【文科省・自民・朝日批判】 日本人の誰もが知らない「1+1=2」の普遍的な道徳 | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立

【文科省・自民・朝日批判】 日本人の誰もが知らない「1+1=2」の普遍的な道徳

(2018年10月8日 朝日新聞より)

 


■日本の皆様、とりわけ若者に向けた言葉

 先のブログで政治的言論が過ぎて、日本の時事や言論そのものに関わることを一切やめて音楽やサッカーだけに集中して生きていこうと思った矢先に、朝日新聞の道徳特集を見て、また何も知らない権力、学界、メディア、言論界に対して、いろいろと書かざるを得なくなった。

 

 私が道徳教育したいのは、これまでの活動を見てもわかるように、つまり今まで私自身が道徳講習をしてこなかったように、一般国民ではなく、むしろ私が提言を送り続けてきた大元の安倍首相であり、文科省であり、鈴木大地長官であり、讀賣巨人軍オーナーであり、また朝日新聞を始めとするマスコミであり、テレビである。
 

 そういう意味で、キリストの啓示を聞き、キリスト教を作ったパウロに近い道徳哲学者であり、多くのスピノザの生まれ変わりの兆候がある私が、この国においては美輪明宏さんやYOSHIKIよりも、日本随一の道徳改革者である日蓮上人をレスペクトしている。

「スピノザは有徳な生活とは、いろいろの情念(デカルトの「情念論」における)に対する理性のたたかいであるとした。」(数研出版「精説 倫理社会」)

 おそらくは聖パウロも私と同じ気持ちだろう。
 つまり道徳家とは、パウロも、日蓮も(今の私も?)自ずと常に権力者を標的としている。

 無論、それを「無駄だ」と言う人もいるだろう。
 然りである。だから、ネットの「Yahoo!知恵袋」で多くの悩み相談を受け、本も出した。
 無論、それでもまだ全然物足りないが、今の時代に鎌倉時代のような辻説法をするわけにもいかず、すべての権力、すべてのメディアからシャットアウトされているこの私が、この国の道徳退廃による社会衰退を救うことは、雲をつかむような話である。

 だが、その使命、意識は、パウロや日蓮のそれと一寸も違わない。それどころか私には多くの道徳の必要性を強調するほとんどの客観普遍な哲学、社会学、社会思想がある。
 そしてそれら諸哲・英哲を無視して、日本の道徳を否定してきた(西部邁(にしべ すすむ)を除く)全ての戦後知識人との戦いである。
 無論、そんな戦いはパウロや日蓮に比べれば、取るに足らない些事(さじ)である。
 日本は元より科学技術の国。もっと言ってしまえば、「科学技術だけの国」。
 本庶佑先生のようなノーベル賞を受賞する偉大な教授がいながら、日本の政治権力やメディアが、道徳においては、「1+1=2」もわからない、わかろうとしないがゆえにただでさえ数少ない若者を社会から抹殺する今日の未曾有の社会衰退を招いているというのが実情である。

 偉大な本庶先生がごとく、「日本のがん」を根治するなら、パウロや日蓮同様、腐った権力や腐ったメディア権力にメスを入れるしかない。

「社会じたいが改革されないかぎり、教育の改革も行われえない。

…もし道徳的環境が腐敗していれば、教師自身もそのなかに生きているのであるから、

かれらにもそれが浸透しないわけにはいかない。」  自殺論/デュルケイム(社会学者)

 

 ―であるから、私は今まで同様、若い人たちに、先生ヅラして諭すつもりは毛頭ない。
 つまりは、(文化放送「おはよう寺ちゃん」の三橋貴明氏やファスティングマイスターのSakoda Kazuya氏の動画のように)役に立つ知識として、これからの人生で過ちを犯さないために、「ただ知っておいてほしい」。

 それだけである。

 少なくとも他の雑多に氾濫するネット上の情報よりははるかに価値がある。
 無論、人それぞれ、その時その時で求めているものが違うが、それでも多くの(ほとんど全ての)若い日本国民が真実を知りえない時代であるから、なおさら重要なことも書いていると思う。
 

 事実、非道徳なだけの娯楽に満たされたきょうび、若い男性の99%以上が道徳に関心がないため、私の本やブログには若い男性からの反応がほとんどなく、それゆえに社会衰退もなくならず、たとえば特殊詐欺に占める若者の割合が前年から倍増するなど、若い男性の犯罪が激増している状況である。
 もっと言ってしまえば、特に自著に関しては、女性からの反応が多い。
 しかしながら私が数多くのベストアンサーを取った「Yahoo知恵袋」の悩み相談者の大半は男性、それも若い男性である。

 そして自著に関して言えば、様々な事情から、ほとんど何も書けていない。
 それゆえに私がやらなければならないことは多いようである。





■「『道徳なんていらない』どころか道徳がすべて?」大塚家具の経営難


(2018年8月4日、10月16日 朝日新聞より)

 

 戦後70年以上、テレビ、新聞などの商業メディアから一切の道徳が排斥されてきた―。
 だが今の時代、本当に道徳はいらないだろうか? 
 しかし、「ただ道徳がなかっただけ」で窮地に立たされている企業がある。
 大塚家具である。
 しかも、他人(ひと)様にはビタ一文迷惑をかけない、いわば身内の中だけの道徳の欠如ただそれだけで、である。

 この企業にとって「ある種の道徳がないこと」は相当致命的だった。
 高級ブランド志向にこだわる創業者の父、大塚勝久氏と、リーズナブルな中流志向を採る娘、大塚久美子氏。
 その両者とも、全く誤りではないし、むしろ優れた経営者の部類に入る。

 しかし一般的な家族が、大金を出して一生モノの家具を買うときに、「大塚家には道徳がなくて、父娘(おやこ)間の仲が決定的に悪い」というのは、購買意欲を失わせるに余りあるものだった。
 子どもを愛する親が、家族円満を願って大金を投じて家具を買いに、多くの場合は家族とともにわざわざ足を運ぶのに、そんな家族仲が決定的に分断された縁起の悪い苗字を冠したメーカーの家具を買うくらいなら、IKEAやニトリを選ぶ。

 ことに3,500万人もいる高齢者層、家計のひもを握る女性、おばちゃんはそういう体裁にこだわるだろうし、彼女たちの口コミの影響もことさら強いし、つまり大きな風評被害となる―。
 これが大塚家具と同様のお家騒動があったロッテの100円、200円のガム、チョコ、お菓子なら、そうでもない。
 買うのは子ども、若者も多く、金額的にも家計にさして響くものではない。

 

 勝久氏が美しい娘に英才教育よりも、いくばくかの道徳、つまり哲学や社会学で言う「社会性」を教えていたら…と。

 「父娘間の不和」、ただその一事により、すべては水泡に帰そうとしている。

 

 今の時代、道徳は本当にいらないだろうか? 


 だが、道徳とは「人様」に配慮するものであり、朝日新聞、田原総一朗、橋下徹、聞いているかな? 物を買って下さるのは、何を隠そう「人様」なのである。





■真の道徳教育とは情操教育…だが!

 今の学校の道徳教育とは、もっぱら「相対善」(どちらかと言えば良いこと)を育成することであり、つまり、子供のうちには湧かない感情、「心を打たれる」であるとか、「かわいい」、「かわいそう」、「けなげ」などと感じることの教育であり、いわばルソーの道徳として知られる「憐(あわ)れみ」である。

 そして子どもとは、年を経て、美輪明宏さんの言うように自分自身の「気づき」があるまでは、いじめをするような、残酷で心ない、つたない、未熟な「何か」である。
 つまり今の道徳教育とは私が言っているような「理論」ではなくて、具体的な題材を与えて個々人の心に訴えかける「情操教育」、ただそれのみである。
 そして美輪明宏さんの歌であるとか、「新しい道徳」という本を出したビートたけしさんの絵本、宮崎駿さんのアニメもそれに当たるだろう。
 だが、学校での情操教育が完全に無とは言わないが、逆に無以上に有害であることもあって、つまり「相対善」とは「100%自由の領域」であって、美輪明宏さんを心からレスペクトしている人「だけ」が美輪さんの歌を聴けばよく、「押し付けるものではない」ということである。
 
 身体障害者を想起させるようなCGを見せたDWANGOの川上量生氏に激怒した道徳家としても知られる宮崎駿さんのアニメも、大変素晴らしいものであるが、そういった温かい系統のアニメを見ない人たちに押し付けてはその効果も半減してしまうだろう。
 「子供のうちなら、まだいい」というかもしれないが、実際は逆であって、たとえば小学校で「はだしのゲン」を押し付けられた子供(私)が、その生々しい描写から、広島に対して恐怖やトラウマしか抱かなくなる。
 また一律で特定のアニメだけを良しとして、教材として扱えば、戦時の軍国主義教育や北朝鮮の金正成に対する個人崇拝みたいになってしまう。要は「思想統制」である。

 つまりどんなかたちの情操教育であっても、それが「押しつけ」であれば、道徳とは程遠く、・・というか、哲学的に言って100%自由である「相対善」の領域に、特定の誰かの模範的な生き方を押しつけることは、「全く」普遍的な道徳ではないし、それは子どもに黒い服を着させて捕虜を銃殺させるイスラム国と本質的に大差ない。

 
「今日では、いかなる場合も、…一定のものの考え方を強制的に押しつけてはならないということは、
…万民の認めるところとなっている。」(デュルケム著 麻生誠/山村健 訳「道徳教育論」)

 

 これが昔であれば相対善教育、情操教育はある程度機能した。

 

 つまり私のかつての会社の上司で、私の世代以下ではありえない、非常に品行方正で質実剛健な70代の所長がいたが、白黒テレビしかない時代に「月光仮面」を見て(カラオケで歌っていた)、つまり貧しい時代には、今の時代に氾濫しているような不必要に非道徳な娯楽(アニメ顔のエロマンガ)もなく、「脱法行為」のホリエモンやひろゆきを礼賛する時代でもなく、つまり月光仮面のような「勧善懲悪」しか娯楽がなくて、貧しい時代の社会であっても、不必要に非道徳な人や娯楽が大勢(たいせい)ではない時代、犯罪のほとんどが貧しさによるもので、「巨人、大鵬、玉子焼き」と価値観が共有できて、純粋な人たちだけの社会の時代であれば、学校での情操教育も効果があった

 しかし、社会環境が激変している以上、時代錯誤の情操教育は、完全に自由な時代で、ネットであらゆる非道徳な娯楽が氾濫している環境に身を置く、多感で未熟な子供たちの反発を招くばかりであり、むしろ、曽野綾子さんが「子供は悪いから学校に行くんです」と言うように性悪説として、人生で大きな失敗をしないために、「極端な相対的な悪をしないこと」だけを理論的に教えることに徹するべきである。
 

 私が中学生の時に、視聴覚室で当時人気だった映画「トップガン」を見せてくれた先生がいたが、今できる粋(いき)な情操教育とは、せいぜいそのくらいだろう。
 「俺もこういう気の利いた大人になりたいな」と。


 情操教育で言えば、私の父は、小学生の私にトルストイの「戦争と平和」を与えたが、ほとんど読まなかった。

 私は文学に「一切」関心がなく、今ここで書いているような、「1+1=2」の真理にしか関心がなかった。
 また、トルストイの文学に出てくる人物と私とでは老子でいう「道」が違いすぎる。
 つまり日本の大人は子どもを全くレスペクトできていない。

 人それぞれ「道」が違うのである。

 無論、私は当時ゲーム少年だったこともあるが、私の父と同世代である上司の時代なら、娯楽のない時代に父からもらった名著を喜んで読んでいたのかもしれない。


■道徳とは99%自由である

 つまり法治国家においては、相対善とは、当たり前だが、個人の自由であり、「内心」の範疇(はんちゅう)である。
 また大半の「相対悪」、つまり非道徳的な行為も、誠に残念なことに、法に触れない限りは、この国においては止めることのできない国民の自由という権利である。
 ただ、ゴミ屋敷や住宅密集地での鳩のエサやりなど、その行為者が他人から永遠に嫌われていくというだけの自己責任の問題である(粗大ゴミをある程度持っているだけとか、鳩にエサを与えること自体を違法にすることができないこの国は健全である)。

 だが、たとえば児童虐待のように、「度を超えた相対悪」には道徳で対処していく以外ない。
 なぜなら「子供」は、左派マスコミが「自己正当化」(キリストやヘーゲルが批判する概念)のために利用する「女性」や「LGBT」のようには声を上げることができない。
 また、児相が対応した2016年の12万件の児童虐待のうち、摘発されたのは1,100件程度、つまり残り90%以上もの摘発されない、これから摘発されるであろう、あるいはこれから子供たちが殺されるであろう児童虐待を止めるには、理論的に言って道徳しかないのである。
 

 己の無知・無思想・無哲学から、私が提言する普遍的な道徳を無視したいがために、この「1+1=2」の真理から目を背けてきた政治家、行政、並びにメディア権力は万死に値する
 つまり今日の道徳崩壊による社会的混乱(社会学的にはこれを「アノミー」という)の日本において、常識はずれの非道徳に対しては、道徳とは「絶対的に必要」なのである。
 また、違法行為と言っても、まだ摘発されていない年11万強の児童虐待よりも悪質ではない軽犯罪が山とある。
 これら児童虐待を看過(かんか)してきた権力やメディアの側にいる無知・無思想・無哲学な、想像力が欠落した日本人の多くは、必ず同じ目に遭うだろうと思うし、そう堅く信じるし、そう堅く願う。
 つまりはここにおいて、「法がすべてではないこと」を証明した。
 無論、社会においては「違法=絶対悪」として遵守しなければならない。
 だが、法とは所詮人間が作ったものであり、また法によっては特殊意志に左右されるものでもあって、全く絶対ではなく、逆に違法ではない相対悪の段階(摘発されない児童虐待や悪質な「いじめ」など)においても、「軽犯罪を超える合法・相対悪」は山のように存在し、そのために、あらゆる哲学者がそう言っているように、道徳は「絶対に」必要なのである。

 北野武さんが自著「新しい道徳」で「絶対的な道徳なんて存在しない」と言ったが、「そんなことはない」。
 厳密に言えば99%正しいが、1%は間違っている。

 つまり上述してきたように、相対善や多少の相対悪なら、絶対的な道徳なんてなくてもいいが、児童虐待レベルの相対悪に対してだけは、それをしないようにするための絶対的な道徳は必要である。それがレヴィ=ストロースいわく「全人類に共通する倫理」なんだから。

 つまり絶対的な道徳がなくなれば人間は人間でなくなるし、今の日本の権力やメディア権力はおおよそ人間足り得ない人を増やそうとしている。
 

 また、ソクラテスとは、そもそも普遍的な道徳について語ったから有名な哲学者足りえたわけで、逆に言えば、普遍的な道徳がなければ哲学者自体がなく、つまり哲学そのものこそが、ことにカントにおいては絶対的な道徳とも言える(無論、ここで言う道徳とは、哲学を知らない日本人が思い浮かべるような具体的、個別的な道徳ではないよ)。

 そもそもほとんどの哲学者が哲学の中で道徳について非常に多くを論じており、そして哲学とは普遍的な概念を論じる学であって、北野武さんが正しいなら、それらの道徳が普遍的ではないということになってしまい、すべての重要な哲学の歴史そのものを否定してしまうことになってしまう。

 

「…哲学は一切の認識と人間理性の本質的目的[特に道徳的目的]との関係に関する学である。

 …人間理性の本質的目的…このうち究極目的は、人間の全使命にほかならない。そしてこれに関する哲学が道徳哲学なのである。

 …ところでなお理想としての教師がある。この人は、これらの哲学的認識をことごとく体得し、これを道具として使用し、人間理性の本質的目的の達成を図ろうとする。

 かかる人をこそ我々は哲学者と呼ばねばなるまい。」(カント著 篠田英雄訳 「純粋理性批判」より)


真の哲学者の場合にあっては、非個人的なものは何もない。そして、特に彼の道徳こそは、…彼が何者であるかを示す。―換言すれば、彼の本性のもっとも内的なるもろもろの衝動が、いかなる順序をもって配列されているか、を示す。」(ニーチェ著 竹山道雄訳 「善悪の彼岸」より)


 ただ、北野武さんの「道徳は時代とともに変わっていく」というのは、まさに膨大な統計を元にした社会学のデュルケムに合致しており正しく、また全般的に見ても、同著はあまりにも主観的であり、哲学的な道徳の真理からはほど遠く、道徳家を侮辱するような不勉強極まりない箇所もあるが、天然で頭がキレる人が書いた著書ではある。
 


■「道徳はいらない」とする朝日新聞、田原総一朗、橋下徹は間違いであり道義的罪は重い

 まず「児相が対応した2016年の12万件の児童虐待のうち、摘発されたのは1,100件程度、つまり残り90%以上もの、摘発されない、これから摘発されるであろう、あるいはこれから子供たちが殺されるであろう児童虐待を止めるには現実的に道徳しかない。」

 これが現実である。


 朝日新聞が、田原が、橋下がテレビで何寝言言おうが、児童虐待を減らすために道徳が必要であるのは、「1+1=2」と同様に理論的に明白な事実である。
 それでも往生際悪く、テレビ朝日の池上彰は、「児童虐待が1,000件程度だった平成元年にはまだ児童虐待という概念がなかったんですね」と言って世論操作し、つまり「昔は『児童虐待』という概念がなかっただけであり、そういったことは今と同じくらいあって、今の児童虐待も大した問題ではない」と結論付けようとしているが真実ではない。
 

 なにしろ私自身が1学年12クラスもある団塊ジュニア世代であり、周りで親から虐待されている子どもの話など聞いたことがなかったから。
 

 そりゃそうだろう。全国で年1,000件しかないんだから。
 そしてそれは人口的に見ても、70年代80年代生まれの子どもが圧倒的に多いにも関わらず、当時の児童虐待件数は今よりも全然少なかったし、逆に2000年代以降生まれの子どもは極端な少子化の影響で圧倒的に人口が少ないにも関わらず、児童虐待件数は100倍にまで増えているのだから。
 そして子どもなどの社会に影響を与える政治家、教師、警察官などの公職者にはさらに道徳<社会性>が必要であることは言うまでもない(無知・無思想・無哲学な橋下徹は否定)。

 相模原の障害者施設殺傷事件も、朝日新聞、並びにその御用学者鷲田先生(日本哲学会)、田原総一朗、橋下徹がメディアでこうした「道徳不要論」を唱えていた矢先に起こったのである―。

 

 だが当然、相模原の障害者施設殺傷事件を彼らの非とするわけにはいかない。

 すべては個別的な案件であり、ケースバイケースであり、犠牲になられた方々は、彼らにとってはただ単に運が悪かったというだけであり、つまりは「例外」であって、最終的には道徳的に未熟な加害者だけの責任である。

 そして植松聖容疑者にも依然として「道徳はいらない」とするのが、朝日新聞、田原総一朗、橋下徹ら戦後メディア、あなたがたが見ている一切のテレビ、戦後知識人の一貫した<狂った>立場である

 

 無論、植松容疑者が私の存在を知る機会があって、道徳的であったなら、2,000%このような事件を起こしていないことは言うまでもない。

 植松容疑者には学生時代から道徳に触れる機会が、戦後メディアと戦後知識人とによって妨げられていた。

 また、植松容疑者以外の無数の若い犯罪者たちも、そういう機会からは故意に遠ざけられていた。

 その道義的責任は重い。

 そして彼らは若者の凶悪犯罪を減らすどころか、むしろ若者から道徳を遠ざけ、犯罪を煽って事件化して、結果的にそれを飯の種にしてきている。

 若者には「いい加減、そのカラクリに気づけ」というのが本ブログのメッセージでもある。

 あなたがた個人個人が道徳をなくして、感情だけに支配されて、社会とケンカをして勝てるとでも本気で思っているのか?

 

 そして、とりわけ朝日新聞や田原総一朗、橋下徹以上に非道徳な著名人、娯楽は五万とある。

 その一切が「自由」である。

 ならばなぜ、私が朝日新聞や田原総一朗、橋下徹を批判するのかと言えば、若い人たちはこれらに比べて知識が足りないので、これらが言う誤った意見を容易に信用してしまうからである。

 強盗ゲームである「グランド・セフト・オート(GTA)」をマネして犯罪を起こす若者も海外にはいるが、それには「違法な強盗をするゲームである」という認識が日本の若者にはある。

 テレビやゲームの悪影響という点で、宮台真司とカレ・ラースンの見解は真っ向から対立しているが、宮台の言うように「全くない」とするのは完全に誤りである。

 事実、テレビの普及と人格障害が突如現れた時期は「70年代」であり、合致している。

 また、「ルパン三世」のアニメやタランティーノの映画に比べれば、強盗を疑似体験できるゲームであり、より影響力もあるのだろうが、それでも個人差がある。

 だが、朝日新聞や田原総一朗、橋下徹を、強盗ゲームのように「誤りを言うもの」として捉えて用心する若者は少ない。

 むしろ、これらを信用して「道徳が必要ない」ことを鵜呑みにしてしまい、あるいは単に「道徳」という言葉を遠ざけられ、また戦後のテレビそのものが一切の道徳という言葉自体を排除しているのだから、常識的な行動や感情を制限することが頭の中になく、相模原の障害者施設殺傷事件のような凶悪事件、今年では警察官殺害事件を起こしたりする。 

 

 それゆえに客観普遍な哲学を何も知らずに(かつ長年私の提言を無視し続けて)、テレビで軽率に道徳を否定する「誤り」を言う知識人の道義的罪は重いのである。

 

 また、これが横山やすしやX JAPANのTAIJIなら、彼らの道徳的ではない破天荒な武勇伝を、一般の人が人生の手本としては誰も真似しないし真似できないが、社会的信用のある知識人や大手メディアの言うことなら話は全く違ってくるのであって、デュルケムが言うように我々は無責任な知識人という社会的な悪影響にさらされているのである。

 

 




■文科省、自民党の道徳教育は完全に誤り



(2018年10月8日 朝日新聞より)

 哲学の代表格ヘーゲルや社会学の代表格デュルケムによれば、「標語や英雄譚は道徳ではない!」。
 道徳の授業で二宮金次郎を扱うなら、そんな学校には本当に薪を背負って学校に行ってやったらいい。
 天下りあっせんや受託収賄の「犯罪集団、文科省」。
 

 その組織が、一番犯罪率が低くて、一番児童虐待やら通学中のブロック塀倒壊やら、教職者の性犯罪やら、通学中の高齢者事故の犠牲になっている子どもたちだけに道徳、「二宮金次郎押し付け」。
 「オマエらバカも休み休み言えよ、この野郎」。
 私が今一番道徳教育したいのは、オマエら文科省官僚の局長クラスである。

 また、「考えること」は道徳ではない。「考えること」は「考えること」である。
 道徳について社会的に言えることは、ヘーゲルの言う「自由を制限すること」ただそれのみである。
 また、馬鹿な文科官僚は「道徳とは子どもに考える時間や機会を提供することである」と言う。
 ならばスラム街で拳銃を持って麻薬を売る若者には考える時間や機会がないとでも言うのだろうか?
 スラム街の若者だって考えることはできるし、考える時間もあるし、考える機会もある。
 同じスラム街の若者と議論することだっていつでもできる。
 それが道徳だと。「笑わせんな」と。
 たとえばいじめをするような学生同士が議論して何になるのか、と。 
 これは文科省のみならず、ヘーゲル哲学すら知らないサンデルさんにもガツンと言ってやらないといけないが。むしろ時代に便乗してサンデルのモノマネか。


 道徳とは普遍的であり、そこに言及しない限りは何にもならない。
 馬鹿の青春の1ページ。思い出作り。「意味がない」。

 かつての私みたいに情操教育の通じない多くの若者に対しては、デュルケムの言うように、相対悪をしないことを理論的に説得するのみである。

 

 

 

■倒錯した自民党の自己矛盾と、時代錯誤な儒教道徳への固執。

 

 

林羅山と徳川家康 (「へうげもの 22服/山田芳裕」(講談社)より)

 

 私は朱子学の林羅山が大嫌いであるが、彼が進めたような国体的な儒教道徳とは、江戸時代も戦時も、体制が国民を支配するための道徳である。

 つまりは徳川家康だけのための御用道徳。

 つまり私が今まで述べてきたような「国民のための道徳」とは真反対のものである。

 事実、世襲政治家が大分を占める自民党はそれでよいのかもしれない。

 彼らは江戸幕府や戦時の貴族院を目指そうとしているのかもしれない。

 それでも、日本人には徳川幕府や儒教道徳に対する誤解や知識の欠如があり過ぎる。

 つまり江戸時代の道徳とは、「士農工商」の身分制度であり、今の時代には完全に逆行した道徳なのである。

 つまりあなたが江戸時代で、穢多非人(えたひにん)の家に生まれれば、一生そのままである。

 安倍首相は安倍首相だが、ビートたけしはペンキ屋から、YOSHIKIは呉服屋から絶対に転職できない。

 あなたも絶対に家業を継がなければならない。

 また、貝原益軒の「女大学」では、女性は男性への絶対服従を余儀なくされる。

 それでも儒教には仁や礼、形式的な美しさがあって、道徳ではなく、一つの学問として学ぶのであれば全く悪くはないが、もし「日本国民のすべてが一切の自由を放棄してもよい」というなら、学校で儒教道徳をやってもいいと思う。

 

 また同じ儒教でも、江戸時代に「民間で」流行った陽明学というのがあって、こちらの権威で、テレビにも出られている林田明大先生から「私の後継者になってほしい」と言われたが、私はそもそもパウロ-スピノザ経由の魂であり、儒教にはスピリチュアル的に遠いので丁重にお断りさせて頂いたが、このように儒教とは道徳として押し付けるのではなく、一つの教養、文化、たしなみとして、知っておいたら、教養と道徳のある人になれるというものである。

 

 しかし、このような国体的な明治政府の弾圧に反発してきた自由民権運動から派生した今の自民党の政治家たちが、先祖たちの運動を全否定して、自らを幕府や貴族として、体制側に回って、こともあろうに林羅山よろしく儒教道徳で国民を支配しようとしているのだから、その自己矛盾と無知・無思想・無哲学、馬鹿さ加減はたまらない。

 

 今日の民主主義に、国体的な儒教道徳を持ち込むこと自体が完全に無知・無思想・無哲学であり、ナンセンスである。

 小林よしのりも私に近い立場であろうが、「立憲主義」という概念やアイドルを利用して「自己正当化」するのは、キリストやヘーゲルによれば、まさに「非道徳そのもの」であって、無知・無思想の極致であり、うなづけない。

 自民党はもはやかつての自由を掲げた「自由民主党」ではない。

 国民に国体的な儒教道徳を押し進めて、国民だましの移民・売国・増税の方針を採る「世襲集団」である。

 

 

■「道徳」とは英雄譚ではない。


「樽を住処とするディオゲネスといえども、この世界の住人であることに変わりはなく、個人になにかを要求することは、まさに邪になること ― 個にこだわること ― なのだから。」(ヘーゲル 著・長谷川 宏 訳『精神現象学』より)

 

 道徳とは普遍的なものであって、「1億分の1のヒューマニズム」ではない。

 つまりドラマ化されたヤンキー先生と同じ人生は、ヤンキー先生しか歩めない。

 道徳の時間で「王、長嶋がすごいだろう」と女子に教えても、彼女たちの人生とは関係ない。

 人それぞれ道が違うのであって、また、違うことこそがその人の意義であり、その人の尊厳である。

 

 

 

■学校に行くこと自体が道徳教育

 

 クールジャパンなどなくても日本のアニメやゲームそれ自体、人気があるように、馬鹿丸出しの犯罪集団である文科省が余計なことをしなくても、「学校に行くことだけで社会を学ぶことができる」とデュルケムは言う。

 

「道徳教育はもっぱら家庭の任務だという俗説があるが、私は、児童の道徳的発達において、学校が果たす役割がもっとも重要でありうるし、またそうあらねばならないと考えるからである。…家庭は、社会生活の見地から子どもを形成するようには、作られていない。」

(デュルケム著 麻生誠/山村健 訳「道徳教育論」)
 

 つまり、学校に行くことそれ自体が道徳教育なのであって、家にいては社会を学ぶことはできない。

 つまり、先生とか親の責任だけでは全くない。私みたいに道徳に精通していないなら、先生も余計なことはしなくていい。

 また、美輪明宏さんは「人生は学びの場」とよく言う。

 ただ、社会と違うことは学校には逃げ場所が少ないことである。

 社会であれば、いじめからもブラック企業からも逃げることができるが、学校はそうはいかないから、刑務所にならないよう、相応の配慮が必要である。

 だが、儒教道徳を以て、「刑務所化しよう」としているのが今の文科省であり、自民党なのである。

 海老名香葉子さんもすさまじい戦争体験をされ、悪い人ではないのだが、修身を復活させるなど、余計なことを言われてしまった。彼女が委員を務めていた教育再生会議が当時言っていた標語など、刑務所化そのものだ。

 

「善と義務という抽象的な言葉を…繰り返したり…するのにとどまるだけでは、道徳のおうむ返しにすぎない。」
「児童を道徳的に形成する方法は、…きわめて一般的な道徳的格言の数々を児童に向かって繰り返すことでは決してない。」(デュルケイム著 麻生誠/山村健訳「道徳教育論」)

 

 そもそも彼女の娘さんの泰葉自体が、「極めて」道徳的ではない。

 

 学校なんて長い人生の本当にどうでもいい短い一通過点に過ぎないし、事実、戦後教育に「謝ってほしい」と言う曽野綾子さんも、文科省の存在自体に否定的な日下公人(くさか きみんど)さんも、そのスタンスであるし、すべての人が自分の人生の「道」をまっとうしたいなら、まっとうすべきであるから、そうあるべきである。 

 

 

 

 


■10月31日 追記  和解と融和の心
 

 日本中を震撼させた相模原障害者施設殺傷事件の植松容疑者の猟奇的な行動力に関しては、バタイユに感化されていた三島由紀夫が言う「若者の死への衝動」に近いが、若者には観念的に「こうだ」と思ったらそのまま突っ走ってしまう傾向がある。
 私も若いころは知識が足らず、一つの概念に捉われて社会全体を見渡せず、心ない行動をしていた一人である。
 それでいて若い頃は、気力、体力、そして他者をなきものにしようとする意志は旺盛であり、未熟な信念を行動に移してしまう条件は整っている。
 そして、それを縛るものはヘーゲルやデュルケムの言う「社会性」という道徳しかないという話を10年以上もしてきた。
 ただ、私は左派論客、たとえば「『はだしのゲン』を学校の図書室に置け」という立場の大谷昭宏のような人たちを自分とはさほど縁遠いと思ってはいない。
 つまり、子どものころ丸刈りにされ、精神論や忍耐を叩き込まれたら、大人になったらそれに抗(あらが)うよう生きるし、逆に私みたいに子どもの頃にマンガばかり描いて、ファミコンやって、また学校では「はだしのゲン」ばかり読まされて、哲学的な人の道、道徳を全く教わらず、若い時期に恥をかいたら、それを知りたいと思う―。

 テレビで道徳の必要性を否定する橋下徹も、自著やブログで批判してきたが、専門性が違うというだけであって、つまり私が知っていて彼が知らないことがあるように、彼が知っていて私が知らないことがあるのは当たり前であり、もし私が総理大臣であるなら、即断で橋下徹を法務大臣か行政改革担当大臣に任命する(法務大臣は全く重要ではない役職と思われる人がこの国には大半だろうが、裏で暴走している某部署を御(ぎょ)することのできる毅然とした人物が必要なのである)。

 

 また、私のブログは厳しい批判によってこれまでに多くの読者が離れた。だが、カントを知っている人にとっては当たり前だが、批判とは哲学的にとても重要なことなのである。

 

「批判を欠くと、理性はいわば自然状態にあるようなもので、その主張や要求を貫徹しあるいはまたことを確保するには、戦いによりほかに途(みち)はない。これに反して批判は、一切の決定を自分自身の制定した基本的規則から得てくる。そして批判のこの権威には何びとも疑(うたがい)を挟み得ないのである。このような批判こそ、我々に平安な法的状態を与えるところのものである。」(カント著 篠田英雄訳「純粋理性批判」より)

 

 そしてキリスト教には「汝の敵を愛せ」という教え、黄金律があるように、田原総一朗もある意味ではレスペクトしている。

 

 

 

    

  「LOGiN 1991 No.15(アスキー)」、「メディア・ウォーズ」(田原総一朗著、講談社)

  

 

 

 私もガキの頃はよく田原氏の本を読んだ。そして、田原氏は今で言うIT分野のホリエモンに近く、当時は情報化社会の自己啓発本を出しており、まさにそういった本のハシリであったが、どうも田原氏は哲学で論じられる道徳・倫理というものを完全に「誤解」しているようである。

 すなわち、彼が批判するような、個や自由を否定するような日本特有の企業風土、社風引いては村社会、それらに付随する固定観念、そしてかつての内向きな日本人の風潮は私の批判するところでもあるから。

 

 (田原氏が絶賛する日本のアイドル文化も、十分内向きでドメスティックであるのだが!)

 

 私が若い頃からメディアの寵児(ちょうじ)であった田原氏が、「道徳・倫理という言葉が嫌い」というだけで私の提言が14年もメディアで取り合ってもらえず、結果として性犯罪はもちろん、いじめ自殺や児童虐待など、特殊詐欺のような犯罪も含めて、非常に多くの若者の人生が犠牲になった―。

 無論、若い頃の私と同様に観念的な植松容疑者によって殺害された被害者の方々なども同様である。

 また、このような犯罪の加害者の大半は男性であり、男性には「1+1=2」の理性によって、哲学などで論じられる普遍的な道徳を簡単に説明できることは言うまでもない―。


 そしてこのような経緯で、戦後の日本人がむしろ哲学や道徳に疎いから、私の存在価値があるのだと。

 また、ヘーゲルが「道徳とは自由を制限するものでしかない」という普遍的な真理がある以上、第一テーゼとして、「迫害されなければ道徳家ではない

 すなわち、田原総一朗氏や富野由悠季氏のように、いい年になっても、彼らと同じように若者に好かれようとしては、それは道徳家ではないのである。

 

 ここで整理しておくと、朝日新聞や田原総一朗を始めとする戦後メディア、戦後知識人が否定・批判したいのは、

①戦時の修身、つまり儒教道徳と

②「学校の自治」に対する国の介入

の二つである。 

 そしてこの二つに異論はなく、私も全く同じ立場である。

 ましてや私が今住むのは自由民権運動の時代に「学校の自治」をかの名高い「五日市憲法」に明記した千葉卓三郎が漂着した西多摩の地。

 その記念碑に毎年行っているのは私くらいなものだろう。

 逆に言うなら今の日本で、西多摩の大自然から私を見守っているのは千葉卓三郎くらいである。

 そもそも千葉卓三郎は私に近く、哲学・社会思想好きである。

 

 よって、戦後メディア、戦後知識人には哲学、思想が足りなく、未曾有の社会衰退を引き起こし、私がこれまで述べたような客観普遍な道徳、つまり社会性に対する素養、教養が全くなかった。

 それでいて、無知・無能な中央の権力やメディアとは、社会衰退を全力で食い止めようとするこの私を全力で無視、妨害しているのである。

 

 

 

 


 キリストが民衆の熱によって磔刑にされ、殺されたのは、彼がそれだけ道徳的に正しかったということであり、彼に続く預言者ムハンマドはそうならないよう武力を以て道徳を具現化しようとした―。一つの進化と言えよう。

 また、逆に言うなら、キリストは進んで磔刑にされ、むしろそうされることで自分の存在意義と普遍的な愛とを確信したのである。

 「磔刑にされることの喜び、そして道徳家の意義」である。
 Quo vadis, Domine? 私はどうするか?

 

  今の世界は原始キリスト教とは「全く」縁遠い「道徳なき世界」ではある。

 「キリスト教徒」とは完全に名ばかりの「似非(えせ)」キリスト教徒。

 その正体は悪魔であったり、ただの野獣である―。

 キリスト教の内面性は微塵も今の世界には浸透していない。
 そもそも三大宗教の預言者とはいずれもアジア人であるのだが。

 

 そして、私はスピノザに近く、物にも魂(アニマ)があるとする汎神論であり、同じく汎神論の八百万(やおよろず)の神、神道の国、日本に生を受けた。
 そして、神道は原始キリスト教にもよく似ている。
 原始キリスト教を作ったのは聖パウロであり、私の人生や生き方、志向は聖パウロと多くの共通点がある―。

 神道の「清き明き心」は、キリスト教の教えと合致する。
「清い者イエスに身をゆだねることができるのは、ただ、清い魂、あるいは清められた魂だけである。」

(ヘーゲル著 木村毅訳「キリスト教の精神とその運命」)

 パウロが作ったキリスト教とは、ユダヤ教とは違って内面的であり、さらに神道には教義すらなく、より内面的である。
 「和を以て尊しと為す」という日本人の精神性も、愛を以て敵対関係を克服するというキリスト教の教えそのものである。

 そして、今の日本の神道にはスピリチュアルの巨人、江原啓之氏がいる。
 しかし、今の日本のテレビはというと、その江原氏に対して「俺を呪い殺してみろよ、このデブ!」とテレビで絶叫する在日の映画評論家の方が、菅野完氏と同様、テレビで重宝されている状況ではある。
 

 日本はもはや私がこれまで指摘してきた道徳退廃による社会崩壊、「アノミー」と、それにシンクロして起こる地方の激甚災害、財務省が進める緊縮増税、自民政治家が進めるグローバリズム、移民政策と、徴用工と電通とによる「日本の韓国化」(日本のテレビはどこをつけても韓国の番組にしか見えない)、そしてGDPと国防費・軍事予算で日本を圧倒する中国とによって風前の灯火である。


 さらには極端な少子化によって若者自体の数が激減して、今や日本は「滅びゆく死すべき国」。


 そしてその事実をこのブログだけで語っても、どうも完全に無駄のようである―。
 

 今は習近平こそが強大な徳川家康のように思え、また、戦いの果てに万事を尽くして、孤立無援のままに、刀折れ矢尽き、力尽き果てて介錯を願い、だが守る人たちすらない、日本そのものが全く見えなくなってしまった真田幸村の気持ちである―。

 

 日本とは全く関係ないアメリカの風習、ハロウィンで盛り上がる渋谷の街。

 多くの若者が過疎化の地方を捨て、一極集中の東京に集まり、ただバカ騒ぎをする―。

 もはや日本という国そのものがなくなってしまったのかもしれない。

 

 

 

 ふと、そんなことを考えつつ1階に降りると、私の家の台所の後ろの上にある細長い窓には今でもたまにトカゲがへばりついているが、そのトカゲは夏場にはよく階段の踊り場の窓にへばりついていたのをよく目にしていて、そのトカゲ「だけ」が日本での私の唯一の友人である。

 

 そんな気がする。

 人間ではなく、トカゲだけが私を見ていてくれるのだろうか。

 

 

 

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