つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

自然の大恩を目の当たりにする秋。

2018年09月23日 22時17分08秒 | 自然
秋分は二十四節気のひとつ。
「秋分の日(=彼岸の中日)」は、昼と夜の長さがほぼ同じになる。
つまり、本日(=2018年9月23日)を境に秋の夜長へ向かい、
暑さも和らいでいくという訳だ。

確かに、日暮れは早くなった。
蝉の声は弱々しくなり、代わって秋の虫の音が喧しい。
散歩中に見かける風景も秋めいてきた。

色づく柿の実。
ピントが甘いのはご愛敬だ。
ところで、柿と日本人の関わりは古い。
縄文~弥生時代(今から数万年前)の遺跡から、柿の種が発掘されている。
広く流通するようになったのは奈良時代。
冬場の糖分補給や栄養補給のため、干し柿にしていたという。
そんな往時の情景を思い浮かべると、身近な果実が尊く見えてくるから不思議だ。

栗もまた、同じ。
縄文時代の遺跡を見聞すると、集落の周りには、人の手による栗林造成跡が残っている。
栗など木の実が、縄文人の主食だった証である。
戦国時代になると、栗を皮ごと天日干しにして臼で搗(か)ち割り、
鬼皮と渋皮を除いた「搗ち栗」が、兵糧に用いられた。
「搗ち栗」は「勝ち栗」に通じ、出陣式や戦勝を祝う凱旋式に欠かせない。
いわゆる縁起物としての側面もある。

柿や栗に比べ、薩摩芋との付き合いは存外に新しい。
メキシコを中心とする熱帯アメリカ原産。
ヨーロッパ、東南アジアを経て日本に上陸したのは、江戸期とされる。
ヤセた土地でもよく育ち、度々飢饉の救世主になったのは有名な話。
やはり、恩のある作物なのだ。

遥か昔から、太陽と水と風の力を借り、動植物の恵みによって糧を得て、
連綿とつないできた命のバトンは、
運動会の会場を目指す彼らへも受け継がれている。


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