沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩の終わり 現代という時代を超えて生きる withコロナでもコロナ後でもなく

2020年11月24日 15時44分35秒 | 政治論

 「吾人は須らく現代を超越(せざるべからず)すべし」、とは、高山樗牛の箴言だが、超越するにはその「現代」をはっきりと見据え、認知し、かつ正確に認識しなければ事は現に実を挙げる事にならない。

 「現代(げんだい)は、その時代言及される時点において、現に今、進行している時代」

とウィキペデアは記述しているが、これは正確には「現在」であろう。時代として捉えられる「現代」は多分現在進行形に限局せず、既に過去に属しながら現在に強い影響を及ぼしている時代をも含めるのが妥当だと思われる。

 しかして、現にその過去を事実として改竄し、あったことをなかったことにし、あるいは所謂「修正」を加えて自家規範のうちに組み込み別の歴史をでっちあげる、ということが行われている。この動きに連動しかつ帯同する「post truth」なる世界的現象がこの10年弱の「現代」で、見るから顕著になっていった。そこに見るのは大方「嘘」、あるいは個別的価値観からの既成(既定)価値観への攻撃と讒謗、誹謗中傷、つまりは暴力的劣性分子の騒擾、街宣行為、といった、理論も何もないし当然に論理的な説得力や倫理的な感応力などかけらもない、そういうモブ(全体主義に加担する大衆、烏合の衆)が蔓延る時代を目の当たりにすることだった。

 ネトウヨ、日本会議、歴史修正主義者、あるいは政権における私家政治の横行、嫌韓嫌中思潮、沖縄琉球差別、官僚の国策的思考停止(辺野古唯一)、原発再稼働、原発セールス、核禁止に関する原爆体験国の不可思議な在り様、優生思想と淘汰主義、大企業優遇政治(アベノミクス)、あり得ないトリクルダウンによる国民騙し、モリカケサクラ事件、学問の自由への牽制、メデアマスコミへの政治干渉、批判的ジャーナリズム力の減退、政府による国家危機への劣悪対応、こういう現象事案は現代の、最も容易に見つかる負の部分に違いない。

 米国大統領選でトランプが事実上敗北したのだが、バイデン同様彼もまた7000万票以上を得ているわけで、これは米国民主主義の圧倒的勝利というようなものではなく、従って世界のpost truth現象に決定的な終焉を告げたものでもない。

 ある種の声にならない声や叫喚、「ええじゃないか」といった理屈で測れぬ情念の迸りは、無茶苦茶な暴動やpost truth的でたらめでなく、正当な社会運動として成立させるに、当然一定の指導的理論を導き手として必須のものとする。しかし現代的特徴はかかる英雄的先導媒体を集中的に支持する基盤の不成立に結果する。

 一人孤高をもって悦に入る、悲嘆にくれるといった屈原の絶望は、その重さにおいて現代ではより複層化した苦悩として精神界の諸相にシジフォス神話的に現れていると思われる。

 ところで最も現代的で致死的な病的傾向と言われる悪性新生物の襲撃である癌腫の出来は、過剰な繰り返される生活上の習慣的な行為が多く原因として考えられるというエビデンスがある。喫煙、飲酒、塩分過剰摂取、運動不足、野菜果物不足、などだ。又、それはその出来から10年程度あるいはそれ以上の時間的経過をもって増殖期に入り、目に見えて症状化する。つまり所謂早期発見というのは1mm程度の大きさ(増殖期以前)になった時点での発見で、其処に至るには何年かの時間が積みあがっている。そして最も重要な事実は、それの(大きさでなく)侵食程度が如何ほどかという判定によってある程度生死を分ける深刻さに見極めがつくということ。

 現代という癌腫はそれが我々にどれくらい深く関わっているかで絶望の度合いを決すると思われる。ここで考えられる最も重大な危機的事案は言うまでもなくコロナ禍であり、その対応如何でどこへ行くかもわからない、癌腫以上に厄介な、長期に亘る自然界の襲撃と見做すところだ。

 少なくとも我々は、コロナ禍を予防的に臨床治療的に、あるいは症状軽減や後遺症対策の完全な解決という視点で見たとき、人類がこれにほぼ全く至っていないことを何となく知ってしまっている。従って、国家政府や識者、専門家などが現在執り行っているあらゆる発言公言の数々を殆ど信用ならないものとどこかで感じているし不幸なことに、歯止めの効かぬ政治環境(機能不全の政権下の劣悪な政治環境)が我々の首を真綿で絞めているという、そういう馬鹿げたジレンマ実態に置かれている。

 つまり、現代は我々を身動きならぬ不自由な生存生活状況に封じ込め、いよいよ絶望的な環境の中に窒息せしめようとしていると考えられる。withコロナ、コロナ後への夢見がちな逃避、いずれもこういう、現実に無理筋で馴化しようとあがく我々自身の倒錯した精神状況を表している。

 現代と言う時間軸を超えると言う事、それはできないことではない。時間が相対的なものである以上、我々はむしろ易々とそうすることができるのだ。だが、意味もなく超えるわけではあるまいし、そこに超えるべき必然がある。捲土重来、自己救抜、衝動、いずれにしろ現代を超越することは、飽くまでも「自由」を手にするためであり、「色即是空空即是色」の惑いと眩暈へ決別するためだ。

 超越した時間上の自己にあって、宇宙の無限やら、ビッグバンやら、数十億の地球の破壊と創世の歴史やら、あるいは古代ローマの人々の暮らしぶりやら、大和の国の古代人の生業やら、我々の視野には大方人間の歴史や地球の歴史、宇宙創造の物語など、数限りないほどの知的精神的広がりが見透かされ、尽きない興味に溺れ死ぬ勢いだ。

 安部がさくらで検察に眼を付けられ始めた。今の検察が司法の一翼を担って、公正で明瞭な捜査手際を見せてくれるか疑問なしとしないが、一応それなりの「やってる感」は見えないこともない。GoToは明らかに国家政府のコロナ対応の不手際、乃至感染症に対する「両是論」めいた愚策を打ったという、どちらかと言えば失政を意味している。日本式は確かに一種の抑制を効かせた効果と言えなくないが、PCR等検査体制については諸外国の方が理にかなったやり方で感染拡大を防いでいる。しかしいずれにしろ、世界はコロナで恐慌状態に陥っているとしか言えない。この現代の閉塞と危機的状況は当分収まりそうもなく、人間の生業も限定的にしか展開しない。しかし精神は必ず自由を求めて、その本来の力を発揮しようと超越的にこの束縛の現状を打破する。

 弁証法は現代を具に分析しかつ止揚して飛躍する。現代を超越するのは、多分不可知論において「無知の知」から発した「知」による翼以外はない。「知」を否定する輩からは何の答えも得られはしない。(つづく)

 

 

 

 

 



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