~今日もまた、太陽は昇り川は流れる。
忍びの世界には何びとも犯すことのできない掟がある。その掟を破る者には、ただ死あるのみ。
だが、ここにひとりの男があった。太陽のきらめきも月光の奏鳴も一瞬、死の伴奏と変わるそのさだめを自ら選び貫いてゆく者。
カムイ、忍者カムイ!~
 
 
 画面を染める血飛沫。パックリ開いた斬り口。執拗な暴力描写が光る至高のオープニング。
 暴力という視点でアニメヒーローの歴史をたどっていくなら、はたしてその発症は1969年であることに行きつく。この年の4月6日、フジテレビ系にて『忍風カムイ外伝』と『どろろ』の2作が同時にブラウン管に躍り出た。このうち『カムイ外伝』は夕方6時半、いまでいう『サザエさん』の放送枠。かたや『どろろ』は7時半、カルピスまんが劇場の1作目としてのアニメ化であった。いずれも2クールで終了したものの、そのわずか4日後にはトドメの核弾頭『タイガーマスク』が投下されるのだ。
 ここに駒は出そろい、日本の暴力アニメはその幕明けを迎える羽目となるのであった。
 
 ――というわけでトップバッター『カムイ外伝』だが、既にオープニングの時点で暴力でしか明日を見出せぬヒーローの本質が語りつくされているのである。
 白土三平原作の本作は、作品じたいが謎だらけ。主人公のカムイもまた、謎だらけのキャラクターである。アニメ版においては彼がいつ、どこで生まれ、どういう経歴の持ち主なのか、あるいは家族構成や組織を抜けた理由など、いっさいの説明もなく登場して番組はスタートしている。強いて挙げれば、カムイが終わりなき戦いをただひたすら戦い抜いてゆく戦闘機械のような男であること。わかるのはコレのみである。
 この時期、テレビに登場するヒーローにはカムイとおなじように、かつて所属していた組織から命を狙われる主人公が数多く現れた。タイガーマスクもそう、仮面ライダーやキカイダーなど石ノ森作品に登場するヒーローの多くもこれに当てはまる。そして彼らは裏切ってしまった組織の存在ナシでは持ちえなかった能力を駆使して、その組織に反旗を翻すというパターンが物語の軸として多用されたのである。
 しかし、仮面ライダーは実力をもってショッカーを潰滅することができた。タイガーマスクには「みなしごランド」の建設という夢があり、愛する人がいて彼を慕う子どもたちも存在した。
 ところがカムイには、そのいっさいが与えられていなかった。組織を積極的に叩くわけでもない。家族もいない。彼を愛する人も彼が愛する人も、ことごとく彼のもとから消え去ってゆく。いっさいの夢や希望を持てる余地が許されていないのだ。
 何のために生き延びようとするのか、その意味すら彼は知らない。ましてハッピーエンドなど構造的にあり得ない世界。『忍風カムイ外伝』とは、それほどまでに救いのない物語なのである。
 
トラ『タイガーマスク』について

 

 さらに述べると、カムイはヒーローでありながら生きる価値のない人間として描かれていた。逃げ続けるしか能のない、ただひたすら強いだけの人でしかない。思えば有名な彼の必殺技で、流血無残の“変移抜刀霞斬り”は忍者としては異色である。爆薬、マグネシウム、手裏剣・・・といった忍者らしい道具を使わず、何の変哲もない短刀があれば繰り出せる技だった。
 その短刀さえ折れ、素手になったとしても、彼には即死確実の“飯綱落とし”という究極の必殺技があり、セメント度数はきわめて高い。ゆえに彼は肉体だけで最強の戦闘機械なのである。
 
 
 1969年の社会と暴力を安直に結ぶなら、国家が民衆の暴力を暴力でもって完膚なきまでに叩き潰した1月19日、機動隊8500人出撃の東大安田講堂バリケード封鎖の解除に尽きる。
 催涙弾でいぶし出された学生が警棒でボコボコに殴られ血みどろになった姿で引きずられていく映像なら見たことがあるだろう。あの映像が示すのは、暴力が傍観者に与える桁外れな痛みのカタルシスと、強い者が勝つ単純明快な現実のみ。暴力による変革の幻想を孕んだ時代の狂気と情熱も感じなくもないが、いまとなっては闘争の意味や目的は完全に置き去りだ。
 カムイと刺客の戦いもおなじく意味はない。あるのは暴力と暴力の軋轢だけ。「抜け忍は消せ」「個人を規定する範疇より逸脱する者は排除せよ」という当然のルールが行使されているにすぎない。
 それでもなお逸脱し続けようとする意志こそがカムイのアイデンティティであり、暴力に暴力で抗うしかすべのない孤高の魂の拠りどころなのだ。
 だから、ただ己れの明日のために目の前の敵を駆遂する。それが彼の背負う十字架であり、彼なりの理不尽でやるせない暴力への反逆なのであろう。
 

 
 私がこれを最初に観たのは再放送。朝8時か9時ごろの放送だったと思うので、おそらく夏休みシーズンに放送していたのだろう。たしかアニメ『正義を愛する者 月光仮面』とセットで放送されていた。
 どちらかといえば『月光仮面』を目当てでテレビをつけていたのだが、ハッキリ言ってそっちのほうはあまり覚えておらず。かたや『カムイ外伝』の異質な作品世界には圧倒されっぱなしであった。それはもう「力ずく」と言っていいほど心をやられた。
 オープニングでは唄抜きの『忍びのテーマ』をバックに『JET STREAM』でおなじみ、城達也のシブい声が観る者を幻想的な世界へいざなう。とりわけ「月光の~」という語りとともに、文字どおり月面宙返りを見せるカムイの姿(飯綱落としへのアクション)が印象的に映った。
 しかしなんといっても、その劇中におけるあまりに強烈な映像は、仮に内容の意味こそ理解できなかったとしても感覚的に相当ショッキングなものとして伝わってくるものがあった。劇画タッチなだけに、なおさら芯まで響いた。こんなもの、どう考えても朝っぱらから観るような番組ではない。だがそれをやってしまったテレビ局のセンスも凄い・・・と解釈するべきだろうか(笑)。
 
注意ビデオ版にはこのような「おことわり」が出てくる。放送コード的にヤバいときのやつだ。
「どこがヤバいのかなー」とワクワクしつつ試聴してみると、ぜんぶアウトだった。汗
 
 いたるところに毒が散りばめられている本作だが、ここで劇薬的(あるいは猛毒的)エピソードを紹介してみよう。
 例えば第3話「月影」。刺客・月影に必殺の飯綱落としでトドメを刺したカムイが、彼に弟子入り志願する少年・竜太を一喝する場面がある。
「これが忍者の末路だ!」
 カムイの示す先に転がるモノ(明らかにモノ)は、首が直角にグニャリと折れたまま地面に突き刺さった死体。
 厳しい。あまりにも厳しい。カムイの強さに憧れを抱く竜太の視線は、すなわちブラウン管の前で心躍らす少年たちの視線ではなかったか。それすら拒絶せざるを得ない孤独の深さは、自らを暴力に生きるに選ぶ者の正しさに相違ないのである。
 
 
 そしてとんでもない第4話「むささび」は相当に惨い話だ。例えば、おじである月影の敵を討たんとする「むささび姉弟」の姉・サナエがカムイを殺すためにわざと飯綱落としにかけられるシークエンス。
 まずは弟・シロウがカムイの手加減した中途半端な飯綱落としを食らい、死なないまでもクルクルパー状態にされてしまう。これでサナエの目的は当初あった「おじの仇討ち」から「弟の仇討ち」のほうへ、より重きを置いたものにスライドしていたといえる。同時にサナエは、カムイがまともにやって勝てる相手ではないことを思い知る。
 最強の戦士・カムイを葬るためにサナエが考案した戦法。それは、飯綱落としの落下中にカムイを自らの体もろとも刀で貫く“飯綱返し”。冷静にみて、はるかに格上であるカムイには「自らの命を代償にしなければ撃破できない」と悟り、決死の覚悟で臨むに至ったのであろう。そしてサナエは敢行する。
 が、鎖帷子をまとったカムイには通用しない。じつにあっけなく。サナエだけが腹に刀を刺したまま逆さ吊りで絶命するという、まこと悲惨な末路を遂げる結果に・・・。
 さらに、その死体を見守るのが気を狂わされた弟のシロウというダメ押し。しかもシロウは赤トンボと戯れながら死んだ姉に語りかける(かなり意味不明な独り言)という、目を覆いたくなるようなシーンが。
 弟の仇討ちのために死んだ姉である。ところが弟は「あ、大きい目玉(トンボ)が逃げたよ」と、ひと言。そのまま逃げたトンボを追っていずことなく去ってゆくのであった。
 トンボより軽い姉の死。じつに救いようのない重さである。虚無に向かってひた走る堂々巡りの闘争悲劇は、弱肉強食の厳しさと死の重みを生々しく視聴者に投げかけるのだ。
 

 
 トラウマ必至のバイオレンスアニメーション! これは効く!
 映画であれテレビ番組であれ、後々になっても引きずるようなトラウマを観る者に与えられてナンボと考える私にとって、当番組が好きなアニメ作品の2番目くらいに入るのは順当なことといえる。
 さぁ、これを観てから死にましょう。