋根面に木の桟が打たれ壇葺になっている
中世の絵巻物の中でしか見られないもので、現存する唯一の建物である。
毎年1月20日、百手祭が行われ、神餞(しんせん)は古い形式を残し、熟餞(じゅくせん)である餝飯(ほうはん)を
お供えします。百手祭の中で「鬼射」がおこなわれ、終わると直会(なおらい)がおこなわれる、「直会」に
「餝飯ホウハン」を食べる。流鏑馬神事が行われる。厳島八景の一つ「大元桜花」として、名所になっていた所
御島巡りを無事成就したお礼に、大元神社に額「報賽額(ほうさいがく)」を奉納する慣わしがある。
大元神社の奥にはあせ山(血山)があった。他にも不動堂の山側にあった。厳島服忌令が発布される。
1684年江戸幕府による「服忌令」が発布、26年後の1710年2月には「厳島服忌令」が発布される(喪に関する法令)


宮島歴史民俗資料館(旧江上家住宅)    国指定登録文化財
江上家は醤油の醸造販売を営み、幕末には島内でも並ぶ者がないほどの豪商で
あったとされる。厳島神社廻廊の出口の石橋や、国民宿舎みやじまの杜の宿前
の石灯籠は江上家の寄進によるものである。
主屋は1840年代に建てられたと言われている、江戸時代の特徴ある宮島の民家
の姿をよく伝えている。(170年前の建物)
二位の尼像、色楊枝 誓真が作った「杓子」
江上家の「玄関・旧台所」にも、台所の天井に「エツリ」を見ることが出来る
竹割りを編んで要所要所を垂木に釘打ちで打ち付ける工法

粟島神社  末社
滝小路にあり、商業・醸造・医薬の守護神で、諸々の病気平癒・家内安全の神です
男神ですが、女性の守護神で特に安産の神として信仰が篤く、5月3日に例会が行われる
御祭神は「少彦名命すくなひこなのみこと」で安産、家内安全で、女性の信仰が
篤い神社。例祭は5月3日で参拝客が絶えない。
神社裏から大聖院に至る白糸川に沿う、滝町は宮島で最も早く家が建ったと
言われ、石垣のある道路の山側には神社に仕える神職の屋敷や寺院が並んで
いた。上卿屋敷など

上卿屋敷
国指定重要文化財建造物 入母屋造 江戸時代の神職の屋敷 鹿戸
上卿は棚守、祝師(ものもうし)などとともに、厳島神社を司る主要な神職の一人であった
石段を上がると表門があり、このもんの形式を「薬医門やくいもん」と呼ぶ、門に打ち付けられた
祈祷札から17世紀元禄期に建てられたことが判る。この庭は江戸時代中期の
「池泉鑑賞式」の庭園と云われ、広島県内の名園の一つに数えられている。

元禄16年(1703)頃建てられたもの、
昭和48年宮島町は林家住宅を「町文化財」に指定。
昭和53年1月21日に敷地と共に国の重要文化財に指定
昭和58年に復元整備が完成する
がんぶりがわら
屋根は桟瓦葺である、棟は瓦を積み上げないで、大きな「雁振瓦」
を伏せてあるだけである。かつては宮島の民家ではよく見られた
棟工法であったが、今ではほとんど見ることは出来ない。
入母屋の中の妻飾りは「扠首(さす)」と「扠首束(さすずか)」である。
民家でこれを設ける事は珍しい。(神職の屋敷であるからかも知れない)
懸魚は「切懸魚」で寺社のものとは違っている。
玄関上には千鳥破風があり、懸魚は「蔐懸魚(かぶらげぎょ)」である
鰭(ひれ)はかなり込み入った若葉の絵菜の彫刻で「室町時代末期」の風格がある。
台所の天井には「エツリ」を見ることが出来る
竹割りを編んで要所要所を垂木に釘打ちで打ち付ける工法
江上家の「玄関・旧台所」にも見ることが出来る

宝蔵
重要文化財 寄棟造 桧皮葺
校倉造りの建物、当初から「神庫」と称して神社に奉納された宝物を収蔵していた。日本で31棟ある(国宝11棟)
校倉造りの巧みな防湿効果によって宝物を守ってきた、壁を形成する「校木」は外気の乾湿の度合いによって、
その重ね目が開閉する、こうして内部の空気の流れを良くし、湿気を防いできたのである。東大寺の正倉院と同じ
1168年には既に出来ていた(平家納経は1164年に奉納されている)その他、多くの美術工芸品などの宝物
は、平安期以来800年間この中に大切に保存されていた。
昭和40年に厳島神社収蔵庫が出来るまでは、国宝「平家納経」をはじめとする、数多くの珍宝の類がこの中に
厳重に管理されていた。江戸時代には前面に「拝見所」が設けられ、参拝者が宝物を拝観していた。
7月7日の虫干しの日に際しては、本社に宝物が並べられ参詣の人々は拝観する事が出来た。
また、この日が夏市の最終日であった
校倉造   現在日本では31棟ある  その内「国宝の校倉造は11棟」ある、
奈良時代はこうそう(校倉)と呼ばれていたが、やがて訓読みで「あぜくら」となる

正倉院(756年6月21日建立)、今から約1260年前
100年ぶりとなる大修理が平成26年10月に終わる(3年2ヶ月かかる)。瓦35、000枚の内、8世紀の
瓦が843枚残っていた。その内状態の良い瓦279枚はそのまま使用する。

「校倉造り」
湿度により壁が伸縮し、内部の湿度を保つと言われているが、近年は「実際には伸縮しない」との説は一般的だ。
しかし、今回の修理で梅雨時に埋めた壁の隙間が、秋には開いているのが確認された。
「1200年以上たっても木は生きている」、定説の復権につながると思われる・

「校倉造り31」の時代別内訳は以下の通り
奈良時代  7棟 室町時代  5棟 また31棟のうち 13棟が不等辺六角形。  
平安時代  2棟 桃山時代  3棟 18棟が不等辺五角形 となっている
鎌倉時代  2棟  江戸時代  12棟
鎌倉時代は六角形で(厚さが薄く)、
室町時代になると五角形で(厚さよりも高さが高くなる)
厳島の宝蔵は、五角形の断面をした木材を組み合わせた校倉(あぜくら)としては最古の建物であ


 室町時代  奈良時代
 厳島  東大寺
  末坊



江戸時代  平安時代
多賀神社  聖語蔵
(広島県
 府中町)



藩主や幕府の巡見使などの来島社参に際しても「宝蔵」の宝物拝観が定例化していた
長崎奉行は任地への往路・復路で厳島に来島し、社参・宝物拝観をする事が慣わしと成っていた。
元禄10年(1697年)7月7日の虫干しの日に際しては、本社に宝物が並べられ参詣の人々は拝観する事が出来た。
明治30年(1897年) 現在の社務所付近に「宝物陳列館」が建設される
昭和9年(1965年)には現在の宝物館が竣工する
昭和40年(1934年))には厳島神社収蔵庫が完成、宝蔵にあった物が移される


昭和20年9月17日 宮島の戦後はこの災害復旧から始まったと言える、二度とこの様な災害が起こらない様に、
又 山を愛する願いを込めて、その時流れ出た多いわを川沿いに置いた
「潮の香の みたらしふくみ 初詣」 と名叛が付けられている

三翁神社の手前、社務所の前及び、宝物収蔵庫の前に 尻上がり狛犬「一対」がある,人生全て、尻上がりに良くなる事を祈願して
奉納されたことから、特に「富くじ」フアンには富札を左手に、右手で狛犬の頭をなでながら縁起をかついだ。
ここにある注連柱を見ると、ハワイの住民からの寄進とわかる。これは対岸の地御前村の人々による寄進です
地御前村は貧しく広島県下でも2番目に貧しいとも言われ、「移民」の方々の多い村でした。その方々が移民先で成功され
その寄付により建立されたものです。

紅葉谷川庭園砂防
1945年(昭和20年)9月17日
枕崎台風が直撃、土石流で紅葉谷川筋が被災、厳島神社が埋没。1948年(昭和23年) 自然の石を生かし、
コンクリートは人の目に触れないように工夫して工事をする(自然に溶け込んだ美しい庭園砂防)
平成20年白糸川渓流砂防完成(平成17年被災),土砂は18000トン(10トンダンプ、1800台分)

紅葉谷川は、上流は紅葉谷川、中流は御霊川(ごりょう)、 下流は御手洗川と呼んでいる
御手洗川は昔、御供米を洗ったところから、この名が付いている。

四宮神社
末社  たのもさん 四宮神社祭
ご祭神は、加具土神(かぐつちのかみ、神話における火の神)で祭礼は旧暦の8月1日(八朔)で夕刻になると人々が飾りつけをした
「田実船(たのもせん)」を四宮神社に持ち寄り、ご祈祷を受けた。右ページ参照
後、米粉で作った家族の数の人形と、守り神としての犬の人形を船の中に入れ、ローソクを提灯に灯し社殿
(火焼前前)や付近の海岸から船を流します。厳島は田畑を耕すことを禁じられていた為、島民の農作物への
感謝の気持ちが厚くまた、家内安全・子供の健やかな成長を願っておこなわれる行事。
対岸の大野の人々はこの「田実船」を引き上げると、その年は豊作と信じている。

三翁神社  摂社
一間社流造の桧皮葺、 桃山時代の様式を持った本殿三社が並び、
入り口には宮島で唯一の銅製の明神鳥居
平安時代清盛が、比叡山延暦寺の鎮守の山王社(日枝神社)から勧請したと伝えられている
当初の祭神は、佐伯の翁・岩木の翁・所の翁であったと伝えられている。
祭礼は毎年10月23日で祭典中に舞楽が奉奏される(舞楽を見ることの出来る陸上の神社)。この場所は
昔「坂本」と呼ばれていて、比叡山の山の麓「坂本の山王」「明治以前は、山王社といわれていました」を
勧請したといわれています。江戸時代には傍らに常設の芝居小屋があり、大変賑わっていました。常設になる
のは元禄期からと云われ、「御垣ヶ原(みがきがはら)」と呼ばれていた神社裏にあった。大芝居と称した歌舞伎
ばかりでなく、曲芸や人形浄瑠璃などの演じられ、神社にちなみ「明神座」と呼ばれていた
ご祭神は以下のとおり

中央   佐伯鞍職、所翁(ところのおきな)、岩木翁、安徳天皇、二位の尼、
大綿津見命(だいわたつみのみこと) (いわのきのおきな)、
左殿   大巳貴命(おおなむちのみこと)、猿田彦神(瓊瓊杵尊が天孫降臨した時、道案内した神様)
(向かって右)
右殿   竹林内侍(たけばやしないし)、徳寿内侍(とくじゅないし)  御子内侍(みこないし)
(向かって左) 上﨟順では
1番竹林内侍 2番徳寿内侍 3番御子内侍 となる

竹林内侍、内侍の中では一番トップの内侍である
ここに平清盛の御霊が祀っててあった・・・今は清盛神社に祀ってある。

この辺りは島内では数少ない平地で「御垣ヶ原」と呼ばれていた
宮島歌舞伎は江戸時代の中期には既に歌舞伎芝居として行われていた.富くじもあり
1682年刊行の、井原西鶴の「好色一代男」に宮島への旅興行の歌舞伎芝居が載っている事から江戸時代の中期には
歌舞伎芝居が行われていた。6月の夏市(管弦際)の宮島芝居は好評を博し、1825年(文政8年)には、全国の芝居を
番付けにした,「諸国芝居繁盛数望(くにぐにしばいはんじょうすもう)」では前頭5枚目に位置づけられていた。
こうして宮島は歌舞伎・浄瑠璃のみならず、瀬戸内海西部地域の芸能文化の中心地の役割を果たしていた。
義太夫の創始者で初代竹本義太夫もここ宮島の小屋で芸道精進したと言われている。
1800年代からの触れ込み番付口上錦絵には、来援俳優の名前があり
天保6年(1835年)市川海老蔵、天保12年(1841年)尾上(おのえ)菊五郎などが来援公演していた。
特に市川海老蔵はたびたび来演し
七代目 市川海老蔵 8代目 団十郎は神社の永代常夜灯を奉納している
千畳閣にはその奉納額が掲げられている。
「厳島絵馬鑑(天保3年1832年刊行)に、初代及び二世の市川団十郎の芝居絵(元禄17年)が
「俳優竹抜五郎の図」として回廊に掲げられていたとあり、これを市川海老蔵が見たと記されている

現在の社務所辺りは、昔「明神座」があった所で厳島大明神にちなんで名付けられた。
琴平・出雲・宮島、が西の三大歌舞伎で 宮島で500両、琴平で500両、取って千両役者と言う・・・・・説がある

三季の祭り、 春(桃花祭)、 夏(管絃祭)、 秋(菊花祭)は 祭礼市を継承するもので
羅紗(らしゃ)、虎革(こひ)、繻珍(しちん)、白紗綾(しろさや)、白砂糖等、江戸時代の初期、
船載品が売買されており、鎖国以前には貿易市場となっていた。

宮島奉行所跡   寛永12年(1635)、広島浅野藩は宮島に奉行所を置き、明治維新まで町方として支配した
浅野藩の支配は①町と在(ざい)郡村農村(年貢徴収)②浦方(海辺島の郡村、船奉行の配下・船を動かす)
に区別、町政は①広島城下 ②三原 ③尾道 ④宮島の4町  宮島奉行は38名が在任する
(1635―1868年、233年間)

幸神社
厳島神社末社道祖神社   午王社(ごおうしゃ)・・・かっての名前
ご祭神は猿田彦神で道祖神、町も幸町と言い、かつては神社の前の通りに金鳥居があったと言い伝えられ、
「芸洲厳島図会」にその絵が書かれている。
例祭は旧暦の8月15日(新暦9月12日)である。この日は「ススキ」と「萩」が配られ、神社の中を見ることが出来ます。
神社の裏には「陰陽石・・陰石(女石)  陽石(男石)」があり、道祖神のご神体と云われ道祖神社とも
呼ばれています。子宝の神、疫病や火難・水難を封じる神、日々の幸いをもたらす神,として大切に崇め
られている。導きの神、旅の神、安産子宝、夫婦和合の神(縁結びの神とも言われる)、
鳥居の横には、往来安全・碑(石灯籠)が在り、「往来安全」「天保二(1831)年辛卯(かのと・う)三月吉日」
と書かれている。 (180年前)
一間社流造の本殿と拝殿・幣殿があり、また石造りの四脚鳥居がある、石の玉垣を前面に造っている、
その石段を降りた所に未完成の鉄鳥居(金鳥居?)がある。昔はこの辺りに辻君(立君)がいたと伝えられている。
入り口に明治30年(1896)の石鳥居あり、「芸洲厳島図会」にも同一場所に見ることが出来るが、
笠木の屋根の部分が桧皮葺の様に見えるので、当時は木造の鳥居であったと推測される。
前には「往来安全」と記す「天保2年(1831)」銘の石灯籠1基ある、厳島図会にはこの場所には石灯籠は
描かれていないので他の地点から移動してきている。厳島図会発行は天保13年1842年)
玉垣(天保6年1835年)銘あるが、これも厳島図会には描かれていないので他よりもってきている。

金鳥居(かなとりい)
高さ5丈(15m)、鉄にて、回り8尺(2.4m)、神前より3町(327m)御王前(ごおうまえ)と言う所にあり、
即ち金鳥居の町と云う1800年には幸神社

宮島「幸神社」の中には、木造りの向かって右に「角のない獅子で口を開けた阿形」
「左には角のある狛犬で吽形」,木造りの獅子・狛犬を一対、本殿「大床」に置いて御扉を守るのは、
平安時代の伝統をふまえたものである。(神社本殿では廻縁の事を「大床」と言う)
宮島遊郭跡   
桟橋前の「潜龍門(センリュウモン)」の入り口辺りに大門があったと伝えられている。
江戸中期の全国遊郭番付けには前頭3枚目にランクされるなど広くその名が知られていた。

町屋通り
宮島が最も華やいだ時代のメインストリートとなっていた古い町並みで、江戸時代に建てられた商家や民家
が残っている。切妻造りで平入りの構造。表の間を「店(みせ)・二の間を「おうえ」、階段室・神棚がある
奥の間を「座敷」と言う。縁側・中庭・廊下の先に便所・風呂場・反対側が台所となっている。
1630年頃に埋め立てられ、江戸時代後期(1780)頃には表参道が埋め立てられていた。
町屋通りが埋め立てられてから約150年後のころに埋め立てられた(江戸時代1603―1868年)
明治になって、更に沖が埋め立てられた(海岸の家ぎりぎり辺りまで)
吉田家は間口4間、もとは畳屋であった事から「みせ」の床は取り除かれて「土間」になっている
屋根は「平入」りで創建は18世紀後半(1700年代の終わり)頃、その他に「河内家」「熊田家」
「村上家」「武本家」などがあったが、現在はありません。

宝永7年当時(1710)、島民には五穀や野菜の栽培、木材の伐採などが禁止されていた、島の土地を傷つけ
ない様にとの配慮から出た物と思われる、島内で犬を飼う事も禁止(鹿・猿を驚かせないようにする為)

「宮行きさん」昭和40年代まで続いた対岸大野で作った野菜・果実を毎日船で運び宮島に売りに行った人々の呼び名、
耕作を禁じられていた宮島の人達にとっても新鮮な野菜を毎日家まで運んでくれる大野の「宮行き」は無くてはならない存在


弥山山頂までの道のり
冒頭にも述べたように、宮島は神の島・植物の正倉院・文化財の宝庫の島 等々呼ばれている世界でも類を見ない島です

山頂の弥山は弘法大師が開基したと伝えられています。

弘法大師の開基哉、「須弥山(しゅみせん)」、を表して「弥山(みせん)」と名づくといへり、
弥山は「三鬼神」おはしまして、仮令(かり)にも不敬不浄(悪人・穢れている人)の人
登山なりがたし、かたく酒を禁(いま)しめて、飲むことは更に念にも出す事ならず。  
須弥山・・・古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖なる山であり
弥山本堂は大同元年(806年)に弘法大師(空海)が建立、真言密教の道場とする

治承4年(1180年)までは、神様が弥山に滞在される 旧暦の11月から2月までの4ヶ月間は登山禁止であった、
しかし江戸時代になると徐々に緩和された。

ここから弥山山頂までを紹介します。

なお、535mの山と思って、軽装備で登山される方がいますが、弥山は中級クラスの登山コースです。
最低でも「靴」は登山に適したものを履いて行かれる事をお勧めします。(平均傾斜角度は33度位あります)


宮島ロープウエイ
無料バスの乗車時間は約3分(徒歩にて約7~10分)。紅葉時期は徒歩を勧めます
紅葉谷駅~榧谷駅(かやだに)~獅子岩駅
獅子岩駅から約20分で山頂下の弥山本堂に着く、ここから更に10分で山頂展望台に着きます。
循環式と交差式の2種類の方式のロープウエイを使用する。全国的にも珍しい形式で運行
循環式・・・・・少人数乗りのゴンドラを所定の間隔で順次出発する。6人乗り
交差式・・・・・15分間隔で、2台の客車が山頂と山麓を交互に往復するシステム28人乗り
ロープウエイからは宮島の谷や林、また広島湾に浮かぶ島々をダイナミックに一望できる
瀬戸内の島々は約3000の島からなる

ロープウエイにのる時は、折角宮島に来たのだから、景色を楽しもう。
最初の6人乗りゴンドラは、山側(頂上側)に乗ると、瀬戸内を眼下に見ることが出来ますよ、(降りる時も一緒です)。
榧谷(かやだに)駅で乗り換えですが、28人乗りのゴンドラになります。
このときは進行方向に向って「左側」に座ると、左方は能美島、江田島を見る事が出来、運が良ければ、眼下に海上自衛隊の艦船、潜水艦等を見る事が出来ます。
宮島に来島する時のフエリー航路は水深約9mですが、ロープウエイから見える宮島の裏側の海の水深は70から80mあります。

安芸の国(日本国事跡考(抄))
厳島の神社、市杵島の姫を祭る、是れ素戔鳴神の女(むすめ)なり。潮満る時は
即ち華表・回廊・皆海中にあり、潮引く時は即ち陸地と為る。朝暮の晴天 明月の夜
真に一方の佳景なり、 俗に宮島と号す。
平清盛 安芸の守と為りし時 尤も(もっとも)之(これ)を崇信(すうしん)して身を終うるまで変ぜず。

宮島と言えば「厳島神社」と言う様に、宮島は文化財の島として知られているが、植物の多様性
と言う点でも大変貴重な存在です。
厳島神社は世界遺産として登録されたのも、背後に迫る天然記念物「弥山原始林」の存在無くしては
語れません。宮島は6000千年前に島になった時から、瀬戸内地方の植生を良く残し(二次林なし)
ている、大変貴重な島である。
宮島は30平方キロの小島ですが、その6%にあたる 180ha 程の「弥山」を中心とした
常緑広葉樹(照葉樹)が国の天然記念物「弥山原始林」に指定されている。


紅葉谷
江戸時代末期に好事家の老人が雑木を取り除き紅葉の苗木を植えたのが紅葉谷公園の始まりと言う
庭園式砂防公園(巨木や樹木は傷つけず、新たに置く石材も現地のものだけを使う、画期的な工法)
紅葉谷公園で約700本の紅葉がある、全体では1100本と言われている。紅葉谷橋を渡ると宮島で
最初に色づくと言う「山もみじ」がある。ちなみに桜の木は全体で1900本程度ある
風光明媚な場所である、普段は水の少ない小川であるが、風化した花崗岩地帯を急勾配で
流れ下っている、その為、豪雨時には土石流を起こす原因になる、
200年に一度の割合で大きな土石流が発生している。(天文10年1541年 1739年 昭和20年1945年)
昭和20年9月17日の枕崎台風による土石流発生、この時の土砂は「清盛神社」より沖に埋設する

当時の日本の状況を考えると、戦争に敗れ、国内は混乱し、とても宮島の災害復旧における予算付は、
広島県・国にとっても難しい状態であった。
大被害を受けた紅葉谷川の復旧には、広島県・宮島町・有志による必死の復旧作業が行われ、
戦後の財政難にもかかわらず、宮島の景観や文化財の価値から効率の国庫補助により、
昭和23年から25年にかけて「史跡名勝厳島災害復旧工事」として実施され、
当時の金額2,415万円で施行されている。(現在の約160億円位)
この災害復旧にあたっては、治水上の機能の復旧のみならず、史跡名勝に最もふさわしい施工をする為に、
広島県では文部省・県教育委員会・県職員・県議会議員・史跡名勝天然記念物調査委員・地元民代表・学識経験者による
「史跡名勝厳島災害復旧工事委員会」を設置し、日光・京都・鎌倉・長野・九州等の関連場所の視察を
行ったりして、工事の実施に万全を期した。(東大名誉教授・丹波鼎三氏の指導を仰ぐ)
しかし、1946年11月にたまたまGHQの「美術記念部長であった、チヤーチル・ギャラガー氏」が宮島の
国宝文化財に興味を示し来島、宮島の惨状を目の当たりにして、直ちにGHQより「国」に交渉し予算を取り付けることになり、
今日に至っている。この災害復旧工事の特徴は、史跡名勝の環境にふさわしいように、
全国でも類の無い巨石を庭園風に組み合わせた「渓流砂防工事」による岩石公園と言う点である。
その精神・施工の方針は、工事着手時に以下の5項目の「岩石公園建築造趣意書」が作られて実施されている。
1 巨石・大小の石材は絶対に傷つけず、割らない。野面のまま使用する。
2 樹木は切らない
3 コンクリートの面は、眼に触れないように野面石で包む
4 石材は他地方より運び入れない、現地にあるものを使用する
5 庭園師に仕事をしてもらう。いわゆる石屋さんもノミと金槌は使用しない
併せて施行中には、造園の専門家の意見を聞くほか地元民の意見を尊重し、造る人の立場ばかりでなく、
見る人の立場にも重点が置かれて、趣意書の趣旨を忠実に守りながら工事は進められた。
この紅葉谷側庭園砂防工事は、戦後復旧期の窮乏時代のことであり、今日の様に環境整備が重要視される時代でないときに、
この事業を完成させた当時の関係者の並々ならない熱意が感じられます。この工事の精神・施工の方針は、今日の環境
対策としても卓越したものであり貴重な資源になっている。

四の宮神社の裏手には、コウヤマキ「高野槙」の樹がある。
岩舟岳の頂上付近、乾燥した岩盤の間には、平成18年9月6日に誕生した「秋篠宮悠仁(ヒサヒト)」
親王のお印として有名になった「コウヤマキ」「高野槙」が逞しく育成している
日本特産のスギ科の常緑高木で高さが40mにもなる、木材は腐りにくいことから、桶 船材 橋梁材
として利用。樹皮は「まいはだ」と称して、水槽 船などの隙間に押し込み水漏れ防止の材料に使用

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