20170724

川端龍子(かわばたりゅうし)明治日本画家の挑戦 #3

川端龍子(かわばたりゅうし)自己中心的で野心的な日本画家

川端龍子(かわばたりゅうし)
Wikipediaよりライセンスを確認して転載

川端龍子(かわばたりゅうし)は東京の浅草寺本堂の龍の天井画を描いた日本画家です。大衆を意識して大きな画面と大胆な構図、裏が無く躍動感のある作品が特徴です。日の丸の戦闘機を描いたり金閣寺炎上の話題作、大衆の心理を意識した作風で名をはせました。

作品「鳴門」では大きな屏風に青い海、渦潮の線の躍動感が明快で爽快さを表し海鳥が屏風に生命の息吹を与えています。人間にはどうしようもできない大きな力を龍子は描いたのです。

川端龍子は1929年青龍社というサロンを作りました。

「繊細巧緻なる現下一般的の作風に対しての健剛なる芸術に向かっての進軍である。」

川端龍子はアグレッシブな感情と正直な欲望を画面の中に描きました。

初期の川端龍子はゴッホの物真似であるかのような油絵を発表しました。若いころの川端龍子は新聞社に就職し挿絵を描いて画力を鍛えていきました。川端龍子は大衆へ情報発信する仕事に就いていた経験からアイデアを思いつき日本画に転向しました。川端龍子が日本画で発表した作品は「力強く大きな画面」で人の目を引き付けました。

川端龍子は多くの人に見てもらうためには「会場芸術」といって大きな画面で力強くて鮮やかで目立つ絵が良いと考えたようです。従来の日本画は「床の間芸術」と対比されました。

川端龍子は旧態依然とする日本画で目立って儲けようとしていたと思います。川端龍子も人間ですから目立って稼がなければいけません。伝統を重んじる日本画家にしてみれば川端龍子は卑しく映ったのではないかと思います。

川端龍子は中国に渡り日本の飛行機を絵にしました。絵の中の戦闘機に自分自身が乗り込み日の丸の戦闘機の背景には長江の風景が広がっています。
(中国人にしてみれば燃やして処刑したいほど、憎い作品でしょう・・・。)

川端龍子は自分の欲望(目立ちたい、金が欲しい)を否定せずに作品の中に放出したのではないかと思われます。家族の不幸をも芸にする川端龍子はまるで当時卑しいとされていた芸人であるかのようにも見えます。しかしそんな不幸でさえ美に置き換えてしまうのですから、しかも民衆が飢えているときに作品を作る金銭的余裕もあったり、つらいことがあっても自分のための作品づくりに励んでいたようです(もしも飢えた民衆を想うなら高価な画材は使えなかったはずですからそこは日本画家から卑しいと言われても仕方ありません)。

川端龍子は常に自分を表現していたともいえましょう。欲望から離れられない人間の我執を表しているかのようです。

大衆を意識した川端龍子、しかし彼は大衆のことを愛しているというよりもカモとして見ていたと私は思います。いかにしてカモの注目を浴びるか。それは施す愛ではなくて愛を得る欲望そのものだと思うのです。自分が大衆に与えるのではなく、大衆から与えられることを追求した、そのナルシシズムは低俗だと言わざるを得ません。

金閣炎上では(不謹慎にも)赤々と燃える金閣寺を描きました。重要な建築物が燃える様子にわくわくして想像を描きたてられた川端龍子をどう見るかは意見が分かれることでしょう。これが現代なら・・・何を描いていたのでしょうね。少なくとも災害を作品にしてみたらどうなるだろうと考えて世の中の反応を予測してみて袋叩きにあわないエピソードを捜したのではないかと思います。

「これは絵になるぞ!(スクープだ!)」

このように考えた川端龍子の考えはネタを掴んだ新聞記者と同じ感覚だと言えましょう。

そこに他者への思いやりなどかけらもいことは容易に察することができます。しかし新聞や週刊誌の卑しいゴシップを好む人間真理を川端龍子は利用したともいえ、やはり絵で金を儲けるためには日本画家にも卑しさが必要だという結論になったのでしょうか。

富を得た川端龍子の作品は尽きることのない欲望のごとく巨大なものへとなっていきました。誰よりも目立ちたい川端龍子にとって浅草寺の天井画を描くことは願ってもいないことだったでしょう。川端龍子は朝の9時から夜の9時まで創作活動に励みました。

川端龍子の日本画は弟子の高頭信子(2017年時点で存命の人物)に受け継がれました。

※今回はまるで筆者が川端龍子を嫌いであるかのように誤解を受けるかもしれませんが、私が川端龍子を目にしたのは今日がはじめてであり川端龍子のことは名前すらまったく存じ上げませんでした。筆者は好きか嫌いかというところで物を見ているわけではなく、心の本質に迫り龍子が何を考えていたかという本音を分析すると、お世辞にも上品とは言えない日本画家でしたのでそこは正直に述べさせてもらいました。心が卑しくても気高い龍を描けるのですから日本画家など所詮は芸人と同じとみなされても仕方ありません。見ている大衆はそこまで気が付かないか、当時は学の無い人がほとんどでしたから「目立つ=覚えがよい=金になる」という図式が成り立ったのだと思います。卑しい気持ちがなければ絵も高値をつけて大衆に売れないという芸術界の本質に迫ったという意味では日本画の世界に風穴を開けたともいえましょう。

※この文章は持たざる者から見た印象から適当に書いてありますので本気にしないでくださいね。