「悟り世代」代表、間違いだらけの現代に物申します

「悟り世代」代表、間違いだらけの現代に物申します

人にとって本当に正しい社会の在り方を見つめる、諦めの悪い若者の叫び

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そのとき、声もなくわたしに語るものがあった。「あなたにはわかっているね、ツァラトゥストラよ?」――

このささやきを聞いたとき、わたしは恐怖の叫び声をあげた。血が顔からひくのがわかった。しかしわたしは黙っていた。

するとふたたび、その声が声もなくわたしに言った。「あなたにはわかっているのだ。ツァラトゥストラよ、しかしあなたはそれを言わないのだ!」

ついに、私は反抗するように答えた。「そうです、わかっているのです。しかし、わたしはそれを言うことを欲しないのです!」――

すると、ふたたびその声が声もなくわたしに言った。「あなたは欲しないと言うのだね? ツァラトゥストラよ。それはほんとうだろうか? あなたはあなたの反抗のかげに身を隠してはならない!」――

わたしは子どものように泣き、ふるえて言った。「ああ、わたしはたしかに欲しはしたのです。だがどうしてわたしにそれができましょう! それだけは許してください! それはわたしの力を超えています!」

するとふたたびその声なき声はわたしに言った。「あなたの一身が何でしょう、ツァラトゥストラよ! あなたのことばを言いなさい。そして砕けることです!」――

わたしは答えた。「ああ、はたしてわたしのことばでしょうか? わたしは何者でしょう? わたしは、もっとふさわしい者を待っているのです。その者が来れば、わたしは砕けるにも値しないのです。」

するとふたたびその声なき声はわたしに言った。「あなたの一身が何だというのです? あなたはまだ十分に謙遜ではありません。謙遜はもっと堅い皮を持っているものです。」

[......]

そこでわたしは答えた。「わたしが語ったことは、人間たちに到達しませんでした。なるほどわたしは人間たちのところに行きました。しかしかれらに届かなかったのです。」

[......]

「わたしが私自身の道を見いだして、進んで行ったとき、かれら人間たちはわたしを嘲笑しました。わたしの足は、そのとき本当に震えたのです。

すかさずかれらはわたしに言いました。おまえは正しい道を忘れたのだ。こんどは歩くことも忘れたのか、と。」

[......]

「命令するには、わたしには獅子の声が欠けています。」

[......]

「わたしは欲しないのです。」

[......]

すると、哄笑が周囲に起こった。

[......]

そして、声なき声は、最後にこう言った。「おお、ツァラトゥストラよ、あなたの育てた果実は熟れているのです。熟れていないのは、あなた自身のほうです!」

(ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」より)




過去の関連記事:若いから、正しさを諦めたくはない
            ひとつの雨滴として破滅する勇気



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(aotaro様より)

人間の理性には限界がある。

それならば、人間の理性すら服従を避けられない、より大きな理性とはどこにあるのか。

自然の理。

自然の理が、人間を含めた全ての生き物の主人だとして。

人の世の発展。そしてそれに伴う、免れ得ない衰退。

まったく、人間は木と同じようなものだ。

高く明るい上の方へ、伸びて行けば行くほど、その根はますます力強く、地のなかへ、下のほうへ、暗黒のなかへ、深みのなかへ、――悪のなかへとのびて行く。


(ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った」より)





過去の関連記事:自然性は人の合理性を超越する


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(Kara Allyson様より)

最近、大阪都構想の住民投票で若者の投票率の低さが話題になりました。

そこで今回は、投票率のお話をしましょう。

今日では若者の常識が欠如しつつあるとして、若者が槍玉に挙げられていることが多いですよね。ニートという社会集団の誕生、子供たちの名前をペットのそれのように名づける親の増加、ゆとり世代とさとり世代、Twitterのバカッター問題など、思い浮かべられるだけでも枚挙に遑がありません。

このような若者の非常識化に伴い、社会の多くの人々は彼らの政治に対する意識の低下を一方的に「近頃の若者が至らないから」と理由づけているように感じます。

本当にそれが正解なのでしょうか。政治に対する意識の低下は、本当に若者だけが悪いのでしょうか。


(総務省より:http://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/sonota/nendaibetu/)

近年における衆議院選挙の投票率の推移です。

改めて見ると凄いですね、20代。彼らの3分の2は政治に対して興味を持っていないという解釈もできます。

さて、その理由をいくつかのサイトで調べてみました。どのサイトでも共通の意見が展開されていましたので、NPO法人YouthCreate代表である原田さんのお言葉を拝借します。

理由は色々あると思いますが、一番多いのは、選挙で何かが変わろうが、政治がどう動こうが、自分たちの生活や将来は良い方向に変わらないよね、というイメージ。その背景には、政治への不信感があると思います。政治って、自分とは遠い「向こう側」で勝手にやってて、そんなに良いものじゃないし、若い世代が声を上げたとしても数の多い高齢者世代には勝てないでしょ、という人は多いですね。

(GlobalVoicesより:http://jp.globalvoicesonline.org/2015/02/09/34612/)


原田さんは「数の多い高齢者」の政治への影響力を相対的に比べたときに、若者の意欲が削がれてしまうというような説明もされていますが、僕はこれは二の次だと思います。

若者が投票をしない一番の理由は、何よりも彼らが、政治家に対して何を呼びかけようが無駄だと思っている点にあります。

秘密保護法、沖縄の基地移設問題、原発の再稼働、その他もろもろ。政治家はもはや国民に寄り添い、国民の意見を尊重してくれる存在ではないのだと彼らは感じているのです。それならば当然、彼らには投票をする意義がありません。また彼らにとって投票は、「国民ならするべきもの」という慣習的な拘束も存在しないのですから。

なぜ国民と政治家の立場は乖離してしまうのか。僕は、国際化こそがこの問題の元凶だと確信していますが、この話はまた別の機会にさせていただきますね。

そもそも、民主主義とは、そしてその基盤である自由とはなんなのか。

民主主義とは、国家や集団の権力者が構成員の全員であり、その意思決定は構成員の合意により行う体制・政体を指す。

自由民主主義の原則では、選挙は自由かつ公正に行われ、政治的なプロセスは競争によって実現されるべきである。自由民主制は、通常は主義や政策が明確に異なる複数の政党によって行われる議会制民主主義であり、政治的な多元主義である。


(Wikipediaより)


つまるところ投票は、その構成員の意志を表明する手段なんでしょね。

それならば、投票権を行使しないことすらも意志の表明として汲み取られるべきなのではないでしょうか。

若者の投票率が下がってしまうのは、政治に対して意識を低下させてしまった若者が原因なのではなく、国民の声を聞くことを忘れてしまった政治家が原因だと考えることはできないのでしょうか。

「投票はしなければならない」とか「国民としての義務」とか、人々は投票しない若者に対して批判的に接するばかりで、投票と政治形態そのものに対して疑問を抱きません。

僕たちは本当に今、自由なのでしょうか。自由とは、断じて「消去法」による「制限された選択」ではありません。

にもかかわらず国民は、先ほどの衆議院選挙の例でも、民主党よりかは自民党のほうが「まだマシ」という考えで投票権を行使しています。

それは自由な選択でしょうか。

そのような曖昧な理由で一方の党に決定権を握らせるくらいならば、そしてほんとうに僕たち国民の意見を政治家に尊重してもらいたいならば、むしろ投票率は下がるだけ下がったほうがよっぽど合理的です。

そこでようやく政治家は気付けるのだと思います。今のままの政治の在り方では国民はついてきてくれない、民主主義は成し得られない、と。

だから、若者の投票率の低下を悲観的にばかり捉えるのはよくないと思います。もちろん、単純な意識の低下によって、国民の一員として考える義務を疎かにしている人も多々いるでしょうけどね。

それでも今の政治家には期待できないという考えが僕らの素直な意見であれば、投票率は低下して然るべきです。

それは決して悪いことではありません。それは決して「国民としての義務」を放棄しているわけではありません。

僕たちが真に自由な国民であるならば、投票しないこともまた自由な意志の主張となり得るのです。





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(Hernan Piñera様より)

「ドローン少年」の事件ありましたよね。

試験が忙しくて今更の言及になってしまっているんですが、僕はあのニュースを見たときに思うことがありました。少し遅刻ではありますが、この場で僕の意見を述べたいと思います。

この事件について詳しくご存じない方は、以下の毎日新聞さまの記事をご覧ください。

三社祭妨害容疑:ドローン予告投稿の15歳少年逮捕

現在イギリスに留学中という事情もあり、この少年に対して世論がどのような感情を抱いているのかという想像がし難い状況です。彼を擁護する意見のほうが多いのか、あるいは世間の非難の的になっているのか。

僕は、彼のあの愚かな行動を擁護します。

理由としては、ひとつめに、僕たちは彼のあの行動を非難できる立場にないということ。ふたつめは、あれは現代社会が生み出した暴走だからということです。

最近インターネットの中で自分のことを見せびらかす機会って増えていますよね。Facebook、YouTubeはもちろんですし、あとは僕はやったことありませんがTwitterやInstagramも主流でしょうか。Mixiなんてのもありましたね。

YouTubeではYouTuberってな人が増えていますね。僕も見たことはありますが、あまり面白さは感じませんでした。もちろん人それぞれの意見ですけどね。

Twitterの投稿のために、写真などのネタ探しに必死な人々。2014年冬にあった山手線の人身事故では、凄惨な事故現場を興味本位に写真に収める人の様子が話題になりました。気味の悪い光景です。

どうしてこうなったのでしょう。

科学技術の発展は、僕らひとりひとりに携帯電話というデバイスを与えるほどの変化を社会にもたらしました。暇なときは携帯電話とにらめっこをします。道に迷ったときは携帯電話とにらめっこをします。家族との会話よりも携帯とのにらめっこを優先します。携帯電話は確実に、僕たち人間をより自立させました。ひとりでより多くのことをこなせるようになりました。

ひとりで何でもできるのであれば、意識的に人の目に触れる機会も減ります。しかし不可解なことに人は、それぞれが自分自身の世界で好き勝手に生きていればいいものを、今度は携帯電話を使って人との繋がりを求めるようになりました。

この変遷を悪いこととは断定しません。時代の変化につれて、人との関わり方も相応の変化を遂げただけであって、特に評価することでもないと思っています。

むしろこのような変化を通して、理解できることがあります。

他者と触れ合うための手段はこのように変わりました。それでも、根源的にある動機にはなんら変化がないことに、僕らは気付かねばならないのです。

それは、自己顕示欲。誰かに見てもらいたい、構ってもらいたいという感情です。

Facebookで写真を投稿する。

Twitterで何でもない発言をする。

YouTubeで自分のチャンネルを持つ。

どれもこれも、「誰かに見てもらいたい」という根源的に不変な感情が時代と共に姿を変えただけです。

結局のところ、僕たちは自分専用のパソコンやスマートフォンを持ち、自分自身で多くのタスクをこなせるようになりましたが、「誰かに見てもらいたい」という気持ちは変わらないのです。

友達とわいわい楽しむ写真が記憶に残るものなら、自分の中だけで思い出にすればいい。それをどうしてFacebookに投稿するのか。

心の中でふと思ったことがあるのなら、それは自分の意識の中で反芻させればいい。それをどうしてTwitterで発言するのか。

「○○をやってみた」のなら、ひとりでそのやってみたかった興味を満たせばいい。それをどうしてYoutubeのチャンネルを設けて公開するのか。

分かるはずです。彼らの写真や発言、行動「そのもの」に意味があるのではなく、それらを「人に見てもらうこと」に意味があるのだということを。

だから僕は、今回の「ドローン少年」の一連の行為、それに伴うネット配信などを次のように考えています。

あの少年は悪行に興味があってこのような愚行を犯したのではない。単純に、誰かに見てもらうことに飢えていたのです。

彼にも非はあるでしょう。当たり前です。

ですが、彼のことばかり悪く言うのは少し違うと僕は思うのです。彼のあのような行動の帰結を責めるのであれば、僕たちは僕たち自身も非難しなければいけない。

僕たちは、いかに自身を見せびらかすかを考えていてばかりで、人のことを見てあげるという意識に欠如している。その結果として彼のような道を誤る若者が生まれたことを、ただ「アホだ」と一蹴し、自己責任で片づけるようでは理解が足りないと思います。

彼もまた僕らと同じく、誰かに見てもらいたかっただけ。

僕たちは、自分のことに没頭してばかりで、はたして人の気持ちに気付けているでしょうか。

彼のような自分勝手な少年は間違いなく、現代社会と、僕たちその社会の構成員が生み出したものなのです。




過去の関連記事:人だって木や花と同じ、寂しがりや


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前回の記事「「知ること」が人を幸せするとは限らない」の続きです。




モンテーニュはまちがっている。習慣はそれが習慣であるゆえに従われるべきで、それが理によってかなうとか正しいとかのゆえに従われるべきではない。だが、民衆はそれを正しいと思うというただ一つの理由によってそれに従っているのである。さもなければ、それがいくら習慣であっても、それに従わないだろう。なぜなら、人は理性あるいは正義にしか服したがらないからである。それらがなければ、習慣も圧制とみなされるであろう。ところが、理性や正義の支配は快楽の支配と同様に、圧制的ではない。これらは人間にとって自然な原理である。

したがって、人が法律や習慣に、それが法律であるというゆえに従い、そしてまた、新たに導入すべき真なる正しい法律は存在しないこと、われわれはそれについて何も知っていないこと、それゆえすでに受け入れられているものにだけ従うべきであるということを知るのは、よいことである。そうすれば、人はこれらのものから決して離れないだろう。しかし民衆は、この教説を受け入れることができない。こうして民衆は、真理は見いだされうるものであり、それは法律や習慣のなかにあると信じているので、これらのものを信じ、それらの古さを真理の証拠として受け取っているのである(すなわち、真理抜きの、ただのその権威だけの証拠としてではなく)。

こうして民衆はこれらのものに従う。だが、これらのものが何の価値もないことを、人が彼らに示すやいなや、すぐに反逆する傾向を持っている。このようなことは、ある方面から見れば、すべてのものについて示すことができるものである。

(パスカル「パンセ」より)






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