小4女児虐待死亡事件 教委・児相に責任をなすりつける「道徳全否定」メディアの責任 | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立

 

■小4女児虐待死亡事件 教委・児相に責任をなすりつける「道徳全否定」メディアの欺瞞 

 

(2019年2月2日 日刊スポーツ)


 心ないメディアに対する哲学者の直言として、(個人的には美輪明宏さんや江原啓之さんの代わりに?)あえて嫌われ者になるために、言わせてもらうが…

 千葉県野田市の小4女児虐待死亡事件で、戦後から一貫して道徳を否定し続けてきた朝日新聞やNHKを始めとする戦後メディアの、自己欺瞞(ぎまん)による学校、教育委員会、児童相談所だけへの道徳のない「責任のなすりつけ」が目立っている。

 「父親の威圧的な態度に屈した教委や児相の責任」という論調が目立つが、そのような虐待をする、道徳のない威圧的な親を量産してきたのは一体誰なのか?
 
 たとえるなら、多くの有名人が若くしてがんで亡くなっているが、責められるべきは、毎日多くの患者を診察している医者がたまたまがんの進行を見抜けなかったことよりも、発がん性物質を含む食品を市場に送り出している戦後の食品業界であり、そこからお金をもらってそういう食文化を宣伝しているテレビだろう。
 
 1980年代の団塊ジュニアの子どもが多い時代には年わずか1,100件以下だった児童虐待も、今では道徳を排斥することによって(ちょうど「道徳嫌い」の田原総一朗が討論番組などのテレビで全盛だった時代であるが)、平成の時代に激増して行って、今では極端な少子化にも関わらず、実に団塊の世代の100倍となり、2016年には12万件を数える。

 そして児童虐待で摘発される件数はそのうちのわずか1,100件程度であり、つまり残りの11万9,000件近くは、理論的に言って道徳でしか防ぐことができないのは自明の理である。

 現にこの栗原被告による虐待行為も、昨年に児相が対応した案件で、摘発されていない10数万件のケースの一つに入っている。

 よって、西部 邁(にしべ すすむ)氏が指摘してきたように、日本のメディアや戦後知識人は戦後から道徳を一斉に排斥してきたから、そのような朝日新聞やテレビ朝日、NHKであったり、道徳の必要性に言及しなかったり、何も知らずに儒教道徳と混同して著名な哲学者や社会学者が強調する社会道徳までをも排斥してきた一切の戦後知識人と朝日新聞などの御用(ごよう)学者の責任である。
 
「道徳について論じるものを道学者とよび、道学者を「生の選択肢を縮小させるもの」として非難するのが現代の習わしであった。
 とくに戦後日本ではその非難が大きくなり、とうとう道学者という言葉すらも廃語になっている始末である。
 …抑圧と反逆の混ぜ合わせとしてのマスコミ世論は、日本のこの世紀の変わり目において、ほとんど敵なしの横暴ぶりをみせつけている。
 多数者が世論という名のきわめて押しつけがましい意見を社会にあてがう。
 …世論の専制政治が最も行き渡っているのが今の日本だ、といって少しも誇張ではないのである。
 …マスメディアは第四の権力であるどころか、第一権力にほかならないのである。
 …第一権力が自己のもの以外の一切の権威…に攻撃を加えるときに何が起こるか。
 それは、いうまでもなく、社会秩序の瓦解である。
 …彼ら(戦後知識人)の唱える個人主義や自由主義は他者への冷酷な無関心と張り合わせになっているといわざるをえない。
 そうでないとしたら、彼らは価値判断の問題に、いいかえれば道徳の問題に、死活の覚悟で取り組んでいるはずである。」(西部 邁 著「国民の道徳」産経新聞社)


 自らの無知と無思想によって、戦後の日本にがんを撒き散らしてきたにも関わらず、それを、道徳を排斥してきたメディアの影響下にいることしかできない、末端の弱い職員だけにすべてをなすりつけようとしている。
 

 社会学の代表格であるデュルケムは次のように言っている。
「もし道徳的環境が腐敗していれば、教師自身もそのなかに生きているのであるから、かれらにもそれが浸透しないわけにはいかない。…社会じたいが改革されないかぎり、教育の改革も行われないのである。」(デュルケイム著・宮島喬訳「自殺論」)

 教委の不手際(ふてぎわ)、児相の不手際も当然ある。だが、今回は親がモンスターペアレント化しており、DVもしており、たとえるなら、振り込め詐欺を見抜けず、結果として加担するような行為をしてしまった銀行員を責めるよりもまず、「一体どこの誰がこのようなモンスターを作り上げたか?」が問われるべきである。

 私も教委が父親に恫喝されて、心愛(みあ)ちゃんが「父親に暴力を振るわれている」と書いたアンケートを渡したことに激しい怒りを覚えた。
 つまり、教委には親に脅されてもブレないような、確固とした行動規範がなく、結果的には警察が犯人に情報を流して、殺人に加担しているのと同じであり、彼らは「再発防止」と言ったが、目黒の結愛ちゃんと同じことが起きている。市や教委に対する苦情の電話も800件を超えた。

 だが父親にアンケートを渡してから1年近い歳月が流れており、その間、学校や近所が虐待に気づけなかった。
 また、「暴力は嘘」という心愛ちゃんの書面を疑いながらも帰宅を認めた児相の問題も発覚し、教委だけに重い責任があるとは言えず、また、私は今回のケースはむしろ長期間悲鳴を聞いていた近所の通報義務違反もあると思うので、誰かを責めるのではなく、道徳観が崩壊した社会全体に問題があったと考えるべきである。

 

 よって、結論としてそのような社会にしたメディアと戦後知識人の責任が最も重い。
 野田市の教委の責任も、児相の責任も重いが、大元の責任はそれを両者になすりつけようとして自分たちだけを良心の高みにおくメディアと戦後知識人である。 

 また心愛ちゃんは、児相の職員に書面について聞かれても「お父さんとお母さん早く会いたい、一緒に暮らしたいと思っていたのは本当のこと」と答えており、身体に傷がない上、通学の状況も良いため家庭に返してしまったのであって、毎日多くの虐待に対応しなければならない児相にとって、すべてを100%的確に峻別することはできず、超能力者でもない限りは防ぎようがない。
 

  

 (2月6日 フジテレビ「直撃LIVE グッディ!」)


 事実、フジテレビの「グッディ」では6日に児相の問題を取り上げ、児相の不手際を叩こうと「尾木ママ激怒」というテロップを出していたが、当の尾木氏はというと全く激怒しておらず、むしろ私以上に児相に同情的であり、私に近くて、局とは違う見方をしている。

「『(児相が)今抱えている事案は大変だった』って言うでしょ。児相の職員が大変なことは事実なんですね。それに追いまくられていて、「早く処理したい」とか。だから他の対応しているのだって皆そうなっちゃってるんだと思いますよ。そこらへんの構造的なところもあって、『こんな児相に誰がしたのか』っていう。そこを僕、問われないといけないと思います。」(尾木直樹)

 

 一方で児童心理司の山脇由貴子さんは児相の対応を批判しているが、全国にあるすべての児相に、彼女と同レベルの、完璧な対応を要求するのは到底無理がある。

 また、児相が忙しい合間に栗原被告のようなクレーマーを長期間相手にできないし、それはすべての人が、忙しい中で働いている時に、面倒な客が来た時に対する対応もそうであって、たとえばすべての学校の先生が、暴走族に入っている問題児をすべて完璧に更正できるわけでは全くない。

 さらに同番組ではカンニング竹山氏が「大人の教育の必要性」に触れ、道徳に否定的なメディアや戦後知識人ではなく、一般的な芸人さんの認識が私にようやく近づきつつある。

 また、NHK「ニュース7」では心愛ちゃんの事件の中で、弁護士のツイートを取り上げたが、前述したように児童虐待はほとんど摘発されないため、法ではなくてもっぱら道徳の領域であるにも関わらず、意図的に国民を道徳の必要性から目をそらさせて、さらには「スクールロイヤー」を取り上げて、「学校をモンスターペアレントから法的に守ろう」という、児童虐待とは全く関係ない的外れな対策を取り上げている。
 

 この「スクールロイヤー」の放送の中でNHKは、親がLINEで自分の子どもがいじめられないように学校に対して文書を要求したことを問題視している。

 確かに親の行為は行き過ぎであるが、子どもを守ろうとする親に対して、そういうかたちで要請しないように理を説けばいいだけの話であって、LINEいじめそのものについては何の対策にもなっていないし、「LINEいじめについて、学校は当事者ではないので関係ない」と助言した弁護士も、学校に半ば職務放棄を勧めているに近く、そもそも親と学校とを対立の構図にしているのが問題であって、かつデュルケムの言う「社会を学ぶ場である」という学校の役割についても、完全に無知である。

 NHKはこの放送で、意図的に児童虐待からいじめに議論をすりかえているが、そもそもがいじめも「無視、悪口、仲間はずれ」などほとんどが違法ではないので、何も知らない弁護士では全く手の打ちようがない。


 そして、NHKの言う「学校を法廷闘争の場にしよう」とすることは、東国原氏が述べた「学校教育をすべて機械化、AI化しよう」ということと同じくらいナンセンスであり(東氏が言っているのではなく、そういう動きがあるということだろうが)、同級生が人間であり、先生も人間である様(さま)を見て精進していくのが学校であって、それがいらないならば学校はすべて破壊して、通信教育にすればいいだけである。

「道徳教育はもっぱら家庭の任務だという俗説があるが、私は、児童の道徳的発達において、学校が果たす役割がもっとも重要でありうるし、またそうあらねばならないと考えるからである。…家庭は、社会生活の見地から子どもを形成するようには、作られていない。」(デュルケム著 麻生誠/山村健 訳「道徳教育論」)
 
  そして、朝日新聞の御用学者やNHKの弁護士が何を言おうが、心愛ちゃんが家庭に戻ってからは、あとは100%栗原勇一郎被告の「道徳の問題」である―。
  
 だが逮捕される前の栗原被告には親権があって、当然基本的人権もあるので、彼を24時間365日監視したり、ましてや拘束することなどできない。
 唯一心愛ちゃんを父親から守る術は、父親が道徳的になることだけである

 1970年代以降から突如として現れた「人格障害」は、カラーテレビの普及や戦後の道徳排斥による道徳の崩壊の時期と重なるし、心愛ちゃんを殺害した栗原勇一郎被告は、私より4つ年下の団塊ジュニアで、アニメとゲームの世代であり、白黒テレビで「月光仮面」を見たり、文学少年が多くて価値観が共有できる団塊世代のマインドとは異なり、いわば価値観が多様化して情操教育が足りない世代であって、栗原被告には社会思想家ルソーの言う人としての憐れみであったり、キリストやヘーゲルが重視する赦(ゆる)しの心が完全に欠落している。


 無論、このような事件を起こす以上、これら相対善の徳目ではなく、ヘーゲル的な「相対悪をしない」という「制限」としての最低限の道徳であるが、今の日本人のメディアで私が理論的にそれすら伝えることを許されないというのが、道徳の言論の自由のない今の日本のメディアの現実なのである。

 栗原被告は道徳なく淡々(たんたん)と虐待をする「無機的な心」の人間であるが、観光振興を担う財団法人に勤めているときは、「腰が低くて丁寧」であり、「愛想が良かった」という(朝日新聞)。

 しかし、山脇さんが「虐待ってすごく中毒性が高くて、依存性が高いんでよね。虐待する親は子どもを取られると困る。なぜなら虐待できなくなっちゃうから。」と話すように、栗原被告には二面性があって、履歴書の「趣味」のらんにマスクデータとして「児童虐待」があり、いわば趣味がゲームの人にとっては、「全くゲームができなくなる」ということであって、無機的かつ自己本位的な欲求である。
 そして、最低限の道徳も、哲学も、個もない、戦後メディアと全共闘世代が作り上げた物質的な時代に、とりえのない屈折した人間が、そうしたことでしか自らの欲求を発散できなくなってしまっている。

 無論、栗原勇一郎被告の刑事責任をそのままメディアの非とすることはできないが、このケースに限らず、社会問題化している児童虐待の激増が背景にあるのであって、現にこの事件も、昨年に摘発されなかった十数万件の1つに過ぎなかったのである。
 つまり児童虐待全体の母数が、平成に入ってからだけで100倍にまで増え、また、ここ10年だけで10倍にまで膨れ上がっているのだから、目黒の事件や今回のような残酷なケースも、当然母数の増加に伴って生じてくるのである。

 このように道徳のない親を量産して、児童虐待そのものを増やし続けてきた、メディアに第一の責任がある。
 そして、自分たちだけを良心の高みにおいて、教委や児相の末端の弱い職員だけに責任をなすりつけようとしているメディアのあざとさが腹立たしくてしかたない。
 私はそのような戦後メディアに対し、栗原被告と同じような激しい怒りを覚える。
 
 またNHKが勧めるように、いくら弁護士がツイッターで「子どもを助ける」とツイートしても、「法は家庭に入らず」が原則であり、法や人権では、摘発されない段階の児童虐待を止めることはできず、むしろ十数万件もの無数にあるケースで、道徳がなくて親権のある親たちとの法廷闘争となり、人権闘争となる。

 そして児童虐待でも偶発的であったり、暴力の程度の違いなど、いろんなケースがあって、それら法廷闘争に100%勝ち続けていく確信などどこにあるのだろう? 

 また最終的にそれら親たちに勝ったところで、それらの子どもの面倒を誰が看るのか?
 そしてそこには、親と子どもが仲良くやっていくという「道徳的な和解」という当たり前の解決策はない。

 無論、昨今では「離婚するのに有利になるから」と言って、夫の貯金や浮気の証拠を画像として残すよう勧める道徳のない評論家もいるが、夫婦は所詮他人としても、血のつながった親子間でも、盗撮や盗聴をして証拠を残すという道徳のない殺伐とした社会を、「和を以て貴(とうと)しと為す」という、笑顔の絶えない日本人が本当に望んでいるのか? だが物を自分で買うことのできない幼い子どもにそんなことができるわけがない。

 いずれにせよ、道徳的に和解するしかない。

 朝日新聞や憲法学者の木村草太を始めとする、道徳を全否定するすべての在京の左派メディアや戦後知識人が「子どもの人権」と言っても、小さな子どもはMe Too運動の女性やLGBTの同性愛者のようにはデモを起こすことはできない。
 そしてTBSの「ひるおび」で山脇由貴子さんが、「子どもが交番に駆け込むべき」と言っていたが、どこに交番があるかもわからない幼い子どもに言うのは相当無理がある。

 

(2019年2月7日 日刊スポーツ)

 昨年11月に大阪市東淀川区で30歳の無職の男が2歳の義理の娘に暴行を加え死亡させて逮捕された事件で、2月6日に強制性交の容疑でも再逮捕された。

 2歳児であれば、左派論客の言うように人権を求めてデモを起こすことも、交番に駆け込むこともできない。

 この今西容疑者は、愛想の良いサラリーマン風の栗原被告とは正反対の、髪を染めた柄の悪そうなタイプである。

 だが二人とも、見た目はモテそうだから、男を見る目がなくて、子どもを守れない女性にも問題があるのかもしれない。

 事実、今西容疑者の妻は夫をかばって夫の虐待を否定しているという。

 そして、児童虐待はもはや戦後メディアが広めた流行と言っていいのかもしれない。

 また、私自身、多くの児童虐待のケースを調べてきたが、東京はもちろん、地方では千葉と大阪が非常に多い。

 森田健作と橋下徹にはなんとかしてほしいが、田原と同様、折り紙付きの「道徳嫌い」の橋もっちゃんの政党には極めて望み薄だろう。

 

 

 

 

 

(2019年2月2日 朝日新聞)

 

 仮にSOSが見つけられて、今回だけ教委や児相が適切な対応を取っていたとしても、それは一時的な保護に過ぎず、栗原被告が道徳的にならない限り(この社説を書いた朝日の編集者に対して強調するが)、この段階で第三者が親子関係を切り離すことは不可能であり、時を経て、父親の表向きの改心によっていずれ引き取られて、その後、社会的に「虐待をしている」とレッテルを貼られたことに逆上して、遅かれ早かれ殺していた可能性も少なくない。

 事実、親族宅に預けても、栗原被告がそこまで行ってしまっているというのだから、極論としては彼を殺すか、あるいは私が彼を道徳教育するかしかなかった。


 私が今回この記事を書くのは、2004年から何を言ってもわかってもらえない道徳的な言論の繰り返しにもなるし、メディアとそれを信奉する大半の日本人、あるいは人権主義者や道徳を不用とする学者や弁護士との戦いになるので相当嫌だったが、今回は「どうにかできませんか」という、心愛ちゃんだけのことを思って、唯一どうにかすることができたが、メディアや戦後知識人など、多くの人たちの無知と無理解とによってそうさせてもらえなかった哲学者の無念と忸怩(じくじ)たる思いで、書かせてもらった。



■都立町田総合高校、体罰動画問題 
 

(1月25日 フジテレビ「バイキング」 )

 この問題に関しては、まるで道徳のない弁護士の法廷闘争のように、「生徒が悪い」と「先生が悪い」の二項対立で論じられるが、私はどちらに対しても赦(ゆる)しが必要であるという立場である。
 感情的に生徒を殴る体育会系の顧問による体罰が後を絶たないが、社会全体に道徳がなくなっており、モンスターチルドレンもまた増えている。

 まず武井壮やWEBメディアなどには「体罰は絶対に良くない」とする論調があるが、大哲学者のヘーゲルが「すべての牛が黒く見える夜なのだ、といいはなつのは、おのれの認識力の欠如を無邪気にさらけだしたものというしかない」と言うように、「○○は××だ」という絶対律はないのであって、言葉で言って理解させるのがベストだが、言葉で言ってもわからず、さらに生徒という立場でありながら、校則違反であるピアスを指摘されても反省するどころか、先生に対して暴言を吐き、動画を撮影しながら、体罰をさせるまで執拗に挑発するという、度を超えた悪行に対しての正当防衛としての体罰は、教師に対する情状酌量があって然るべきであり、結論として例外的に赦(ゆる)される。

 また、「体罰は絶対に良くない」のようなカントの定言命法はヘーゲルによって批判されている。

 つまりカントの言う「嘘をついてはいけない」という道徳律があっても、ヘーゲルによれば、それは状況によるのであって、たとえば犯罪者から質問された時には、その道徳律を守る必要はなく、逆に真実を言ってしまえば、犯罪に加担してしまうことになる。


 しかしそれでも(武井氏はそうではないとしても)、逆の立場に立って物を考えられない、WEBメディアによる、追い詰められた教師に対して赦しのない、「体罰をすべて否定する」という、道徳がなくて、かつ認識力が欠如した、硬直した論調がネットで散見される。

 

  だが、学校の一教師にだけに神のような完璧さは求められず、むしろ教師も過ちを犯す人間の一人であり、そういった人間としての教師を見ることもまた勉強であって、事実これだけ罵られて黙っていたら、教師としての職務に支障をきたすし、教師の威厳というよりも、自分自身の人間の尊厳として、このまま自分に対する挑発を続ける口を止めないわけにはいかない。

 無論、暴力は絶対にしてはならないが、これだけの悪行をしていながら、生徒は口を切るくらいの怪我しかしていない。
 逆に暴走族に入っているような、身体的に成長してしまって、無分別で攻撃的な青少年に対しては、このような言いがかりによる不遜な態度に対しては、口で言っても全く聞く耳を持たないことの方が多く、体罰で対応しなければならないケースも例外的にあるし、逆にここで彼らに対する愛のムチを振るっての体罰を怠れば、増長したこの生徒がゆくゆくは、若者の摘発が倍増している特殊詐欺などの犯罪に手を染めるだけの話である。

 私は、この子に対しては体罰をふるわず放置することの方が無責任であると思う。 

 つまり、この生徒がこのまま社会に出て、普通にこのような悪行を続けていけば、たとえば強盗で捕まった日大サークルの学生たちのように、いずれ取り返しのつかない問題に遭遇することは容易に想像がつく。

 これら生徒をスルーせず、身を挺して人の道を説くためにあえて体罰をして、非行の道から救おうとしたこの教師には情状酌量があって然るべきである。

 また、これら青少年は、特殊詐欺犯のように「先生を挑発して体罰をさせる」というマニュアルで動いており、つまり書かれた本に添ってだけ、道徳なく、目的のためだけに行動するのであって、この手の手合いにはどんな道徳を説いても無駄であり、学校では法で取り締まれないから、逆に言えば体罰しかない。

 よって、この生徒だけを叩く風潮も強いが、YouTube上には人を挑発したり、自作自演をして人を誘導させるような動画も山のように上がっており、この生徒も、江原啓之さんの「子どもは何も悪くなっていない」という言葉もあるが、そうした社会環境にいるだけであって、その中で一つの非行をしているに過ぎず、未熟な生徒に対する赦しもまた必要である。
 同時に、体罰をしてしまった教師に対する赦しも必要なのであって、「本当にこのガキども連れてきてくれりゃあ、一回シメてあげたいなと。ホントに大人ナメてんなというか」と言うヒロミさんのような感情もまた、人として理解されるべきである。
 
 人生経験の乏しい若者は、若いうちはどこまで許されるかがわからない。
 若者は予言者ではないので道徳的な失敗を身を以て繰り返すしかない。
 かつて「私は月に109万円必要な女」と豪語していたという、俳優の高嶋政伸の元妻である美元(みをん)さんも、再婚して子どもができた今ではそういう経験を経て、いろんなことを知り、だいぶ大人になっている感がある。
 東国原氏が「学校の機械化、AI化の流れ」を口にしていたが、とんでもない。アンミカさんの言うように、学校とは「社会を学ぶ場」であり、人間を学ぶ場であって、そういった学びの動画を見せられているだけの話である。
 尚、教師による一切の体罰が禁止されているのは、元高校教師の藤井秀一氏によれば、昭和22年の学校教育法でもともと体罰は禁止されていたが、平成25年に文科省から新しい通知が出て、厳正に守りなさいというかたちに変わったのだという。そして、それは「生徒の人権」に対する過剰な配慮である。
 確かに昨年も体育教師や運動部の顧問による行き過ぎた体罰が相次いだ。

 しかし、「アノミー」(道徳観の崩壊による混沌状態)は、教師のみならず生徒を含めた社会全体に及んでいるのであって、何事も中庸(ちゅうよう)、バランスが重要なのである。
 
 このように道徳なく、今の左派メディア、左派論客の思うがままに、法と人権だけで押し進めていけば、このように生徒の人権を守るか、教師の人権を守るかの「人権闘争」になってしまう。 
 そして、道徳的な和解のない二項対立は不毛かつエンドレスに続き、無論、今のところは生徒の人権だけを守り続けることによって、長時間労働で成り手の少ない教師がますます減ってしまう。

 「道徳を破壊する道徳、それが人権主義」 (西部 邁「国民の道徳」)

 また、もし「体罰がすべてダメ」であり、「この生徒だけが正しい」となれば、生徒は教師を陥れても良いということになる。

 道徳を全否定してきたすべての左派メディアと戦後知識人は、「生徒のやっていることは全く違法ではないから、それでもいい」と開き直るのかもしれんが。

 しかし、子どもも学校で社会を勉強できなくなり、学校が機能不全となって、つまり通信教育で済む話となり、社会に出てからの青少年犯罪も増える。
 換言すれば、道徳的な体罰は、このケースのように、場合によっては赦されるが、道徳のない体罰はダメである。
 同様に、道徳のないモンスターチルドレンもまた問題であるが、かつてメディアが「ストーカー」という言葉を面白おかしく使い始めたように、この生徒にレッテル貼りしてしまえば、本当にモンスターになってしまう。

 

 結論としては、「自分たちだけが正しい」として、誰彼と悪者を決めてそれを糾弾し大衆を味方につけて、社会に分裂を招こうとし、いわばキリストやヘーゲルが批判する「道徳のない自己正当化」を以て、道徳を排斥してきた偽善的な戦後メディアにはない「赦しの心」が最も必要である。

 

 

 





■2月10日 追記 国連の権威を利用して、日本の道徳を破壊しようとするマスコミ

2月8日の「プライムニュース・イブニング」は万死に値する。

 同番組では反町理らが、「国連の子どもの権利委員会」の勧告により、「子どもに一切手を上げたらダメ」、「愛の鞭も一切ダメ」と繰り返していた。

 この番組を美輪明宏さんや曽野綾子さんが見ていたら、必ずや怒りだすだろう。
 

 美輪さんは「感情で叱ってはいけないが、理性的に叱りなさい」とよく言われるし、曽野さんは「子どもは悪いから学校に行く」と言っている。
 しかも反町は曽野綾子さんを番組に招いて、その言葉を直に聞いていたのである。
 そもそもこの人自身、パワハラの疑惑がある人であるが。

 事実、都立町田高校で、「炎上させようぜ」と生徒たちに陥れられ、撮影されながら罵倒されてやむなく体罰をふるった教師だけを非難しているのは、WEBマガジン「WEZZY」の宮西瀬名氏くらいであり、ツイッターで彼に賛同する国民はいない。

 しかし、フジテレビは問答無用で「国連の子ども人権委員会が言っている」からと言って、「日本人の親だけは一切の体罰をしてはならない」というのである。

 そもそもが、日本は独立した民主国家であり、国の政策を決めるのは国民の皆さんであって、「国連ではない」。

 そしてジャーナリストの今井和男氏によれば、国連の人権委員会は左翼の巣窟(そうくつ)であり、またサウジアラビア、スーダンなど議事進行を妨害したい人権侵害国がメンバーであり、リビアが議長を務めるありさまだったが、その同委員会が、女性の人権がない人権侵害国ではなくて、なぜか日本にフェミニズム運動を持ち込んだのだという。
 子どもの権利委員会もまた、日本だけに対して、しつけられていない未成熟な子どもに過剰な権利を要求し、日本の社会秩序と道徳とを破壊して、日本の地方で暴走した活動を続けている。


 こちらのアメブロでmariaさんが指摘されているように、「子どもの権利」という概念が、左翼NGOによって利用されているのが実態である。

 子どもの権利条例(左翼に悪用された児童の権利条約)

 そもそもが日本以上に人権や自由が保障されている国などなく、むしろ日本に必要なのは他の国にあって日本にはない宗教倫理であり、つまり道徳である。

 しかしそれを、道徳を否定したい日本の左翼NGOが、国連にはたらきかけて、それをメディアを利用して言わせているのである。

 「子どもの人権」は、自由と人権が保障された日本でやることのない、存在意義のない左翼、日本のメディアを支配する無知で無思想な全共闘世代が、社会に分裂を煽るだけの、不要なジェンダーやら男女共同参画で日本の社会を混乱させ、地方の財政を圧迫した「フェミニズム運動」の流れで行われている。

 無論、左翼の目的は、ヘーゲル哲学においてはロベスピエールやイスラム国と同じであり、「道徳のない、社会背景を無視した自己正当化」である。
 

 但し、当然保守でも、哲学を知らなくて道徳的ではない人が日本の言論では多数であり、逆に左派と言われる人でも、宮崎駿、宇都宮健児、湯浅誠など、「自己正当化しない」道徳的な人たちもいるので注意。

 「フェミナチ」と呼ばれる堂本暁子千葉県知事は、借金が2兆4000億円もある千葉県の2004年度の「男女共同参画関係事業」の予算に、なんと5835億円を計上した―。
 ところで私の道徳提言に賛同した埼玉県知事上田清司はジェンダーに反対の立場である。

 そもそも、国連人権委員会の左翼思想にはルーズベルト米大統領の妻、エレノアによるところが大きい。
 
「中西輝政・京都大学教授は…「彼女(エレノア)の周辺には、アメリカ共産党員やコミンテルン関係者が集まっており、その人脈が…国連に侵入して、『赤のネットワーク』を構築していったと指摘している。
 …日本人は国際的権威に弱く、欧米から来たものをやたらとありがたがるところがある。
 …日本におけるジェンダーフリーの浸透に大きな影響を与えているのは国連である。
 …「婦人の地位委員会」が…開発途上国における女性の救済というコンテキストを離れ、女性の基本的権利がすでに保障されている先進国で、家庭とそれを支える伝統的価値を崩壊させる方向に暴走しているのである。
 …エレノア以来引き継がれてきた左翼思想に凝(こ)り固まった無国籍の「国連公務員」たちが、先進国の伝統文化を破壊するためにさまざまな干渉を行うのが、国連人権委員会の実態である。
 …日本のウーマンリブ運動は左翼と縁が深く、…ルーツは六〇年代後半の全共闘運動にあると言われている。
 …こうした国連のフェミニズム改革に対して、「ノー」を突き付けているのがアメリカである。
 …日本は…政府そのものがフェミニストに乗っ取られ、国連の推進するフェミニズム世界革命のシナリオを最も忠実に実行する国になりつつある。」
 (今井和男(東京工業大学卒、NGO運営) 「男女平等バカ」宝島社)


 ツイッターでは、フジテレビやNHKの世論操作によって、野田市の事件と子どもの権利委員会を「利用」して、大人の道徳ではなく、「子どもの権利」だけを訴える人だらけになってしまっている!

 人として未熟な社会の構成員である10代、20代の犯罪率が高いのは変わらない。
 体罰は基本ダメだが、言葉で言ってもわからず、マニュアルで大人を陥れようとする都立町田高校のような例外もあり、「体罰=悪」と絶対化することなどできない。

 

 フジテレビは「ほんのちょっとの、しつけでもダメ」と言っていた。

 しかし、それは怪しい「国連の子どもの権利委員会」の単なる主観であり、度を超えた内政干渉である。

 何も知らない子どもは、社会によってしつけられなければならず、「自由論」で有名な社会思想家J. S. ミルの言うように、子どもが取り返しのつかない重大な犯罪を起こすのを待ってから、刑務所で道徳を教えるのでは遅すぎるのである。
 若者の特殊詐欺は少子化にも関わらずこの1年で倍増し、交番襲撃、SNSを利用した誘拐、脅迫、有名大学生による性犯罪などの犯罪が後を絶たない。

 

 フジテレビが万死に値する一方で、2月7日のテレビ朝日の「ワイドスクランブル」では児相の実態を取り上げ、児相の人手不足や事務作業の多さ、また専門家ではない児童福祉司の問題を指摘しており、児童心理司である山脇由貴子さんの具体的な対策も垣間見え、高く評価できる番組内容だった。

 私は「国連の子どもの権利委員会」ではなく、曽野綾子さんや美輪明宏さんを支持する。
 必要なのは過剰な子どもの権利ではなく、親の道徳意識である。

 

 今まで通り、普通に、中庸に、子どものしつけをしてほしい。