宝塚を見てると、たまに「これ普段使わないなー」「でどういう意味?」って単語が出てきます。日々是勉強。

宝塚大劇場で公演中の花組『MESSIAH』。

お芝居中で松倉勝家が松島源之丞に言ってる「(有馬の)子飼いか」って意味を、私は知らなかったので書いておきます。ただのメモ。




島原藩を松倉が治める前の藩主が有馬家。

子飼いとは「未熟なうちから面倒を見て一人前にすること」なので、有馬の元で育った(元)武士ってことなんでしょうな。

子飼い(コガイ)とは - コトバンク
こがい【子飼い】
① 動物を子の時から育てること。また、その動物。
② 子供の時から引き取って養育すること。また、そのように育てられた人。特に商人の雇い人や職人の弟子にいうことが多い。 「 -の者」 「内の-の久松め/歌舞伎・お染久松色読販」
③ 未熟なうちから面倒をみて、一人前にすること。また、その人。 「 -の部下」

松島 源之丞 - Webcat Plus
松島 源之丞 (まつしま げんのじょう、天正5年(1577年)? - 寛永15年2月28日(1638年4月12日))は、江戸時代前期の人物。 

島原の乱の一揆軍の原城本丸大将(天草四郎と同じく)・三ノ丸出丸大将。 キリシタン。 

名は時次、実次、興家、貞家、貞次。 別名に馬場監物。 乱当時は有家監物入道休意と称した。 

洗礼名はシャコーべ、ディエゴ。 子の松島半之丞と共に有馬晴信に家老として仕えた。 晴信の死後も有馬直純に仕えたが、改宗を迫られて有家村に入道して隠居した。
 
島原藩 - Wikipedia
島原は戦国時代、有馬氏が治めていた。キリシタン大名の有馬晴信は関ヶ原の戦いで東軍に与して本領を安堵されたが、慶長17年(1612年)、岡本大八事件により、甲斐国都留に幽閉の上、切腹に処された。しかし子の直純は、父の晴信と疎遠で幕府とも親しかったことから、事件の累が及ばず遺領を嗣いだ。直純は慶長19年(1614年)、日向国県藩(延岡藩)に加増の上、転封となった。 

その後しばらく幕府領となったが、やがて元和2年(1616年)、松倉重政が大和国五条藩より4万石で入る。松倉氏は戦国時代、筒井順慶の家臣として仕えた。特に重政の父・松倉重信は島清興と共に「右近左近」と称されるほどの名将であったが、重政は父に似ず暗愚で、領民に苛酷な政治を敷き、キリシタンを厳しく弾圧した。また、彼の代に島原城が築かれ、政庁は日野江城からこちらに移った。 

そして重政の後を継いだ勝家は父以上の苛酷な政治を敷き、キリシタンを厳しく取り締まった。勝家の残酷さを示すものとして、年貢を払えない者には蓑を着せて生きたまま火あぶりに処すという、いわゆる「蓑踊り」という処刑方法があったという。また、年貢を払えない者の子女を捕らえて処刑したり、幕府の歓心を得るために4万石の取立てを10万石と申告するなど、島原はまさに地獄そのものだったという。この苛酷な勝家の政治に遂に領民の怒りが爆発し、寛永14年(1637年)に天草四郎を総大将として有名な島原の乱が起こる。

有馬直純 - Wikipedia
慶長17年(1612年)、父・晴信は岡本大八事件の責任を問われて(直純は早期の家督継承と、妻・国姫の意向を受けてキリシタンとの縁を切るべく、父を処断するように幕臣へ訴えたともされる)、改易のうえ死罪となったが、直純は家康との縁が深かったために連座を免れ、父の所領を受け継いで肥前日野江藩主となった。同年の江戸幕府による禁教令に従い改宗し、領内のキリシタンを迫害した。
また、慶長18年(1613年)4月25日には、父とその後妻・ジュスタの間に生まれた8歳と6歳の異母弟(フランシスコ(富蘭)とマティアス(於松)という洗礼名のみ残る)を殺害している。
しかし、これらのことから良心の呵責に耐えかねて嫌気がさし、幕府に転封を願い出て、慶長19年(1614年)7月に日向延岡に5万3千石の所領を与えられた。

しかし、ちゃんと調べていたら、しーちゃん(和海しょうさん)演じる松島源之丞が、実際は島原の乱当時けっこうな年齢だったとわかってしまったよ。

宝塚版ではヒロイン・流雨の兄という設定なので、おそらく20代…。そうすると有馬の子飼いにはなれなくなってしまうという事実…。

そこは突っ込んではいけないやつです。

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